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コロナ時代の日常と非日常の境界

新型コロナウイルスの緊急事態宣言下で、「日常」と「非日常」について考えた。いくつかの論点が浮かんだ。そもそも日常と非日常の境界線とは何か。その境界線こそが、かなり長期にわたるであろうコロナ禍においては、「リスク」を社会がどう判断するかという議論と不可分なのではないか。また、歴史的な長期的な視点でみれば、私たちがbeforeコロナ時代に過ごしていた日常とは、実は非日常ではなかったのか、ということだ。

長期にわたる災禍は非日常を日常とする

いまが、beforeコロナ時代の日常とは全く違う日々であることはいうまでもない。外出を自粛し、多くの施設が休業する。まさに非日常以外の何物でもない。たとえば、台風が来るときに恐怖とともにどこかで感じてしまう一種の高揚感もまた非日常的なものには違いない。だが、それは祝祭にも通じる一瞬の非日常だ。コロナ禍は自身を含めた多くの生命を奪う可能性があるという重大性・深刻さと、おそらく年単位で長期化していく時間的な長さにおいて、祝祭的な類の非日常とは全く性質を異にする。その違いによって、この非日常は日常化していく可能性がある。

それは、たとえば福島第一原発事故で避難を余儀なくさせられた人たちが、本来は非日常であったはずの避難先での生活が日常となっていくようなものだろう。新世紀エヴァンゲリオンにおける第3新東京市が異様な軍事都市であるにもかかわらず、そこに暮らす人々はそのことを異常とも思っていないかのように暮らす姿も非日常が日常化した状態だ。

社会としてはどこかに線引きが必要

同じように、私たちはこの非日常を徐々に日常化していく。短期間なら「がんばる」ことで非日常を非日常として生きることはできても、長期に「がんばる」ことなどできないから。人は環境に順応する能力があるから。その転換点、境界線はもちろん個人レベルでみれば人によって異なる。「よし、今日からこうした暮らしを日常にするぞ!」などと決意するのではなく、なんとなく「こうした日々もありだな」とか、そうした考えを思い浮かべることさえ減っていけば、非日常は自然に日常へと転換する。だが、社会としてはある時点で、非日常の日常化を決断せざるをえない、境界線を引かなければならなくなる。

緊急事態宣言とは文字通り、緊急の事態だと社会が認定した状態だ。永遠に緊急事態を続けることは社会的にはできない。人が構成している社会もまた、人と同じく緊急事態という非日常を長期にわたって「がんばる」ことなどできないから。ワクチンや治療薬が開発されるまでの「年」という単位は「がんばり」を超えた長期だ。一方、ウイルスをこの世からなくすことも不可能なのだから、コロナと共存していくしかないという現実は何も変わらない。つまり、いつかの段階で緊急事態という認定を解除し、外出自粛や休業要請なども緩和していく日を想定することは必然だが、それはあくまでwithコロナで生きる、コロナというリスクを抱えたまま生きていくことを社会として選択することを意味する。beforeコロナから考えれば間違いなく非日常の状態を日常化するしかない。

リスクをどう考えるか

この判断基準は、最終的にはリスクをどう考えるということに行きつく。個人レベルでは自宅にこもりっきりになることが感染リスクを極小化する。だから感染防止の観点からは「正しい」。続けるべきとなる。一方、すべての人がこもってしまっては社会は崩壊する。だから医療関係者やライフラインやスーパーなど生活に不可欠な基盤を支える人たちには個人レベルでのリスクを冒してもらうことを、社会として意識的、あるいは無意識的に要請している。それによって社会を維持する選択を、すでに私たちはしている。その個人レベルでのリスクをどこまで広げるか、許容するかが、非日常を日常とするさいに問われる。

単純な二分論ではない

それは、経済か生命かという単純な二分論ではない。むしろ、生命と生命をはかりにかけざるをえない事態だ。社会システムが潤滑に回らなくなることによって起きる事態として一番わかりやすいのは、仕事を失う人々が増えていくことだ。職場や住まいを失い、日々の食にも事欠く人たちを増やしてしまうことで、それこそコロナによる死者以上に餓死や自死する人々を生み出してしまうとしたら、個人レベルでのリスクを社会が高めることになる。だからこそ、社会として断固としてお互いを支えあうことが求められるのだが、その支え合いの度合いと社会システムの維持、個人の感染リスクとをどこかで比較衡量しなければならなくなるのが、社会レベルでの非日常の日常化には不可避なのだ。その判断は感染症に詳しい専門家ではなく、最終的には社会の統治機構である政治に委ねられる。だからこそ、私たち一人一人がリスクをどう考えるのかを、政治に対し表明し続けなければならないだろう。

死を遠いものとしていた時代こそ非日常

もう一つの論点として冒頭に記した「歴史的な長期的な視点でみれば、私たちがbeforeコロナ時代に過ごしていた日常とは、実は非日常ではなかったのか」という点について述べる。これは「死」を視座に据える。

日本を含む先進諸国では主に戦後、公衆衛生や医療の発展によって乳幼児の死亡率が劇的に低くなり、亡くなるのは主に高齢者という社会を構きあげた。死を「いつか先のもの」と日常から消し去った。寿ぐべきことだ。だが、こんな社会はたかだか数十年しか歴史がない。人類の一万年単位の歴史から見れば、ごくごく最近の極めて特異な状態だ。老若に関係なく人が亡くなるのは当たり前、日常的に死が身近だったのが人類にすれば当たり前のことだった。

「一人称の死」への覚悟が日常化する

日本では1970年代を境に、人は自宅ではなく病院で亡くなるのが当たり前となって、死はますます遠いものとなっていた。看取りの文化がこの40年ほどで急速に失われた。それが日常だと思い込んでいたときに、コロナ禍に襲われ、急に死が目の前に躍り出てきて戸惑いを隠せないでいるように感じられる。死は他人事でなく、いつ誰の身にでも起きうる「明日は我が身」のものであることを突き付けられている。志村けんさんや岡江久美子さんのコロナによる死はそのことを象徴的に示した。私たちが「死は他人のもの」「年を取れば亡くなる」ことを常識と思い込んでいた日々こそが、実は非日常だったのではなかったのか。

いま私たちはあらためて死との付き合い方、向き合い方を突き付けられている。「一人称の死」として死をとらえることが求められ、それが日常になった世界を生きているのだ。

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人生のエンディング分野の取材・研究しています。お寺も好き。研究者ですが、基本はフリーライター。 主著に『遺贈寄付 最期のお金の活かし方』(幻冬舎)、『「定年後」はお寺が居場所』(集英社新書)ほか。「集活ラボ」https://shukatsu-labo.amebaownd.com/

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