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第五章 5社目:”人間関係”のリセット

5社目:日系化学会社 
年齢:32歳 
在籍期間:6年11カ月

退職願を片手に上司の福岡が呆然とランチに出かけた日の午後、最終勤務日を指定した「引継ぎスケジュール表」という名のエクセルを福岡へ送り、Outlookの予定表にも誰もが見える形で「最終勤務」その後の全日程を「有給休暇」と入力し、退職事実及び希望日程を既成事実にする工作活動を始めた。また、社内で声が大きい&口が軽い人数名に“ここだけの話”として退職することを伝えると、その情報は“ここだけの話”の伝言ゲームで順調に伝わっていった。
3回の退職手続きを経験しているベテランの私にかかれば、部下の辞職に慣れていない相手はもはや赤子の手をひねるようなものである。福岡が正気になった時には私は「6月3日最終出社、6月末退職」という既成事実で外堀は埋まっており、慰留はおろか最終勤務日を遅らせることすら難しい環境を作り出していた。

大学同期博之は迅速に動いてくれ、電話してから1か月後には採用内定を得ていた。年収こそ大幅に下がったが、古き良き日本の“年功序列式”給与テーブルだったこともあり、何年後にいくらもらえるのかがほぼ正確に把握できるため、収入に対する見通しが立てられた。また、借り上げ社宅などの福利厚生が充実しているのも手当文化がない外資系出身者からすると有難かった。

外資系=英語が堪能という誤解から海外事業向け人材として採用されたが、まずは国内事業を勉強すべしという古い考え方があり最初の2年は営業担当として関西支店に配属され、田舎の顧客を回る生活をした。私は葛飾柴又生まれという根っからの関東人のため関西人に苦手意識があったが、この時社会人になって初めて”ザ・サラリーマン”になった感じがして、これぞ“地に足がついた生活”だと実感していた。
この会社はほぼ転職者がいないためよそ者に排他的で極めて馴染みにくい雰囲気だったが、3年目には約束通り東京本社の海外営業部へ異動となり、その一年後にはブラジル駐在の内示が出て妊娠している妻を残し引継ぎのため半年間ブラジルの現地法人で勤務した。子供の出産に合わせて一時帰国し、家族帯同で本赴任となるはずだったが、当時ブラジルはコロナ大爆発中であり連日の家族会議の末、ブラジル赴任を断る決断をした。
社会人になって最長の勤務期間4年が経とうとする極めて順調に見えたこの会社での生活もここで風向きが変わることになる。
英語はもとよりポルトガル語も社費で学習させた上に、高い手当を払ってまで半年現地で引継ぎをさせ、いざ赴任というタイミングで会社命令を拒否する人間への会社の怒りは相当なものだった。それから会社を辞めるまでの約三年間、私は管理社員になっていたにも関わらず組織の売上にはほぼ影響を与えない極めてどうでもいい零細顧客の寄せ集めのような担当に回された。一日1時間も仕事をすればその日の仕事が終わってしまうような、まさに絵に描いたような窓際生活だった。加えて職場の人間関係も破綻していた。部内では当然ながら村八分になっていることに加え、コーポレートからも会社命令を拒否した戦犯のような態度をとられるようになっていた。考えようによっては一日1時間の仕事量で、深夜まで残業している同僚とほぼ同じ給料がもらえている極めて割のいい仕事なのだが、空気のように扱われる人間関係は耐え難いものがあった。

私は約4年ぶりにリセットボタンを押す準備を始めた。

当時の窓際生活、コロナ禍での在宅勤務&飲み会がない(ハブられているのでそもそも呼ばれないが)環境を“機会”と捉え、転職のためにMBAをとることにした。与信は回復したが貯金はないため教育ローンで学費を捻出した。業務で英語が身についていたため、少しでも箔をつけるべく海外のビジネススクールを選択した。そして卒業までの期間を最短の2年半として設定し、毎朝5時から勉強し、日中も勤務時間に勉強し、夜も遅くまで勉強する生活を続け、MBA取得と同時に転職できるように、退職する一年前からビズリーチへ登録し転職活動を平行して始めた。そしてMBAを評価してくれた外資系企業へ内定を獲得し、ビジネススクール卒業と同時に退職及び転職することに成功したのである。

5度目の転職で年収は1,000万を超えた。

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