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写真と意識と芸術について

Good bye, film  #6

今回は写真論のようなものです。少し古いですが、2021年のメモをもとにして、当時、頭の中にあったものを書きます。

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一口に写真と言っても、報道写真や商業写真、記録写真と、さまざまな用途やジャンルがますが、私は「表現写真」を学んでいた時期があります。
表現写真とは、作品、いわゆるアートとしての写真を指すものです。もっとも、写真には本質的な多面性があり、どんな写真の中にも複数の要素が重なり合っているものなので一概に括ることはできませんが、ここでは主に古典的な表現写真(メディアアートとしてではなく)に焦点を絞って考察することにしましょう。

プロ・アマ問わず、写真による表現を試みる者なら、自分はなぜ写真を撮るのか、および、シャッターを切る瞬間の自分の意識について、一度は考えたことがあるはずです。なぜ、今この瞬間を記録しようとするのかと。
というか、スマートフォンの画面を軽くタップするだけで、誰もが簡単にハイクオリティな画像が得られるるわけですし、もはや写真を撮ることは単なる習慣となった現代において、そんなことを問うのは馬鹿馬鹿しくもありますが、さておき、撮影の動機と撮影時の心理を考えてみると、一般的にはおおよそ以下のようなものでしょう。
誰と、どこで、何をしているか、という状況説明、あるいは、かわいい、綺麗、珍しいとかいったような被写体が示す意味に価値を見出して、それをいかに「上手に、綺麗に、効果的に」記録するか。また、その結果としての他人の認証の獲得。
しかしながら、こういったことは写真をコニュニケーションの道具として使っているのであり、作品としては成立しがたく、表現として不十分だという理解なのですね。
もちろん、何かを作ったり表現するにあたって、決意が必要であるとかそういうことを言いたいわけではありません。
写真表現の定義の一つとして言えることは、表層的な「意味」を排除した純粋な視覚反応を通した自己を発露です。つまり、いかに思考を介さずに、視覚刺激に対して直観的・反射的にシャッターを押すことができるか。たとえ無意識にせよ、以上のような動機や思惑が潜在する写真は「純粋な視覚反応」とは言えない、という理屈なわけですね。社会的な自己によるコニュニケーションの道具としてではなく、内的な直観に従ってシャッターを押すこと。その行為には快楽的要素があります。

写真に熱中していた頃の私は、被写体に出会って、瞬間を捉え、焼き付ける、という一連の行為に喜びを見出していましたが、このところはそうでもない。写真を撮るのはむしろ億劫です。いつか発表しようと撮り溜めたフィルムにもまったく関心が向きません。この連載の初めの記事でも書いたように、写真に飽きてしまった。いや、というよりも「自己表現」に飽きてしまったのです。「自己」も「表現」も、だいぶどうでもいいことなのです。



「同調写真」と「対立写真」

これは私の持論ですが、写真は大きくは2種類のタイプに分けられると思っています。少し長くなりますが考察してゆきます。

ひとつを「対立型」、もうひとつは「同調型」と呼んでいます。この呼び方が適切であるかはわかりませんが、対立型とは「確立した個」的表現、同調型とは「曖昧な個」的表現である、という認識での分類になります。


対立型の写真とは、独立した確固たる撮影者の意識と世界とが、互いにぶつかり合っている写真。被写体や周囲と完全に分離した撮影者の自己が、被写体や周囲との距離感や温度差によって浮き彫りになる構造の写真です。
対立型作品の傾向は、被写体が何であるかに関わらず(人物でも風景でも動くものでも静物でも)、一点または一瞬に集中するような緊張感を有し、動的かつ刹那的で、求心的、瞬時に核心が伝わってくる写真が多いでしょう。
対立型の撮影マインドは実は受動的です。対峙した被写体に触発されて撮影しているからです。直面のショックによってシャッターを切っているとも言えます。まるで捕食者のような撮影スタイルと言えるかも知れません。
対立型の意識は常に未来に向かっています。常に無意識下で「事件」への瞬間的なリアクションに備えている。事件への反応による自己発見するという試みが対立型の写真表現であるのです。


