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巨漢の怪人の学校支配と丘の上の流儀 【丘の上の学校のものがたり ⑤】

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丘の上の学校での4回目の春に、少年は、高校生になった。丘の上の学校は中高一貫校だが、ちゃんと高校の入学式があるという。

中高一貫校の制度と雰囲気のなかでは、学年が一つ上がるという以上の意味はないように思えたが、入学式がおこなわれると聞いて、新高校生の少年たちは、自分たちに向けられている学校からの意図には、内容まではわからないが、高校生というステータスに自覚を促す仕掛けがあることを感じていた。ただの好奇心あふれる青二才の生徒のままではいけないのだろうか。

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1970年の学期末には、丘の上の学校では授業を中断しての全校対話集会が開催されるという創立以来初めての出来事があり、学校全体が揺れ動いたその出来事の余韻が残る4月に迎えた入学式なので、学校としても、生徒たちに丘の上の学校らしいソフィスケーテッドされたユーモアで何らかのメッセージを送ってくると思われた。

全校対話集会がおこなわれ、学校と生徒との間で形成され合意が交わされた「生徒の自主活動の自由」などについての議論や話し合いが学校内でこれからもいろんな形で継続しておこなわれることは、職員も生徒も感じていた。だが、そのようなことについて強く反対する意見が同窓会や理事会などの学校の現場の外側で喧しくなってきていることも、春休みには少年ら生徒たちの耳に入ってきていた。

そして、元公共放送の解説委員であった学校長の辞任が伝わってきた。学期末の騒動での心身への著しい負担の重なりによる辞任とも、学期末の騒動に対して断固たる反対の姿勢を取っていることを理事会が在校生のみならず学校関係者に示した結果であり、事実上の馘首とも言われていた。次にどのような校長が赴任してくるにしろ、最初に接触する生徒は、新中学1年生と新高校1年生ということになった。

前年度の学期末の騒動を経験した生徒たちのなかでは、少年たちが入学式で一番初めに新校長に相まみえることとなったわけだ。

例年通り、高校の入学式は、中学の入学式とは別に行われた。父兄の参加は、ほとんどなく、新高校生300人ほどが、およそ1か月前に全校対話集会が行われた、丘の上の学校の象徴ともいえる古色蒼然とした威容を誇る薄暗い講堂に集められ、生徒たちは静かに新校長の登場を待った。
やがて、講壇の左手から、身長は180㎝以上、体重は100キロはあろうかという、周辺に僅かに白髪を残す禿頭で金属の反射光が煩わしい眼鏡を掛けた、大柄で肥満の初老の男性が、早足で現れ、マイクを握り壇上の中央から身を乗り出すように、大声で一気にしゃべりだした。

君たちは、私が来るまでスポイルされてきた。そのいちばんの出来事が、前の学期末に行われた全校集会というものであり、学校の正しい秩序が失われ、学校で勉強をするという君たちの気持ちはないがしろにされてきたのである。私が学校長としてきた以上は、これからは、君たちが安心して勉強できる学校の状態に戻す。

といった内容が、講堂の壇上から、マイクを通した大声で一方的に語られ、講堂内に反響した。新高校生たちは、予想もしていなかった新校長の容姿とスピーチの内容にびっくりしながらも、この学校の伝統にしたがい、まず、相手が何を言おうとしているのかを見定めるために息を殺して静かに聞いていた。

新校長は、新高校生たちからの突発的な反発や反抗的な態度を予想し、それに対する威嚇を準備していたのか、生徒たちに嚙みつかんばかりの獰猛な面差しを向けていた。しかし、予想に反し、これといった反応のなさを、自分の発言が受け入れられたとまでは思えないにしろ、一応の成功、威圧の効果とみたらしく、もういちど新高校生たちをねめまわしひとりでうなずき、壇上から去っていった。

新高校生たちは、新しい担任に先導され、新しい教室に向かった。

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教室では、新しい担任の自己紹介と初めての出席確認がとられた。
少年の新しい担任は、初老の体育の教師で、日に焼けたやや面長の顔に鋭い細い目と筋の通った鼻、唇の薄い口元、瘦身ながら筋肉質の身体で、教卓に座ると独特の教師としての威厳があったが、けして威圧的ではなかった。
生徒たちの様子をゆっくりとうかがいながら、担任としての新高校生へのはなむけの言葉と高校生活の進め方の説明があった。

そして、入学式の新校長の挨拶に触れ、諸君も入学式で聞いたように新しい校長、教職免許を持たないので、校長代行とお呼びするようですが、その校長代行の方針は今まで学校が行ってきた生徒たちへの対応とはだいぶ違うようなので、これからの学校での過ごしかたには気を付けてください、ということを穏やかだが口舌のはっきりした厳とした態度で添えた。その端正な口ぶりからは、校長代行の生徒たちへの威嚇的な姿勢を彼自身は全面的には支持していないニュアンスも伝わってきた。

