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オンライン会話はナルシズムコミュニケーション化する

ZOOMミーティングに参加していて、新型コロナウイルスによるコミニュケーションの変化が話題になった。私が指摘したのは、オンラインコミュニケーションは人類が体験したことのない「会話」形態だということだ。なにせ自分の顔を見ながら、同時に相手の顔も視野に入れて話すのだから。鏡を手にもって自分の顔を見ながら話しているようなものだ。これがコミュニケーションに質的変化を促さないわけがないと思っている。ナルシズムコミュニケーション化とでもいえようか。

否応なく自分を見ながら話す

教壇や講演でも、自分を「見せ・聴かせる」ことは意識する。日常の会話でももちろん、大なり小なり意識しているだろう。とはいえ、リアルの場では聴き手の顔はみえても、自分の顔はみえない。相手の反応を通して、自分がどのように見られ、聴かれているかを推察するしかない。だが、オンラインでは否応なく自分の姿を突き付けられる。同時に、自分の映し鏡であった相手の反応は、息遣いやちょとした顔の筋肉の動き、空気感などが感じにくくなった分、とてもとらえにくくなっている(だからジェスチャーが大きい相手がいると安心する)。それが、しゃべりにくさにつながっている。これが一つ目の特徴だ。

話し相手の中に自分も含まれる不思議さ

もう一つの特徴として興味深いのが、画面の上では自分も話し相手と同列・同じ大きさになる点だ(ZOOMでいえばスピーカービューを使えば、自分がしゃべるときには自分が前面化されるわけだが)。話し手と聴き手が同列になり、聴き手の中に自分自身も含まれて、そこに話しかける不思議な感覚を味わう。幽体離脱して自分をみるのは、きっとこんな感覚なのかもしれない。自分を客観視する機会を得るというべきか。

「演じあう」会話の一般化

俳優が常に自分のみられ方を強く意識する以上に、オンライン会話の場に臨む人はすべからく、みられ方を意識することが強く、否応なく突き付けられる。それがオンラインのコミュニュケーションの特異性のように感じる。受け止められ方の判断基準が相手の反応ではなく、自分自身の映り方を自分で「採点」するような感覚。これまでとは桁違いに「見せ・聴かせる」ことを意識せざるをえない。そこには間違いなく「演出」が入るはずだ。良し悪しの価値判断は全く置いておいて、リアルの場での会話以上に、オンラインではお互いに「演じあう」ことが一般化するだろう。

尽きない興味

これは人と人との関係性にどのような変化をもたらすのだろうか。相手の反応を受け止める能力は変化するのか。「腹を割った」会話はできるのか、「肝胆相照らす仲」がオンラインで構築しえるのか。SNSを空気のようにして育ってきた世代と、私のようなアナログ世代とでは異なる影響があるのだろうか。afterコロナ時代、ソーシャルディスタンスやマスクを気にしないで会話できる日が再び来た時に、どんな影響を与えるのだろうか。やはり相手と自分との間に見えない皮膜のようなものが残るのだろうか。次々と疑問が浮かび、興味が尽きない。つらつらと考えていきたい。

<オンライン会話は学級会的 「いかがわしさ」が消えている>に続く。

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