一方、同調型の写真とは、撮影者の意識が被写体と同化している写真です。
撮影者がまるでそこに居ないかのように透明な存在となって、周辺に溶け出してしまって、そこにはただ被写体だけがある。同調型の写真は、撮影者の眼を介することなく、写真を見る者が直接被写体と対峙しているかのような印象を与えます。
やはり被写体が何であるかに関わらず、何となく散漫かつ静的な印象で、情緒的な場合もあります。イメージがじわりと拡散していくような遠心力を持つ写真で、自他が混ざり合って曖昧なのです。
同調型の写真は極めて物質的だと言えます。というのは、撮影者の自我が、被写体にとなる物体や現象や状態に投影されたものだからです。必ずしも形あるものとは限りませんが(光とか空気とかの場合もあります)、少なくと何かの視覚的に存在するものを拠り所にした自己の存在証明としての写真。それを私は同調型と呼んでいます。
こちらも逆説的ですが、同調型の写真は、一見、撮影者の自我が消滅しているかのように見えるものの、実は主体的で、強い自己の統合の欲求が根底にあります。撮影者の意識は過去へ、すでに経験した感情や記憶に向かっていますが、シャッターを切るマインドは能動的なのではないかと思います。


対立型と同調型の違いは、シャッターを押すという実際行動に繋がるきっかけが、外部にあるか、はたまた内部にあるか、ということです。
対立型の写真家の意識は常に外側を向き、同調型の写真家の意識はひたらすら内面に向いている。対立型は自己を通して対象物を見ていて、同調型は対象物の先に自己を見ているのです。

これはどちらが優れているとかいう話ではなく方法の違いです。
写真表現とは、対象との関係性において自己を確かめる行為だとすれば、どちらも世界と自己との関係を可視化することによるアイデンティティの確認作業であるのに変わりはないのです。
対立型の写真家は、常に「事象」を求めています。はっきりと自己の輪郭を意識しているのに対して、内面への意識が希薄であるゆえに、空洞を埋めるかのような探究を行なっている。そのために、外部からの刺激、明らかな他者を必要としているのです。
一方、同調型の写真家は、常に「モチーフ」を求めています。イメージを投影する対象、膨らんだ自己の概念を吐き出し、可視化するために形ある物を必要としているのです。

どちらにも奇跡のような美しい写真もあれば、そうでないものもあります。対立型の特徴がネガティブに出てしまうと、粗雑さや暴力性が強調されてしまうし、歪んだ自己愛ばかりが垣間見える同調型写真もあります。
写真表現は思うほど容易ではないし、また、写真は高度なリテラシーを要するメディアのだな、と、つくづく恐ろしくなることがあります。
写真は、極めて感覚的かつ簡易的な表現にもかかわらず、膨大な言語や記号とが埋め込まれており、無意識のうちにあらゆることを露呈させてしまうツールなのです。

1人の撮影者の中には双方の性質がありますが、多くの場合はどちらかに寄っていて、これは私の勝手な印象ですが、対立型タイプは、撮影量はさほど多くなく撮影終了のタイミングもあっさりとしていて、同調型は、被写体への愛着が強く、撮影量が多く、アナログを好む傾向にある気がします。