少年の今までの担任は、現代国語や英語が専科の文科系の教師だったが、今回は体育会系の教師で、生徒への接し方もまったく違っており、思想や信条もおそらくは、今までなじんできたリベラル的な趣きとは違っていた。
ただ、少年は、この担任に、生徒たちひとりひとりの様子を観察しながら接してくる姿勢や生徒たちへの基本的な信頼があることを感じていた。少年の結論としては、この担任は、思想や信条は少年とはまったく異質であり、真逆かもしれないが、人としては信頼に足る人だろうということだった。

それに比べると、あの校長代行の印象はひどいものだった。どう考えても、あの一方的なしゃべり、しかもわざわざやっているのか、子供じみたとしか言いようのない威圧感の演出はいただけないものであり、この丘の上の学校の出身と語っていたが、この学校の伝統には、自分の好きなことを自分流でやるという前提に、他者への敬意、他者がどういう人で何をやろうとしているのかを重んじるということがあるはずなのだが、校長代行の挨拶には驚くべきことにその伝統がまったく感じられなかった。

少年たち生徒は、校長代行により、いきなりスポイルされた被害者にされ、同情され、しかも救ってまでくれるという。こんな一方通行の発言は、発言者の思惑があっての同調への誘導でしかなく、青二才の生徒でもすぐにわかる子供じみた仕掛けだった。

校長代行は、同窓会の意向を組んだ学校理事会から送られてきたという話だったが、初対面の生徒たちに高圧な姿勢を前面に押し出して臨むというとんでもない人物を送り込んできたものだというのが少年たちの初対面の印象だった。職員や生徒たちがこのところ抱えている、学校の在り方についてのややこしい気持ちを無視して、力づくで一気に学校の体制を変えてゆくという方針が、同窓会や理事会のメンバーたちの価値観なのか何らかの目的があっての思惑なのかは、少年の蒼い頭ではまったく理解の及ばないことだった。ただ、力づくで大勢のひとがかかわるものごとを動かすという、初めて経験する事態に戸惑うばかりだった。

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校長代行の方針と施策は、生徒たちや学校全体を自分ひとりが支配する、ということにつきるだけで、バカなほど明確であり、一方的な独断専行の暴力そのものだった。

前期末の全校対話集会は全面的に否定され、そこで合意された内容はすべて一方的に反故にされた。

校長代行の勝手な正しい学校モデルに従って、次々と施策が実行されることとなった。

今までなかったし、伝統的にもないということを誇ってきた、生徒規則が突然発表され、それを刷り込んだ生徒手帳が発行され、そこには写真付きの身分証明書が入り、生徒たるもの常時携帯し、職員からの要請があればすぐに提示しなければならないことになった。まるで、映画で見た戒厳令下の身分証明手続きだと少年は感じた。

また、今までは、やや自由化していた制服が、登校時には必ず着用となり、年長の生徒たちのなかには、慌てて制服、学生服を買う人も現れ、黒ボタンの学校指定の学生服が間に合わずに金ボタンの既製品のまま登校しているひとまでいた。

生徒へ対する監視と抑制は強まり、学内外での政治活動の禁止と罰則、風紀を乱すとみなされた生徒への罰則、授業中の雑談の禁止、許可申請をしない放課後の3人以上の生徒の会合の禁止、等々、丘の上の学校とは思えない学校体制への強制的な変更が初年度の間に行われた。

校長代行の方針と施策が誰の目にもはっきりするうちに、学内で存在感をあらわしてきたのは、全斗委(全学斗争委員会)で、少年のふたりの卓球部の先輩も活発な活動をはじめ、以前よりは生徒たちの支持を集め出していたようだった。しかし、校長代行のふたりへの弾圧は熾烈を極め、ほとんど停学状態が続き、賛同するものは罰則で威嚇しようとしていた。

例年通り、春には文化祭が行われた。既に印刷されていたプログラムも校長代行からチェックが入り、出展停止のグループ展示や、開催禁止の催事が多く生じてきた。文化祭のパンフレットはすでに印刷してあるために、そのパンフレットにある出展停止や開催禁止の項目には、墨を塗ることとなり、表紙にもクレームが入り、文化祭実行委員会は抗議の意味を込めて白地に文化祭と書かれただけの表紙にした。この年度の文化祭パンフレットは、その後、「墨塗りの文化祭パンフレット」として100年以上の学校史でも有名になった。

文化祭での反校長代行デモが、全斗委の学内での表立った活動の最後になった。校長代行との対話を求め、校長室へのデモを仕掛けたが、1階の事務室前のもみ合いで、教職員により止められた。少年の担任も止める側の一員として加わり、怪我をしていた。文化祭終了後の初めての朝礼で、担任は文化祭でのデモと小競り合いについてデモ隊を批判的に語り、包帯だらけの片手をさびしそうに生徒たちに見せた。

