言葉にできない
ゆうべ『言葉にできない、そんな夜』第2夜が放送されていて。再放送だったかもしれない。胸をときめかせながら観ておりました。第1夜でみんなが絶賛していた、『エモい』にかわる表現としてあげられていた『いみじい』をあれ以来、私は実はひそかに使っているから。
ああ、こんな場がほしい。好きに読んで、好きに解釈して、それをシェアする。人の思いに触れて、刺激を受けて、きゅんとしたりじんわりしたり、いろんな温度を感じたい。誰のどんな解釈もその場では否定されることなく、自由に語れて、自由に表現できる。この気持ちを言葉で表現するなら?そんなことを言い合える場がほしい。
きょう取り上げていた『この気持ちを言葉で表現するなら』が
・推しがデビューする
・親友が結婚する
この2つの場面で。どちらも聞きながら胸がいっぱいになりました。
喜ぶべき場面で喜ぶことができずにいる私、というのが私のなかでは扱いづらい存在だと思っていました。喜びごと、お祝いの場でもうまく笑えない。ごめんね、とは思うけれども、どうしたらいいのかもわからない。
番組をみていて、そんな気持ちでさえもみんなで共有できるのってすごくゆたかなことだと思いました。
嬉しいけどさみしい。
おめでたいけどせつない。
【閑話休題】
私の場合はさらに、おめでたしましたの報告には顔のひきつる自分や、その場にいたくない自分、とにもかくにもありとあらゆる『みっともない』をすべて集めたみたいな態度しかできなくて、私なんてサイテーだと思いつつ、自分にさえ寄り添えていなかった。ひどい話だ。そして、こんな気持ちを打ち明けられる人は誰もいなかった。
いまでは注射みたいに一瞬チクッとはするけれど、平気になったしおめでとうも言えるようになった。ほんとうに長かった。しみじみ、いいおばさんになったと思う。
みんな、優しくてせつない言葉をいっぱい持っているんだなと。出演者のなかには普段なにをされているのか知らない方もいらつましゃるけれど、同じ表現って出てこなくて。ひとりひとりの生きてこられたこれまでから紡がれる言葉がどれもみんなキラキラしていた。
文章やことばを仕事にされている方は技巧的に戦略的に組み立てるというような話がありましたが、
普通に暮らしている普通の人たちは『あんなふうに表現できたらいいのになぁ』をそれぞれが心に抱えつつ、自分では書けない表現で的確に絶妙にあらわされた気持ち、それをいとおしむのですよね。それが小説であれ歌詞であれ。
届かないところに手をのばすような、気持ちを言葉に変換するプロセス。
端くれとはいえ人の気持ちを扱う者として思うのは、
『気持ちをあらわす言葉のテンプレート』があるとしたら(ないけど)それは目の前の人によって姿形を変えるもの。みんながふんわりが好きなわけじゃない。そういう意味では私の場合は目の前の人に向けてふさわしいテンプレートが『降りてきて』いるのかもしれない(あくまでも『ない』前提です)。
読書会もずっと憧れなのです。
ひとつの作品をみんなで読む。
黙読する。朗読する。
読み手によって、声によって、受けとめ方もきっと変わってくる。できればいろんな世代の人とやりたいけれど、まずは自分世代の人たちどうしで。そんなことやって何になるのか?わからない。わからないけど(笑)
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