 減算式のアートの終わり

ところで、写真は「減算式」で創作されるアートであると思っています。
これも持論にすぎないのですが、減算式芸術とは、すでに存在する万人共通の世界から、何かを排除したり抽出したりする表現手法のことです。
まずは「他」ありき。自らを取り囲む渾然一体とした世界から、特定のもを任意で分離させてゆく作業であるこの方法は、おのずと相対的な表現となります。穴を掘る作業に似ています。空洞をつくることで世界を認識するようなイメージでしょうか。
逆に「加算式」の創作と言えば、何もないゼロ地点にいる自己がまず先にあり、そこを起点として、世界を発見し、侵入する通路を形成する方法です。穴を掘るのに対してこちらは建物を建設をするような作業で、絶対的な表現だと言えます。
たとえば、写真、小説や随筆、コンテンポラリーアートなどが減算式で、絵画や音楽や詩は加算式ではないでしょうか。減算式は近代芸術と呼ばれるもの全般にあたるかも知れません。大枠としては、加算式は「陽性」で、創造も鑑賞も気楽な傾向にあり、減算式芸術ほど「陰性」が強く、小難しいリテラシーを要求してくる。減算式芸術は、少々複雑なのです。

というのも、減算式は、常に他者を必要とするので、純粋であり続けることが難しく、また、共通認識や同時代性を前提とするために生じる、表現としての賞味期限の問題が存在するからです。時間とともに意味が溶けてしまい、「生きているアート」ではなくなってしまう側面があるのです。
環境や他者に左右される減算式芸術の多くは、多様な世界が入り混じったもので、時間の経過や状況の変化によってその有効性が失われてゆくという、極めて脆く繊細で、刹那的なものであると言えるでしょう。

さて、私が感じているここ数年の変化です。
たとえアートに興味がなかったとしても、大多数の人が無意識下において、そのような「相対的表現」の虚しさのようなものに気がつきはじめているのではないかということです。
言うまでもなく、ここ数年の環境の変化は凄まじいものがあります。現在は、デジタル技術の飛躍によって、インフラも社会構造も、すべてが従来のものとは別の仕組みに置き換わってゆく、まさにその過程にあり、それに伴って私たちの価値観も日々変化しています。
このような急速な変化の最中に、ある時点での自己と世界との関係を見つめることに、いったいどのような意味があるのでしょうか。世界と対峙し、とある一点を切り取って投げ返してみても、明日は、すでに今日とは違う世界なのです。
今、世界と個人との関係の記憶装置である「表現写真」は、終わりつつあるのではないかと私は思うのです。
写真ばかりでなく、減算式的表現自体が下火となっているような気もします。あらゆる表現は、より原始的に回帰することを求めている。
写真は、今まで以上に単なるデータとして、見たままの視覚情報言語と化してゆくに違いないでしょう。表現とか芸術とかいった曖昧で耽美的な精神活動に分類されるものではなく、日常会話のような情報伝達に用いる実用的なイメージ共有ツールとなる。現象への慕情を封じ込め、時間へ対抗する写真の機能は剥奪されてゆくでしょう。それは必然のような気がします。



表現と写真のこれから

少し壮大で本質的な話になりますが、そもそも、自己を表現すること、アートとは何か、を考えてみましょう。

あらゆる芸術的表現の目的は、自己の解体と創造であると思います。
芸術活動とは、精神と肉体を使って目に見えない本質を顕現させること。神とのコミュニケーションです。
そこに経済的合理性のようなものはまったくありませんが、芸術作品は、人間の精神に何らかの作用を及ぼします。薬のようでもあり、ウイルスのようでもあります。それを服用したり、感染したりすることで、私たちの意識や肉体を癒したり進化させたりする。そういったことが、あらゆる場所で、個々のさまざまな次元において行われているのだと私は思います。

その上で、写真という手法の芸術的最終段階について考えたとき、主観を放棄して「ただの眼」になることではないだろうかと思ってしまうのです。
注視するのではなく、対象物を淡々と通過させる眼。否定も肯定も「視る」という欲求すらない、自我から解放された眼となること。
流動する世界と、その中の自分自身をメタレベルで認識できたならば、ある一点を抽出したり除外したりすることに意味を見出すこともなくなるはずです。意識を拡大させて俯瞰してみると、自と他を隔てる壁が溶解してしまい、自と他が同一の現象に属することに気がつくに違いないでしょう。断片はすでに全体であることを実感してしまったら、断片のイメージをかき集めることに意味などなくなってしまいます。「ただの眼」の前ではすべてが等しく存在する。そうなったとき、すでに「表現」としての写真は必要なくなっているでしょう。