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文化祭の開催以前から、春の大型連休に行われる文化祭という学外からの来校者の目のある場で、学内で起きている校長代行の独断と専制による教職員生徒への弾圧を訴える動きがあるであろうことは、学内では良く知るところであった。校長代行はこの機会を利用し、反校長代行派の生徒たちを一般生徒たちと一線を画し引き離すべく、文化祭で行われたデモには、全校集会を企てた左翼系のOBたちの指導があったなどの虚実を交えた報告を理事会や学内でおこない、校長代行の施策に反対する生徒や教職員への弾圧の正統性を一気に強めることとなった。

特に、政治活動を行う生徒への弾圧は厳しく、学外でおこなわれるデモに教師が監視に赴き、生徒を発見した場合は、その生徒は停学が退学になることになった。このあと、1年後になるが、強制的に退学させられたり、学内に残っても落第させられたりする生徒が少なからず出現することとなった。
生徒への勧告や停学は、体育教員室の前にある学内の掲示板に発表された。規則に反すると中学生にも法的に禁じられている停学処分が下された。

日常では、校長代行は、2メートル近い肥満の巨体をかざして片手に竹刀をもち、学内を巡視することがあった。授業中に歓声が上がっている教室を見つけると中に入り、授業を行う態度ではないと怒鳴って竹刀を振り回し教師と生徒を威嚇した。校長代行の赴任以前から、丘の上の学校は、丘の上の動物園と言われるほど、授業中にどこかの教室から大きな歓声が聞こえてくることがよくあった。

したがって、自由な伝統で育まれた生徒たちの校長代行への反発も激しく、校長代行の学内巡視が始まると待っていたかのように教室のあちこちで歓声が上がり騒ぎが始まった。校長代行が駆けつけ教室の扉を開けると何ごともなかったかのように授業をしていることが、一日に何度も学校内のあちらこちらで起こった。特に、校長室の真上の教室の高校生たちは、わざわざ床を踏み鳴らすことを頻繁に行い、校長代行を2階にある校長室から階段を上らせて3階の教室にひき付けては、校長代行が教室の扉を開けるたびに、静かに授業を受けていた様子となり、何かあったんですかと校長代行に言うという遊びを始め、全校生徒たちのほとんどから喝さいを浴びていた。

さすがにひとりで巨体をゆすって竹刀を振り回しはぁはぁ言いながら広い校内を右往左往するというマンガじみた行動に疲れたのか、校長代行の授業中の校内巡視もだんだんと少なくなっていった。

そして、業を煮やした校長代行は、教室の入れ替えを断行した。中学1年生から高校3年生までが1階から3階にある各教室に順番に割り当てられていたことを逆にして、学年の高い、校長代行体制への反発が強い学年を1階にして、中学1年生を3階にすることとなった。これで、校長代行も校長室で安心して執務を行うこととなったが、副産物が生まれた。純心なる中学1年生が身も心も自由な伝統に侵された先輩たちの教室を見て回りながら、教室へ向かうことになったのだった。

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校長代行の蛮行としか言いようのない制度変更の喧騒のなかで、少年たちの学校生活は続いていた。

まだ、高校の入学式前、春の卓球部の合宿で、期末にあった全校対話集会への同窓会や理事会の反発が強く、リベラルだった前校長と正反対の新しい校長が送り込まれてくるんじゃないかという噂があり、顧問の先生に尋ねるとやはり浮かぬ顔でそうかもしれんなぁということだった。そのときに、君たち新高1の数学担当は、学校出たばかりの面白くてイキのいいのが来るから、楽しみにしてろよ、みんなで押しかけておっぱらうようなことにならないようになと顔をほころばせながら言った。

新学期になり顧問の先生が言っていた、学校出たての新任が緊張した面持ちで教室に登場した。やや縦に長い楕円形の五分刈りの顔に丸眼鏡、しっかりした体格だが、どこかユーモラスな気弱さがにじみ出ていた。

教壇から自己紹介をはじめ、一通り終わり、今後の授業の予定でもしゃべるかと思われたが、ぼくが今までの生涯でいちばん感動した映画は、黒澤明の『生きる』です、と、そのままその映画についての話が続き、一回目の授業は終わった。数学の教師がそれこそ一生懸命に黒澤映画の話をする姿は、高校1年生に大いに受け容れられ、永六輔にどこか似ているというので、ロクスケとめでたく命名された。

夏休みごろには、彼をロクスケと命名した同級生と少年は、ロクスケの錦糸町の下宿に上がり込んで、とっておきというサントリーのウイスキーを美味しくいただいているありさまだった。

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5月の連休前になり、丘の上の学校のイベントのなかでも最高の花である文化祭も近づいてきたころのことだ。

