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#天ぷらの歴史を振り返る 〜天ぷらヒーローズへの道〜


前回は、「天ぷらヒーローズの道」ということで、自己紹介をさせていただきました。


「天ぷらヒーローズ」の道を歩むには、天ぷらの歴史から振り返らねばと思い、今回は天ぷらの歴史を振り返っていきます。

「天ぷらは一体どこから来たのか?」
ということで、まずは「天ぷらの語源」から紐解いていきたいと思います。

天ぷらの語源は所説あるようです。



いずれもポルトガル語で、
「テンペロ tempero」説 → temperoの意味は、調味、調味料。
「テンペラル temperar」説 → temperarの意味は、調味する、混ぜ合わせる。
「テンプロ templo」説 → Temploの意味は“寺院、教会。
「テンポーラ têmpora」説 → キリスト教と関係のある言葉で「四季の斎日」を意味します。3月,6月,9月,12月の最初の水曜,金曜,土曜日をtêmporaといい、信者は肉食を禁じて野菜と魚の料理のみを食べる習慣があります。
16世紀、宣教が油で揚げた魚を食べていたので、それを見ていた日本人が油で揚げた魚を“テンプラ”というようになった。という説。

「日本由来」説 → 「天竺から来た浪人が売る小麦粉の薄物」という意味で、江戸時代に戯作者の『山東京伝』が考えたものとされる。
「天麩羅」「天」→ 天竺(てんじく)/「麩」→ 小麦粉/「羅」→ 薄い衣を表す。
「あぶら(天麩羅)」の読み替え説 → 「あ(天)、ぶ(麩)、ら(羅)」と当て字で使われていた漢字を読み替えて「てんぷら」とした。という説

もともと日本にもあった「てんふら」
「てんふら」という文字が、文献にはじめて登場するのは、江戸時代前期。
しかし、それ以前にも、“素材に衣をつけて油で揚げる”料理は、既に確立していたようです。

そこに、南蛮料理の「テンプラ」が、日本に入り、庶民の生活に浸透していきます。
当時、「てんふら」を見た外国人が、それを「テンプラ」と言い、逆の場合もあったかもしれません。

ふむふむ、天ぷらの語源は所説あるんですね...

では、天ぷらの起源は???
次に天ぷらの起源を調べてみたいと思います。

「天ぷらの起源は6世紀 ?」

“テンプラ”の発祥は6世紀のペルシア帝国

天ぷらは「南蛮料理」として日本に入ってきたのですが、現在文献に残っている天ぷらの起源ははるか昔6世紀のペルシア帝国にまでさかのぼります。

ペルシア帝国、ホスロー1世の大好物「シクバージ」
現在のイランを中心としたペルシア帝国ササン朝の王、ホスロー1世の大好物が、シクバージと呼ばれる甘酸っぱい牛肉の煮込み料理でした。
ホスロー1世は大勢の料理人に最高のシクバージを作るよう命じました。
やがて、ササン朝は滅び、イスラム勢力が拡大し、750年アッバース朝が成立しました。
市場町には、ペルシアでシクバージの作り方に精通した料理人が雇い入れられ、この料理は、新しい支配者たちにも好まれるようになります。
「シクバージ」とは、具のいっぱい入った牛肉の煮込み料理。鶏肉や仔羊が入ることも多く、たくさんの種類の香草と、時には、いぶした木のチップで風味をつけて、必ず大量の酢で漬けたもの。

魚のシクバージの登場
シクバージはイスラム世界にあっという間に広がります。そのきっかけを作ったのは保存食に頼らざるを得ない船乗りたち。
そして、彼らが牛肉ではなく、魚のシクバージを作り出したと考えられています。
魚のシクバージは、“小麦粉をまぶしてから揚げた魚に、酢とハチミツと香辛料で味付けしたもの”でした。
やがて、レシピは地中海の港をつたって、フランス、イタリアにまで到達します。

キリスト教徒とシクバージ
イタリアやフランスでシクバージを食べるのは、主にキリスト教徒たちでした。なぜなら、中世のキリスト教徒には、1年の3分の1以上の断食の期間(têmpora)があり、この期間は、肉、乳製品、卵を取ることができなかったからです。
魚料理しか口にできなかった彼らにより、魚のシクバージはさらに形を変えて、広がっていくことになります。
キリスト教の影響がスペインやポルトガルにまで拡大。
この頃にはスペイン、ポルトガルで入手できる料理本に「衣つき魚」と呼ばれる、卵の衣を魚に着けて油で揚げて、酢と油をからめて食べる料理が紹介されていたようです。

シクバージは日本へ
シクバージの旅は続き、1530年代、スペインはペルーを征服。シクバージから派生したエスカベーチェ(パン粉や衣の有無は関係なく、まずは魚を揚げる)をペルーにもたらし、日本へは、ペスカド・フリート(必ず衣をつけて魚を揚げる)が、ポルトガルのイエズス会によって持ち込まれました。

どうやら、「シクバージ」なるものが影響を与えているようです。
そのシクバージの流れをざっくりとまとめてみました。

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こうして天ぷらは、6世紀のペルシア帝国から16世紀の日本へ伝わり、南蛮文化の隆盛と共に長崎の庶民の暮らしに溶け込んでいくことになります。

歴史を紐解いていくとどうやって天ぷらの文化が広まってきたのか?
そのストーリーが浮かび上がり、天ぷらの本質が見えてきたような気がしてきます。

次回は、日本における天ぷらの歴史を振り返ってみたいと思います。

ではでは


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