そして、「表現」としての写真が、必要のない、そんな世界に、現実はいよいよ近づいている気がするのです。
その証拠に、実際、見渡せば、すでに誰もがただの眼になりつつあります。
現実でもバーチャルにおいても世界の隅々まで流布する大量のイメージ、視覚データに、特定の意味や関係性を与えるのはもはやナンセンスです。フェイクや加工の横行する中、善悪醜美を判別することすら不毛です。
もう、世界と自己との関係を相対化して確認する必要性なんてないし、確立した自己を世界に表明する必要もない。絶対的な「個」で在ることができる世界が訪れつつあり、減算式的表現の存在意義自体が危うくなっていると私は思うのです。
先に書いたように、テクノロジー進化に伴って、人間の知覚範囲もまた急速に拡大し、コンピューターと同化することで、全世界に張り巡らされると同時にブラックボックス化と再編が加速し、人間は、自動的に自我が縮小していって、潜在的にメタレベルの視点を獲得するはずです。


この連載の冒頭でルイジ・ギッリの言葉を取り上げましたが、ここで再び彼の言葉を引くと、1989年の講義では、眼差しの緩やかさ、切り取られた静止画をじっくり読み考えることの大切さを述べています。
当時すでに、世界の複雑化が進みイメージや記号が増殖し、個別に環境との関係を築くことができなくなったことを「愛着の喪失」と嘆いているのです。そして、環境(世界)と関わる手段としての視覚表現を、ふたたび取り戻すべきだと彼は説くのです。
私はこの主張にシンパシーを感じていました。私が「写真表現」に取り組んでいたのは2008年から2017年くらいの間なのですが、絶望しながらも世界に僅かに存在する同調の対象をいつも探していた私にとって、ギッリの主張は親和性があったのです。なので、このような言葉を拠り所に、私は環境の変化を憂い、世界から目を逸らし、ひたすら愛着の中に閉じこもっていたのだと思います。
しかし、しだいにそれにも飽き、創作に無気力になり、写真への関心も薄れていたのですが、その後、ちょっとした意識の変化があり、再び外に注意を向けるようになったのです。表現やアートの可能性を再び探りはじめました。背けていた目を、徐々に開いていったのです。
すると、2021年のここには、想像を超えたイメージの海が広がっているではないですか。世界の複雑化は1989年の比ではありません。ギッリが大切にするノスタルジーなど瞬時に藻屑となってしまいそうな、荒々しく、途方もない場所です。もはや世界と自己との対立構造などはなく、長らく写真的なものが縛られてきた時間や空間の概念が通用しないフェーズに突入していることに私は気付がついてしまったのです。


先に書いた通り、写真の役割は、今後いっそう、個人的表現手段から公的言語へと向かってゆくでしょう。また、「自」対「他」ではなく「個」対「個」のコミュニケーションツールとなってゆくでしょう。
写真家は、視覚言語という公共インフラを扱うプロフェッショナル、技術者という側面が強くなり、芸術家個人としてではなく、世界全体としての創造に貢献する、より社会的な存在となるように思います。
しかし、そうは言っても「芸術・アート」としての写真が消滅するわけではないとは思っています。ただ、自己完結的な精神活動に終始するのではなく、他者と豊かさや喜びを共有するものとなることが前提であるのだと思います。

意識の進化に伴って、愛着という自我も消滅するのではないかと思いますが、その頃には、物質を介さずともあらゆるものと同調し、あらゆる瞬間に存在することができる意識を誰もが有する世界になっていることでしょう。
そんな世界において、芸術としての写真が存在するとしたら、それはあらゆるものの肯定の証、他者へ差し出す愛としてのみではないかと思っています。




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