少年の所属する卓球部は、文化祭では代々接待部門長を務めることになっており、その年の文化祭でも1級上の高2のナカヤマさんが接待部長になった。

ほどなく、ナカヤマさんから少年に声が掛けられた、「お前には、接待部門の副部門長になってもらうからな。」少年は自分の何かしらが認められたようで嬉しく、心中秘かに喜んでいた。ところが、何のことはない、高1の部員全員が副部門長になるという前代未聞の政策がナカヤマさんにより実行されていたのだった。副部門長だけで10数人いた。

これを聞いた卓球部顧問の先生は、愉快がって、ナカヤマは面白いことを考えるな、彼には政治家のセンスがあるのかもな、と少年たちの学年の連中に語った。ナカヤマが妙なことを考えたから、お前たちもそれに乗ってやれよということだった。

ナカヤマさんの腰ぎんちゃくが一気に10数個できた、と言った先輩もいた。

ふだんから太めの体で興奮してくると童顔の顔から高音を発声するナカヤマさんの声が一段と高くなり、高1の部員に次々と接待部門関連の指令が飛び、いつのまにか、高1の部員は、全員がよく働かせられていたのだった。

少年は、文化祭で販売する弁当や寿司、飲みもの、アイスクリームなどの納品協力をしてくれる業者への交渉に赴くときに呼ばれて同行することが多かった。ナカヤマさんの交渉は手慣れたもので、前回の踏襲と今回の変更を手際よく伝えていった。
交渉時には、あいさつしながら、あの高い声を少し低くくし、相手に要望を伝えるときに興奮して高くなることで有名な自分の声をみごとに自制していた。業者の方々も繁華街の有名な中華料理店からサンドイッチ屋、街中のお菓子屋さんといろいろあったが、丘の上の学校の名前を出すと好意的に迎え入れてくれた。

文化祭の当日は、副部門長は、全員現場責任者だった。食堂、屋台、物販販売など各コーナーに一人か二人で配置され、スタッフである後輩たちを指導せよという指令だった。ナカヤマさんは、各現場を回って売れ行きなどをチェックし、売り場の変更や翌日の仕入れの調整などを行っていた。

少年は初日にもうひとりの部員と屋台のタコ焼きに配属された。

文化祭当日まで、接待部門以外の用事もあり、当日の朝にタコ焼き器に対面することとなった。ふたりともたこ焼きの経験はなく、後輩を指導するも何もあったものではなく、とりあえずどんなものか二人で、二台あるたこ焼き器に向かって練習をしているうちに入場してきたお客さんが並びだし、後輩たちには販売を指示し、ふたりでたこ焼きづくりに没頭することとなった。
気がつけば、夕方で材料も使い切り、閉店となっていた。二人とも慣れないたこ焼きで、真黒な制服は、たこ焼きの小麦粉で真っ白になっていた。いくらふたりではたきあっても、白い粉は取り切れず、そのまま帰宅し、親には呆れられた。もうひとりの相棒も同じだったという。

そもそも文化祭の前日には、たこ焼きの器材はそろっており練習ができたはずだったし、だいたい少年は前日から文化祭準備という名目で学校に泊まっていたのだった。

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少年は、中学3年生の時に親しくなった口は悪いがひとの良い読書好きの同級生に誘われ、図書委員会というものに入っていた。委員という名称はあるが、クラス委員のように選ばれたわけではなく、同好会やクラブのように自由に入ることができた。誘ってくれた同級生も剣道部に入っており、少年も卓球部を兼ねながら入ることとなった。

図書委員には仕事らしい仕事はなかった。新刊本が入れば書架に並べられるようにカバーをつけたり、傷んだり汚れた本があれば修繕した。あとは、図書館で、同じ図書委員たちとだべったり、二人いた司書の女性たちと雑談したりするぐらいだった。本の近くにいられることと他の図書委員たちもさすがに本好きでこの委員会にきた連中なので、面白かった本の情報交換をしたりすることが楽しかった。

こんな図書委員会なので、文化祭に向けて展示企画があるわけでもなく、準備することは何もなかった。そもそも文化祭に参加していないのだ。ところが、委員会に誘ってくれた同級生が、せっかく文化祭で高校生にもなったことだし、前日は図書館に泊まろうと言い出した。

丘の上の学校の文化祭の前日は、ほとんどの展示室では生徒たちが泊まって、一晩何やかやとバカ騒ぎをやることが伝統だった。文化祭の前夜は、一晩中校舎の電灯が消えず、不夜城と言われていた。その前夜の大騒ぎは聞いていたが、さすがにまだ中学生だったので遠慮してきた。そこで、高校生になったから、前夜から泊まりこもうということになったわけだ。

少年と同級生は、文化祭の準備のための文化祭前夜の学校泊許可申請を図書顧問の司書と顧問の漢文の先生に提出した。司書の女性たちも儒学者の漢文の先生も少年たちの企みを充分以上に知っていたが、許可が下りた。校長代行が就任して1か月でまだおおらかな伝統は残っていたのだった。

