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父とローストポーク(後編)

祖父の家に預けられてからは、帰りの遅い父を待って玄関先の絨毯の上で眠ってしまうことが、ほとんど毎日であったと聞かされている。その都度祖父は寝床まで僕を運んでくれていたらしい。

翌週から新しい保育園に移った。

新しいお友達に質問してみよう!という時間を設けられて教室の前に置かれた先生用のピアノの椅子に座り、大勢の知らない子たちが柔和な表情で僕をじっと見ている。
他人から注目を浴びるのは内心苦手な方だったが、少しさびしさを抱えていた当時の僕には若干の心地よさもあった。

はいはいはい!

手を挙げる園児たち。
好きな遊具、好きな遊び、得意なことなどを聞かれて僕は意外にも饒舌に答えていたが、唐突にとんできたとある質問に一気に口を噤んだ。

「おべんとうですきなおかずはなんですか?(たぶんこんな質問だった)」

僕は黙ったまま、うつむいて席を離れてしまった。

もちろん好きなおかずは色々と思い浮かんでいたと思うが、
弁当というワードは床に臥せっていた母を連想してしまい、僕は黙り込んでしまったのだ。
質問コーナーはそのあとすぐに終了した。見ず知らずのみんなの前で泣いてしまった…最悪な一日目だ…

解散後にキャッキャと園児たちは散り散りに遊びに出ていった。
静かな教室で担任の先生は声を上げずも涙が止まらなかった僕を優しく抱きしめてくれたのを覚えている。担任の先生は母の幼馴染で、うちの内情もあらかじめ知っていてくれた人である。頬を撫でてくれた手は少しカサカサしていたな。

このことはすぐ父の耳に入った。
比較的わんぱく小僧だった僕が保育園で泣いたというのは父にとっては驚くことだったようだ。
今まで透明な自動ドアに走りぶつかって鼻が曲がっても、鎌で指を切っても、木から落ちても泣かなかった少年が、こんなところに心の隙間があったのかと親子共々、各々で新しい発見だった。

そこからしばらく保育園に行くものの、特に友達を作ることもなく過ごした。
今住んでいるところは僕の家じゃないし、母も会えないまま、父とも滅多に一緒に時間を過ごせない。このまま溶け込まず、またここも近いうちに離れることになるのだろうと思っていたからだと思う。

しかし、我が家に戻ることになるのは思っていたよりも早く、
3週間ほどたった頃の休日、車で迎えに来た父は僕を連れて我が家に一日だけ戻ることとなった。

ああ、玄関ってこんなにひんやりして広かったっけ。


子どもの認知力とはなんとも大げさである。
うちの絨毯はおじいちゃんの家のものよりやっぱり薄手だ。

庭の花は綺麗に咲いていた。畑はきれいに手入れされていた。
しかし裏の竹藪や垣根は夏場の枝伸びで少し鬱蒼としていた。
今思えば
仕事で忙しい中、父が少しでも家を荒れないように維持せねばと朝早く向かい、手入れをしていたのであろう。
庭木や垣根を見るにそれでも還暦前のワンマンパワーでは手が行き届かなかったこともあったのかもしれない。
(僕が今も尚お盆に帰って庭木や垣根の剪定をするのはここからきている。)


敷地を一周し終わって玄関の子上がりに横になっていると
いい匂いがする。


ダイニングに向かうと食事が用意されていた。
みそ汁とごはん、おかずはローストポークだった。
いったん湯通しして塩コショウだけを聞かせた豚肉をオーブンで焼いたらしい。


たべなさい。


父の料理を食べるのはそれが初めてだった。
父は余計な言葉を言わない人ではあるから食事中ほとんど会話はなかった。
けど、いま目の前の食卓にある新鮮で不可思議な現象に集中するためにはちょうど良かったかもしれない。

正直、うまかった。
4、5歳の男の子が塊の肉を分厚く切ってあるのを頬張る経験も初めてだったし。
みそ汁はあまり味がしなかったけど。

食後には今後のことについて話をしてくれた。
もう少し母の入院が長引くこと。
自分の帰りがいつも遅く朝も早くてなかなか顔が合わせられないこと。
妹も同じ保育園に通うことになりそうということ。
あとは
ばれていないと思っていた他の園児との喧嘩に対するまったく父親らしい叱責と説教。



まあいろいろと話をしてくれたが、
その時の僕の頭の中には


「あなた、料理できたん!?」


しかなかった。
だから正直細かい話はあまり頭に残っていない。
なんならそのあと祖父の家に戻った時の記憶なんてない。


だがきっと父は、今思えばあの先生からの話を耳にして、僕が家族とすごしている実感を持てる時間を作ろうと努力してくれたのだと勝手に思っている。
だって今は普段そんなこと絶対にしないじゃん。

なにより、
一緒に酒を飲むようになって「あの時のローストポークってさ」と話を切り出しても、親父はいつも少し笑いながら「覚えていない」とこの話題を避けるからだ。


まったく不器用な親父だよ。


おわり。

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