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憲法記念日に言いたいこと

 今日、5月3日は憲法記念日です。新聞などのメディアでは日本国憲法を守ろうというのと、改正しようという両方の意見がにぎやかになっています。テレビのように、あまり報道しないメディアもありますが。というか、テレビは大事なことは何も話さないので、これはしかたないですね。

 日本国憲法でもっとも改正の是非が注目されているのは、第9条です。これが平和憲法とよばれる根拠となっています。でも、これを改正して、軍備を持てる普通の国にしよう、といった主張がなされてもいます。逆に守ることで平和国家を維持しようというのもあります。

 でも、ぼくが言いたいのは、そのことではありません。護憲派とよばれている人たちですら、憲法をないがしろにしていませんか、ということです。そして、そうであれば、憲法第9条を守ることが難しくなるのではないか、ということなのです。

 第9条は第2章にあたります。しかし、より重要なのは第3章、すなわち第10条から第40条までだと思います。そこに、「国民」の基本的人権について書かれています。そしてこのことが、第9条を支えているのだと思うからです。

 憲法がないがしろにされていることの1つが、死刑制度です。第13条ですが、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。当然ですが、犯罪を犯した場合、公共の福祉に反するわけですから、その権利が尊重されないことは理解できます。しかし、第36条には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」とあります。死刑は残虐な刑罰ではないのでしょうか。
 また、死刑に関連して「遺族の感情」が持ち出されますが、では死刑囚の「遺族の感情」はどうなるのでしょうか。少なくとも、追加的に遺族をつくってしまうことは、「公共の福祉」に反すると思います。また、第14条にある「法の下の平等」にも反すると考えます。
 何より、第11条にある「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」というときに、公共の福祉に反しなければ、死刑囚であってもその権利は妨げられないと考えられます。むしろ、死刑そのものが公共の福祉に反するとも考えられます。
 例えば、死刑囚であった永山則夫は獄中でいくつもの著作を書いてきました。決して社会から平等な扱いを受けていなかったにもかかわらず、連続強盗殺人犯として罪に問われ、死刑が確定しました。しかし、拘置所で様々なことを学び、自分の人生を振り返ることで、作品を書いてきました。しかし、それは死刑によって途中で終わることになります。
 著作に限らず、生きていれば犯罪防止のための知見や、犯罪が行われた背景などが得られます。何よりその人が生きているだけでも、肉親や友人は何かが失われずにすむでしょう。
 しかし、そういったことが顧みられず、「死を持って償う」ようなずさんな論理だけで、死刑が存続しているし、護憲派とよばれる人々も死刑廃止まではなかなか言及しません。

 学校もまた、憲法をないがしろにしているしくみです。
 第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」はずなのですが、お金がないと学校にいけない、というのが現状です。少なくとも高等教育には多額の学費がかかります。塾や予備校もあります。大学無償化が求められる背景でもあります。
 しかし、問題はそれだけではありません。第13条「すべて国民は、個人として尊重される。」とありますが、多くの学校の校則は、生徒を個人として尊重しているのでしょうか。そして第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とありますが、本当に差別していないでしょうか。女性が劣後する名簿がまかり通ることに、差別ではないと言い切れるでしょうか。第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。」とありますが、これはどうでしょうか。
 校則は服装や髪型について、過剰に規定し、あるいは行動についても制限を与えることがしばしばあります。
 まして、不登校問題については、不登校になったとしても教育を受ける権利があるのですが、そのことに対する対応はあまりなされていません。
 こうしたことも、あまり問題にされません。

 最後にもう1つ。信教の自由です。
 第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とあります。そして第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とあります。
 しかし、オウム真理教事件では、人々はこれに反する反応をしてきました。まず、オウム真理教の教祖をはじめとする幹部と実行犯が罪に問われることというのは当然のことです。
 とはいえ、その信者に対する差別には注意が必要でした。信教の自由は保障されるべきであること、そして公共の福祉に反しない限りは、それが守られるべきであること。それは、罪に問われていない信者に対しては、その自由と権利は保障されるべきものでした。
 しかし、自治体は住民票の受け入れを拒否し、その子供たちは教育を受ける権利を阻害されてきました。こうしたことに、護憲派は声をあげませんでした。
 そこには、護憲派の二重基準を感じることになります。その二重基準が、護憲の説得力を失わせることにもなると思います。
 では、統一教会はどうなのか、ということもいえるでしょう。カルト教団であっても、公共の福祉に反しない限りは、認められるべきだと思います。逆に統一教会は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」ことを乗り越えようとしてしまいました。それはオウム真理教も同じことです。信者が公共の福祉に反しない限りは、信仰の自由があるし、それは統一教会でもオウム真理教でも同じですが、宗教組織が公共の福祉に反している点においては、組織に対しては何等かの対応がなされるということですし、その組織において公共の福祉に反する行為をしている人々には何等かの対応がなされるということです。

 護憲派とよばれる人々も含め、日本国憲法が、第3章においてどのようなことを規定しているのかは、あまり考えられずにきました。
 さすがに、同性婚や選択的夫婦別姓、性別変更といった問題については議論が進んできました。障害者の権利ももっと顧みられるようになっています。
 他方で、生活保護バッシングのように、「健康で文化的な生活」という権利がないがしろにされていたり、外国人差別や先住民差別が行われていたりもします。
 それから「働かざる者食うべからず」ということわざがありますが、日本国憲法では「働く」ことと「食う」ことは別の問題になっています。働ける人がそれなりに働く義務はあったとして、その事とは別に「健康で文化的な生活」を営む権利が保障されています。それはとても重要なことです。
 他にも考えるべきことはたくさんあります。
 憲法第9条を守る、ということだけで思考停止していては、だめなのです。
 反面教師として、「反シオニズムはいけない」ということで思考停止してきたドイツが、イスラエルによるパレスチナ侵攻を目の当たりにして、国際的地位における失墜につながっています。
 日本国憲法を通じて、私たちがどのような権利を持っているのか、きちんと考えなければいけないし、それをせずに思考停止を続けていれば、いつかはなしくずしてきに第9条は失われます。

 
 

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