少年と同級生は喜び勇んで、文化祭の前夜を迎え、図書室の一角に飲み物と食べ物とレコードプレーヤーを置き、こういう時はジャズだという同級生がもってきたブルーノートを聞いて、あれこれ雑談をし、時々は、アルコール臭が漂う校内にぶらぶらと遊びにゆき、一晩過ごした。

朝起きるとさすがにぼうっとして少し頭痛がする。しかし、接待部門の仕事があり、シャキッとせねばと顔を洗いに校舎までゆき戻ってくると少し遅れて起きた同級生が図書館のある建物前に立っていた。髪はぼさぼさ、目は腫れて垂れており、服装はぐちゃぐちゃでとても見られた様じゃない。

かれが、おいと呼びかけてきて、こんな朝早くからもう女の子たちがスカートをひらひらさせてどっかの展示を手伝いに来てるぞと言った。見れば、図書館前からグランドにつづく小さな坂をミニスカートなどの女の子たちが数人おりてゆくところで、図書館前の同級生の方を振り返り、何かくすくすと笑っている。

溶けかかったアイスクリームのようになってだらしなく佇んでいる同級生は、彼女たちの方を見て言った、あ~あ、オレたち男っていうのは、将来働いてぼろぼろになった姿になっても、ああいうひらひらスカートの女の子たちには笑われる存在なんだろうなぁ。

そんなことがあり、少年は文化祭当日にたこ焼きづくりに寝不足のまま突入することとなったのだった。

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少年は、文化祭接待部門副部門長としてたこ焼きなどに忙しく、反校長代行のデモがあることを知ってはいたが、それどころではなかった。

文化祭が終わると、校長代行は、少年たちにとっては、先が見えない学校制度の変更の繰り返しで、押し付けられた規則や罰則の嵐に校内の雰囲気は重く沈んでゆくばかりだった。

少年は、文化祭明けに、3年間在籍していた卓球部を退部した。急に思い立ったことでもなく、しばらく考えていたことなので、少年自身にとっては、さっぱりした気持ちはないにしろ、淡々とした心持ちだった。

卓球部を辞めると放課後に時間ができ、少年は図書館で過ごす時間が多くなった。図書委員会は、中2から高2までの各学年3~4名の生徒たち、顧問は、最古参に近い儒学者である漢文教師、司書の女性が二人で形成された小さなグループだった。男子校の通例で、先輩後輩の区別と交流があった。

高2の先輩たちの一部は、仏教研究会という非公認同好会をつくっており、顧問は英語の教師で、しかも学校近くの寺の住職でもあった。少年はこの先輩たちに誘われ、中3の頃から仏教研究会にも入っていた。この研究会の活動は、顧問の先生が住職をしている寺にゆき庭の掃除やら寺務のお手伝いをして、あとは仏教書の研究というと通りはいいが、仏教についての雑談をするぐらいだった。雑談の場は、主に図書館で、話題も仏教にこだわることもなく、70年安保について勉強したいんですが、どのような本から入ったらよいでしょうかとかの質問に図書館の本のあれこれとかを先輩たちがアドバイスしてくれた。

仏教研究会のほぼ唯一の業績というのは、当時マスコミの大スターだった、奈良薬師寺の高田好胤管長に70年の文化祭で講演していただいたことだった。
高田好胤管長の来校講演を実現するために、高校2年生に在籍していた甥に特別研究会員になってもらったりと仏研(通称ホトケン)の先輩たちは頑張っていた。

文化祭で用意した会場は、図書館と同じ建物の2階にあり、200人ぐらいの会場に300人ほどの老若男女が押しかける大賑わいで、奈良からいらした高田好胤管長も思わぬ盛況ぶりと聴衆の大歓迎に機嫌よく講演をされていた。

が、その途中、会場の後ろの扉がガラリと急に開き、おかっぱ長髪の眼鏡をかけただらしない格好の太った男が中を覗き、「なんだ、坊主か!」と言ってガタンと扉を閉めた。急なことに聴衆も管長も唖然としていた。さすがに管長の顔色が変わったが、すぐに、関東の人はことばがきついですわ。ぼうずとはいわんで、お寺さんと言って欲しかったなぁと切り返し、聴衆の笑いを誘っていた。

このガラっと開けてガタンと閉めた男が、次の文化祭の実行委員長になるなどとはだれひとり思いも浮かばなかった。

世間も騒がしく、学校内もだんだんと窮屈になってきた1970年の梅雨ごろには、放課後は、図書館で、先輩やら口の悪い同級生や本好きの後輩たちとだべっていることが多くなり、これといった進展のないだらだらとした日が続き、夏休みとなった。

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秋になり、校長代行の独断専行の施策は次々と続き、一方で、ふつうの学校で行われる行事には力を入れるのか、2年に1回ぐらいしか行われない遠足がおこなわれることになった。

