見出し画像

お茶大、トランスジェンダー受け入れは共生社会への第1歩

お茶の水女子大学がトランスジェンダー学生の受け入れ方針を表明して5日後の開催となった、2018年度の「社会デザイン学会」公開講演会テーマは実にタイムリーな内容となった。跡見女子大学を会場に「ともに自分らしく生きられる社会を目指して ~性とジェン ダーと社会デザインを考える~」と題し、企業や大学で広がるセクハラ問題や、LGBTが生きづらさを感じることのない社会のありようなどを議論。今回の表明が、「共生社会」実現のためにどれだけ深い意義があるのかを再認識した。

主な発表内容は以下の通り。「性的マイノリティと大学での取り組みの経験から」(田中かず子・国際基督教大学元教授)、「 社会と教育におけるLGBTの権利保障について」(髙橋裕子・津田塾大学学長)、「LGBT、出張研修の現場から見た職場における取組について」(金澤恭平 特定非営利活動法人ReBit・就活事業部マネージャー)など。

様々な論点があったが、印象に残ったことを少しだけ記す。まず、田中氏がICUで、性的少数者への差別問題を人権問題と位置付けて相談センター開設など10年以上にわたり実践してきた活動から見えてきたことに関して。

マジョリティの変化がなければ
マイノリティを包摂する共生社会は、単にマイノリティの権利を向上させるとか、マイノリティのための居場所を確保するといった、マイノリティ側の何かを変えるということだけでは実現せず、マジョリティの側の変化こそ不可欠だと考えるに至ったという点が印象深かった。

差別する側が差別を意識していない限り、社会的差別は解消しない。無自覚の差別が存在する限り、マジョリティは「痛みを感じることなく」差別し続ける。

理解と共生は別モノ
では、理解すればいいのか、といえばそれも違う。理解と共生は別モノ。差別される側、マイノリティの側からすれば、理解されようがされまいが、差別は現実としてすでに存在している。理解への迎合は、同化・融合圧力となり、逆に差別を生み出す温床となる。共生とは、理解できないことでも尊重して、相手と対等な関係をつくることだ。マジョリティが当事者意識をもち、自分自身の問題なのだと認識することこそが必要だという。

差別や偏見が常態化している社会で、差別をする個人を攻撃して、個人にいくら責を負わせようとしても社会は変わらない。システムに組み込まれている価値体系そのものを可視化し、問題としていく必要がある。そうした主張であったと理解した。

女子大学の存在意義はマイノリティとしての視点
では、可視化とはどういうことかといえば、それは髙橋氏の話の中にヒントがあったように感じた。髙橋氏は、米国の女子大で起きた「男女共学論争」と「トランスジェンダー学生の受け入れ論争」の動向について触れながら、お茶の水女子大の決定に至るまでの国内女子大の動きなどを明らかにした。

女性が差別されている社会構造がある中で、女子大の存在意義とは何か。それは、女性という社会的マイノリティの視点から、マイノリティを包摂する共生社会を実現するために、その問題の所在を学問を通じて常に社会に対して可視化し続ける一方、人材を供給して社会構造、社会的意識そのものの変化を促すことだと髙橋氏はいう。共感する。

わかりやすい例でいえば、企業や大学、政治といった様々な社会分野で、女性が指導的立場により多く、当たり前のように存在している社会を実現すること。そういう趣旨と私は理解した。

こうしうた問題意識を踏まえ、国内の女子大学がここ2年ほど、LGBT、特にトランスジェンダーの受け入れ問題について真摯に議論を重ね、さらにはその議論の過程を公開して日本学術会議の見解などへと繋げていた。

女子大だからこそ
今回のお茶の水女子大の決定に対して一部メディアやネットでは、「だったら男女共学にすればいい。女子優遇こそ逆差別だ」といった主張がなされ、お茶大というか、女子大という存在を批判している。だが、先に述べたように、そもそもの女子大学の存在意義を考えれば、こうした主張がまったく筋違い、明後日の方向を向いていることは容易にわかる。

女子大は、社会的マイノリティである女性という視点を根っこにしてあらゆるマイノリティへ視野を広げ、その存在を可視化し、共生するための道を考えて言語化し、社会に向けて行動していく拠点であることにこそ存在意義があると思う。女子大であるからこそ、「LGBTを包摂した社会、共生社会」ということを議論し、可視化し、今回の提言をなしえた。女性が社会的マイノリティとして差別されている現状は、情けないほど日本では改善されていない。女子大学の存在意義は微塵も減っていないと考える。

ちなみに、髙橋氏が紹介した米国の女子大学の一つMount Holyokeの入学受け入れ基準は、お茶大の1歩も2歩も先にあり、感動した。一言でいえば「性別が男性として生まれ、自分が男性であるという性認識を疑いなく持ち続けている人(Biologically born male;identifies as man)」以外はすべて受験資格があるという。つまり、お茶大が受け入れる「戸籍は男性として生まれたが、自己認識では本当の性が女性であるトランスジェンダーの学生」はもとより、性別的には女性に生まれながらも自分の本当の性は男性だという認識の人も受験できるという。

日本ではすぐこれが「トイレの問題はどうするのだ」といった矮小化した議論にすり替わってしまうか、圧倒的な社会的マジョリティである男性側の好奇の視線にすり替わってしまいがち。そのことがとても残念だ。

今回のお茶の水女子大学の提起が社会に広がり、共生社会とは何か、その実現には何がなされるべきなのかといった議論につながっていくことを願ってやまない。

#お茶の水女子大学 #トランスジェンダー #LGBT #社会デザイン #共生社会 #マジョリティ #マイノリティ #女子大学 #差別

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?