見出し画像

もう限界だ その①

こんにちは。広報のピナツです!
(株)テンポスドットコムの社長の素顔をお届けするコーナー「品川の社長修業記」が今月もやってきました。前回は、通販事業に飛び込み、あれやこれやとテンポスのマネージャーとして奮闘する日々をご紹介しましたが、今回はさらに面白いことになっています。
「もう限界だ、その1」、それではどうぞ。

▼1回目の記事はコチラ

▼記事を書いた人


社長修業記 Vo.2

私達はベンチャー企業だ

テンポスドットコムの13名の統括マネージャーとなった私は、そこから売り上げ構成比の高い自社通販サイトのリニューアルに取り掛かった。小規模通販用システムの機能や許容量には限界を感じていたし、ここから2倍3倍にするには今が過渡期だと判断したからだ。商品画像も増やしたいのに、これ以上商品登録できませんという限界に達していた。

それから3名の社員と一緒にいわゆる情報の引っ越しを行った。同作業の外部見積もりを3社ほど依頼したが、安くて2,000万である。ひょえ~~~!と目玉だけじゃなくて顔全体が飛び出るかと思ったが、無事に原型を保てた。「いや、待てよ、死ぬ気でやればやれないことはない」と、外部には頼まず自分たちで行うことにした。毎日寝不足だったけど、使命感で精神は何とか保たれていた。

致命的なミスをする

しかし、ここでとんでもないことをしてしまった。リダイレクトが漏れている商品に気付かなかったのだ。簡単にいうとタウンページに住所が商品の数だけあって(当時は12万点数程)、引っ越し後の住所に書き換えるのだが半数が抜け落ちていたのだ。そのため、サイト公開後に自社通販サイトの売り上げは約半分に落ちた。グーグルに登録されるまで約3か月~1年かかりそれを操作することはできない。とにかくそれの復活を待ちながら、その間は楽天やヤフーの売り上げを伸ばして確保した。

しかし自社サイトの売上減のインパクトは大きい。初めてその年は減益となった。何が辛かったかというと、当時いくら説明しても理解してくれる人は誰もいなかった。もちろんミスに気付かなかった最大の責任は私にある。住所がタウンページから消えたという事実を一人で抱えながら回復を待つ日々。家に帰っても夫や子どもにも優しくできず家事も手につかない。この期間は本当つらく、このまま消えられたらどんなに楽だろうかと毎日考えていた。

部下の言葉に救われた

減益となったその年、私も含め社員のボーナスが減額になった。私のせいで本当に申し訳ないと面談で謝った。そしたら「一緒にまた取り戻しましょうよ!」と部下は言ってくれた。その言葉に涙が止まらなかった。この仲間がいるんだしここで諦めたらおしまいと、前を向くと心に誓った。

上司は様々な観点から支援をしてくれた。一番ありがたかったのはテンポスの商品部を作り上げられた大先輩から直接指導を受けられたことだ。そうしているうちにインデックス(簡単に言えばねネット上の引っ越し作業)も無事に回復し、売上も伸ばすことができた。ここで耐えた経験は自分の自信にもなった。「あの時は大変だったな~」と上司とも笑って話せるようになった。今、同じようにテンポスグループの役員や幹部になっている人はその時期に励ましてくれた人たちだ。神さまは、見てくださっているんだ!と実感した

関西に戻ることも考えた。そのとき、家族は。

裏話としては、大阪に住んでいた夫と息子を東京に呼んだのは私。夫には大学時代からお世話になっていた会社を辞めてもらい、息子には慣れ親しんだ幼稚園から東京の保育園への転園。関西弁が原因でいじめにあっていたにも関わらず「ママも頑張っているから」と誰にも言わず、すぐに標準語を話すようになり、いじめもなくなったと数年後にこの話を聞いて泣いた。

仕事で一番つらかったとき、関西に戻ることも考えた。でも、家族を連れてきた私が、戻ろうと言ってもいいのだろうか。簡単には相談できなかった。
でもある日、思い切って夫に相談すると「どこに行っても家族が一緒にいることが大事だし、この機会に山奥に行って自給自足してみない?(笑顔)」と言ってくれた。収入面や住む場所の話はどこにもなかった。正直、いきなり自給自足はキツイな~と思ったら、肩の荷がすっかり落ちて元気に翌日出社できた。ポジティブというか一般的でないというか、画家だからなのか。そんな夫に救われた。まぁ良かった良かった。

▼その他の記事も見てね

▼テンポスドットコムの採用ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?