高校1年生はじめ生徒たちは中学1・2年生と高校3年生を除いて、校長代行の故郷である福島県へ1泊2日でゆくこととなった。

校長代行の息のかかっている場所にゆくというのは、生徒たちにしてみれば、腹の立つことと同時に一泡吹かせたくなることであるのは当然だった。教師たちは覚悟を決めていたが、校長代行とその周辺は、まだ、生徒たちを甘く見ていた。もしくは、自分たちの力による支配を過信していた。

一部の生徒たちにとっては、丘の上の学校の遠足を誘致した校長代行が恥をかくことさえやればよいのであって、気楽なものだった。そうでなくても、なぜ丘の上の遠足は数年に一度かというと毎回、勝手に自分を解放した生徒たちが何らかの問題を起こしてきた歴史があったからだった。
かくして、今回も福島各地や往復の列車でいろいろ起こっていた。

・宿泊した旅館の部屋に設置してあった冷蔵庫にはカギがかかっていたが、×××で×きり、中味を全部カラにした。・就寝時間に2階大広間でパンツ1丁でクラスのほとんど全員でプロレスごっこを始めた。その下では、徹夜で翌朝の生徒たちの朝食を仕込んでいる調理師さんたちがおり、あまりのバカ騒ぎとうるささに腹を立て××を持って飛び込んできた調理師さんがいた。
・どの学年でも×を手にいれるには、それなりの工夫があり、努力したが、次から次へと若過ぎる男が×を買いに来るので、店員から怪しまれるようになり、ともかく老け顔がどてらなどを着せられ買いにゆかされた。
・皆、盛んに飲み食いするので、トイレが近くなったが、トイレは遠くにあり、窓をあけて××した。
・電車では、古参の先生によるアドバイスにより、車両借り切りということになったが、車内でのバカ騒ぎは内外に響き渡り、しまいには、駅を通過するごとに窓を開けて大声を出すようなことが行われた。

以上は、少年が耳にした遠足での出来事の一部であったが、これだけでもう十分という内容だ。

遠足の引率教師はのきなみ処分され、生徒たちは、本当にすまないと考え、先生たちへ謝罪に行った生徒も多くいた。理事会により、校長代行の2割減棒が仰々しく発表されたが、理事会内部のなれ合いとしか生徒たちには捉えられず、ひどく評判が悪かった。

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校長代行による生徒たちへの威嚇的な締め付けは続いていった。一方では、学校の所有していた多摩川にあった土地を売却したり、象徴的な存在であった古色蒼然の立派な講堂を取り壊し新しい講堂を立てる計画などが発表され、高学年の生徒たちの一部からは、胡散臭い目で見られることが続いた。

そういうある日に、図書館で雑談していると、口の悪い同級生が、放課後3人以上の会合は許さないなんて言われちまってるから何にもできやしないし、何か会合でも学内でできる方法はないかなと愚痴ともつかぬことを投げやりに少年につぶやき始めた。ふたりでああだこうだと雑談しているうちに、丘の上の学校の創立者の名前を冠した研究会を作っちまうのは、どうだということになり、そうだそうだ創立者の名を冠した研究会なら集まっても代行だって文句が言えんだろうと何だか話は勝手に進み、創立者の名前を冠した研究会を発足することに決めた。

メンバーは各自集め7~8人ぐらいにして動きやすくして、顧問は、ふたりの中学3年の時の担任である英語のモリ先生に、副顧問を新任の数学の先生であるロクスケに頼むこととなった。

英語のモリ先生は、少年たちの依頼を聴くと、ほほぅという感じでニヤリとし、創立者の名前を冠した研究会の顧問を断るわけにもゆかんね、と言って承諾してくれた。もちろん何ごとも相談するようにという条件付きだ。数学の新任教師には、研究会を作ったので、先生が副顧問ということになりました!顧問はダレ?英語のモリ先生です!えっ、そうなんだ!モリ先生が顧問じゃ副顧問を断れないじゃないか!! 無事快諾を得た。

研究会のメンバーは、中3高1で親しくなったなかから人選し、声をかけたところ、皆面白がってくれた。ところが、一つ問題があった。メンバーが学校から目をつけられていそうな連中ばかりなのだ。そこで、ふつうの常識があって、こういう話を面白がるメンバーにも入ってもらうことにした。当面は、研究会を作っただけで休眠状態にした。

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というのも、校長代行の規則の遵守のみを生徒たちに求め、規則正しい学校生活を生徒たちが送ることを旨にした価値観を生徒たちに強圧的に押さえつけるやり方が多くの生徒たちの反発心をますます煽り、生徒の間でも反対意見をまとめて校長代行に挑んでゆこうという気運が強くなり、その準備のための話し合いが、一部の生徒たちにより、学校外の渋谷や恵比寿の喫茶店で頻繁に開かれるようになってきていた。

文化祭以来、表立った活動はしていないが、全学斗争委員会の流れをくむ急進派はあった。また、学校内にも学外からのセクト勢力の影響があり、一つ上の学年では、中核派と革マル派の小競り合いがあり、中核派が主導権を得ており、一つ下の学年では、赤いヘルメットのブンド系各派が共存していたが戦旗派の連中が主導権を握っているようにみえた。

少年の学年で、最も目立って活動しているのは、黒ヘルメットのアナーキーを自称する連中で、セクト色は排除されていた。だが、同級生たちをよくよく探ってゆくと学校内では全く目立たず、むしろ無欠席の地味な優等生としてふるまっている生徒がセクトが主催する大きな集会やデモに参加しているのを見たという話があり、本人にそっとたずねると実は学外ではばりばりの政治活動家だったりした。そういうふだんは隠れている活動家たちも入れると少年の学年もそれなりに人的な反校長代行勢力があった。

少年たちの上と下の学年の新左翼の流れにある反校長代行グループは、バリケード封鎖も辞さない過激派だったが、多くの生徒たちの支持を心情的には得ることがあっても実際的に協力を得られることはないことはわかっており、実力行使に出たとしても全学斗争委員会の活動やそれに与した連中と同じように過激派として一派一からげに「ごく一部の過激な生徒」として処分されておしまいという可能性しかなかった。また、実力行使を行うのならば、文化祭のような学校外の眼が注目する場所であることの認識では少年の学年と一致していた。通例であれば、翌年の文化祭の実行委員会は少年たちの学年が担うことになるので、重要なことだった。

秋も深くなり、年末も近づくと、恒例の春の文化祭が延期になりそうな気配が伝わってきた。校長代行としても、先の文化祭と同じような反代行のデモを多くの来場者の前で繰り返されるのを避けたがっていた。もし、反校長代行のデモをやらせるのならば、それを利用して反対勢力を一気に片付けたかったらしいが、まだ、その準備は出来ていないようだった。

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校長代行勢力とその反対勢力とのあいだに膠着状態が感じられるなか、そのままの状態を憂いている高校1年の一部の生徒が集まり、今後の校長代行対策についての話し合いがもたれた。文化祭が延期されそうな現状では、校長代行の愚かな政策を内外に明確にし、校長代行を辞任に追い込む場をつくる方向は無理だということは一致した意見だった。と言って、文化祭が開かれるまで何も行動しないことは、校長代行の施策に沈黙し認め従うことになってしまい、生徒に対する校長代行の抑圧政策への異議は、何らかの形で表明しようということになった。

このときに高等学校の生徒協議会(通称 生徒会)に注目することを促す意見が出てきた。

丘の上の学校は、中学校の生徒協議会と高校の生徒協議会があり、決議された内容を執行する実行する中学高校の共通の執行委員会が高校でつくられていた。中学の生徒協議会は、中学校の各クラス委員の自治会により構成され、高校の生徒協議会は、高校の各クラス委員の自治会と学校公認の各部の自治会で構成されていた。

生徒会協議会は、学校が唯一認める生徒側の公的組織であり、生徒から学校に対しての唯一の公的窓口でもあった。ただ、校長代行になってから、生徒協議会への締め付けがあり、そこでの議案決議事項は、校長代行の施策に賛同する位置にあることを求められ、いわば校長代行の御用機関にしようとする動きが校長代行からあった。

少年は、たまたま中学2年から各学年でクラス委員を務めてきたので、生徒協議会にも中学校高校ともに参加していた。高校の生徒協議会から職員会議へ生徒の自主活動の自由を求める議案が提出されたときは、まだ、中学生であり、まったく慮外のことであった。

しかし、高校生になり、しかも、それまで徐々に積み上げられてきた生徒と学校との約束事を平然と反故にする校長代行が出現してからの生徒協議会は、校長代行の方針を受けた学校側と自由な伝統を守ろうとする生徒側の唯一の公な議論の場となっていた。

高校の生徒協議会の担当教師は、四角い顔で細くきつい目つきの下の頬周りに荒々しいニキビ跡が鮮やかな英語教師で、授業でも生徒たちへのおべんちゃらは一切なく、シシカバというニックネームどおりの贅肉のない大柄ないかつい中年教師だった。

シシカバは、生徒協議会で反校長代行の姿勢がみえる議案や決議案には撤回を生徒側に要求し、校長代行の代理で、生徒会を監視する役目を果たしているだけの教師という印象を議長はじめ執行委員などの生徒協議会会の出席者は皆抱いていた。

ところが、半年間以上付き合ってきて、シシカバは、生徒の代表である生徒協議会と校長代行が直接ぶつかることにより、学校に対する唯一の生徒側の公的機関である生徒会がつぶされてしまうことを実は、身をもって防ごうとしているようだ、と意外な報告をする生徒がいた。生徒協議会と執行委員会の経理を担当し、生徒側の立場から予算の絡む議案について学校側の代表であるシシカバとさんざん顔をつきあわせて粘り強い交渉を重ねてきたユキオだった。

ユキオは剣道部所属で、愛嬌のある笑顔でひとを安心させあっという間に親近感を抱かせる面と筋道立てて的をついた話し方で多くの生徒や教師から信頼を得るという両面があった。頼りがいのある人の好いキャラクターが目立っているが、生徒協議会や執行委員会のややこしい経理をひとりで操作する能力や人を見分ける鋭い目を持ち、心底には正義感に基づく人一倍の反骨心をも抱いていた。

ユキオの話を聞き、そういえばと深くうなづき賛同したのは、1級上の議長よりも実質的に議長役を務め、シシカバとの交渉にもあたっていた副議長だった。ユキオも副議長も、少年よりはずっと生徒協議会の経験は豊かで、真剣に議論を交わしてきていた。

ふたりの信頼できる同級生のシシカバ報告により、少年たち生徒からのシシカバへの評価が一変した。と言っても、露骨に彼と近しいコミュニケーションが生まれるわけではなく、表面上は、今までと変わらない状態の関係だったが、生徒側で彼の表立っては明らかにできない意図を理解したのだった。生徒側の彼への認識が変わってからは、彼もことばにはしないが、生徒協議会での彼の立場を生徒側が理解したことをどうもわかり始めているようだった。

シシカバが生徒会の担当でいる間は、生徒会は守られているのであり、生徒会が校長代行と直接ぶつかるようなこと、どんな小さなことであろうともそんなことがあり、彼が責任を取らされたり、更迭されれば、生徒会に校長代行の意向を組んだ強権的な教師が来て、実質上生徒会の活動は御用機関となり、生徒側の意見を公的に取り上げ検討し学校側と交渉する機関の使命を失ってしまう可能性が高かった。

逆に言えば、シシカバが生徒会担当のあいだに、生徒会は、正当な手続きを踏めば、生徒たちの多くが反校長代行の立場である理由と宣言を公的に表明することができるのだ。

この発見は少年たち生徒にとって大きな収穫だった。

013

ひとつの収穫を前にして、生徒協議会のなかで、どのような形で、校長代行に対する異議をあらわしてゆくかが議論となっていった。

高校1年生の反校長代行グループのなかで話し合いを重ねた結果、自分たちが実行委員となる文化祭開催までに、校長代行の行っていることがいかに人間としての生徒の権利を損なっているかを明確にした宣言を生徒会で決議表明するという作戦をとることにした。

これは、自分たちの間でも、自分たちの自由気ままなわがままが通らないから、校長代行を忌避しているわけではなく、人としての権利が否定されているからこそ、校長代行に反対し辞任を要求していることを明確にする良い機会でもあった。

生徒のひととしての権利を宣言する決議は「生徒権宣言」と名付けられた。
これは、さすがにすぐには無理だということはわかった。「生徒権宣言」を書かねばならない、決議案としてもってゆく生徒会での政治的な動きをつくってゆかねばならない、シシカバから密かに賛同を得て協力を仰がねばならない・・・

期末が見えてきている今から始めて、来学期の初めまでかかりそうなことは予測できた。すると、来学期の生徒協議会で「生徒権宣言」の議案をしっかりと通過させるために、各クラスの委員選挙のテコ入れをする必要がでてくるかもしれないなどと新しい課題も見えてきた。

目的が明確になり課題も見えてきたところで、いよいよ丘の上の学校の伝統に則った活動が始まるところだった。そう、運動会のときも、教室のレイアウトをいたずらしたときも、文化祭のときも同じだった。

さぁ、ともかく手分けして、皆でそれぞれ自分の仕事に取り掛かろうじゃないか。文章をまとめる、資料を渉猟する、生徒協議会のスムーズな運営のために反校長代行の流れを作ってゆく、いろんな仕事があるからこそ、いつものリズム、バラバラだけど何となくある妙な連帯感で、やってしまおうじゃないか。

校長代行は、学内外の支援者、協力者の力を結集して、自分が頂点に陣取るひとつの大きな頭脳と身体をもつひとつの退屈な体制をつくりあげ確立させようとしている、丘の上の学校生徒たちは、頭脳も身体も各自バラバラな状態を守るために、実際は楽しむために、学校の何もかもひとつに収斂させようとしている勢力に闘いを挑もうとしていた。

少年たち生徒にとり、ひとりひとりが自分に快適で相応しい場所を見つけそこで活動すること、生活することが、闘いの戦術であり目的だった。丘の上の学校の流儀はぶれてはいなかった。

1971年春の文化祭の延期が発表され、校長代行の独断的な計画により、少年たちの入学式や卒業式などの伝統ある儀式や集まりが行われてきた、伝統の象徴でもあった大講堂を取り壊す音が丘の上に響くなか、少年たちの高校1年は終わろうとしていた。


【了】


*冒頭の中条省平君訳、カミュ『ペスト』の引用は、故伊藤由紀夫君に捧げる。

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