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戦争から学ぶこと|人間は合理的に思考できない

日々の生活を送る中で、様々な場において選択の機会が訪れます。そして、多くの選択は決断するのが難しいものです。

たとえば二択が提示された時、どちらも確かさ(不確かさ)が同程度であれば、気分や当てずっぽうで選べば良いでしょう。難しいのは、ほとんどの場合において二択が非対称だということです。

一方が確定的に予見できる事象、他方が不確定で先が見通せない事象であった場合、選択は簡単ではありません。世の中には、とてもシビアな局面で選択が迫られる場合があります。その最たる例が日本がかつて辿った歴史、戦争です。

重大な選択を迫られた時こそ、冷静で合理的な判断が期待されます。しかし残念ながら、史実を辿ると日本は次々と「誤った選択」を繰り返してきました。人間はどうして合理的に思考できないのか、紐解いてみましょう。

開戦を選んだプロセス

まず、圧倒的な経済力・軍事力を誇る米国に対し、開戦という「誤った選択」に走ってしまったプロセスとは何だったのか。これは『経済学者たちの日米開戦』に分かりやすく分析されています。

結論から言えば、日本が開戦に踏み切ったのはプロスペクト理論という、典型的な認知バイアスの産物でした。利得よりも損失を過剰に高く評価してしまうという、損失回避バイアスとも呼ばれる認知のエラーです。

あなたは今、無条件に 1万円を支払わなければならない状況にいるとします。そこに、ジャンケンで勝てば逆に 1万円貰える、ただし負ければ 5万円支払わなければならないという選択が提示されたとしたらどうでしょうか。この時、あなたは 1万円を支払いますか?ジャンケンに賭けますか?

合理的な正解は無条件に 1万円を支払うことです。ジャンケンを選択した場合、1万円を貰えるのも 5万円を支払うのも 50%の確率なので、期待値はマイナス 2万円になります。すなわち無条件に 1万円を支払うよりも、確率論的にみるとジャンケンの方が損失が大きいのです。

しかし、人は合理的に考えられません。無条件に 1万円を払うくらいなら、50%でも 1万円を得られる可能性に賭けてみたくなるものです。

これと同じことが、日米開戦の選択の局面でも起こりました。

米国の強大な戦力に畏怖して戦わずして白旗を振れば、人的被害は極小化される一方で、日本の国益は一定の割合が支配されるでしょう。それならば万に一つの勝機に望みを託して戦うべきだ。そうすれば日本の国益が支配されるどころか、むしろ日本の支配権が拡大していく。確定的な損失から目を背けたいあまり、確率論的にさらに損失が大きくなる選択肢に傾倒してしまったのです。

当然、こんな考えは合理性から程遠い認知バイアスであり、戦略ですらない、ただの願望に過ぎません。しかし日本の意思決定は合議制であり、理知的なリーダーシップよりも空気に支配されます。こうしたプロセスでは、確率という科学よりも願望という感情が前景化します。

日本は 1万円を支払うぐらいならジャンケンに賭ける道を選んだのです。実際の勝算を見積もると、ジャンケンどころの話ではない、極めて低い成功確率でしたが。国家という巨大な機関ですら損失を避けたい誘惑には抗えず、人も組織も、合理的な判断から遠ざかっていったのです。

戦略の失敗

こうして開戦に踏み切った後の戦略については、『失敗の本質』にて詳細に評価分析されています。悪名高いインパール作戦をはじめ、レイテ、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなど、各々の作戦で失敗していくプロセスが克明に記されており、軍事研究のみならず組織経営に関しても多大な学びを得られる名著です。

本書では、作戦ごとに淡々と事実を積み上げ、失敗を誘引した引き金を精緻に分析しています。

たとえばインパールでは補給の軽視、不測シナリオの未策定、組織内融和が優先され作戦中止が決定できなかったこと。認知的不協和、正常化バイアスといった認知の誤謬が色濃く表れた失敗といえます。

また、レイテ海戦では作戦目的の不徹底・錯誤が挙げられています。日本艦隊は「敵機を殲滅しつつレイテ湾に侵入する」という作戦が課されたため、レイテ湾を目前にした際、このまま侵入するべきか後方の敵機の殲滅に引き返すべきか混乱を招きました。何が手段で、何が目的なのか。戦略の成功条件が一つに絞られていなければ、最後には必ず迷いが生じ失敗するという教訓です。

さらに特筆すべきなのが、下記の指摘です。

組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。

昨今、イノベーションや新たな創造を推進するために、アンラーニングの重要性が謳われています。しかし、本書が刊行されたのは 1991年で、すでに四半世紀前の時点で言及されていたことは重大な意味を持ちます。アンラーニングは現代で急に必要になった概念ではなく、遥か昔から必要とされていたもので、日本はそれに気付けなかったために戦争で多くの失敗を繰り返していたのです。

戦術の失敗

戦略に似た言葉で、「戦術」というものがあります。戦略とは目的を設定し、組織のリソース(ヒト・モノ・カネ)をどう配分するか決定することに対し、戦術とは配分されたリソースを具体的にどのように使うかを考えることです。

僕は戦争の具体的な戦術に関し、詳しく知っているわけではありません。それでも、唯一明確に「失敗」と断言できる戦術があります。

爆弾を搭載した航空機で体当たりする特別攻撃、特攻です。

上記 2冊は特攻を命じられ出撃し、それでもなお生き抜いた帰還兵の証言を基に、当時の命令や空気、周囲の会話を再現し、特攻にまつわる事実を紐解いている書籍です。

そもそも、特攻という「飛行機で体当たりする」戦術がいかに不合理か、考えるまでもありません。なぜなら、飛行機から爆撃する通常の作戦よりも、体当たりする方が難易度が高いからです。つまり、通常の作戦よりも難易度の高い作戦をわざわざ選択しているわけで、成功確率など低いに決まっています

よしんば成功したとしても、それは操縦士の命が犠牲になることを意味します。作戦の成功条件として、確定的にこちらの犠牲が伴うのですから、投資対効果が釣り合う訳がありません。

有り体に言えば、この戦術決定もプロスペクト理論で説明できます。当時は爆撃機が撃墜され始め、作戦の成功率が下がっている状況でした。爆撃という作戦を「損切り」し、さらに損失を拡大する特攻に投資するというバイアスがはたらいたのです。「成功確率が低い」という科学が、「成功確率はゼロではないなら、それに賭ける」という感情にひっくり返って、あとは失敗の連鎖です。

当然、合理性のない戦術だったので、「なぜ、それが必要か?」という根源的な問いに答えられるはずもありません。したがって現場において戦術の遂行を拘束するのは、場の空気以外に拠り所がありませんでした。特攻は表向き「志願」という体裁が取られましたが、実態は空気による支配を後ろ盾にした「命令」です。合理的決定を放棄した組織らしい末路でした。

人間は数ある選択肢から正解を見つけ出そうとはするものの、合理的に思考することができず、簡単に道を踏み外します。それは国家経営や人命という、よほど熟慮を期すべき物事でさえ同じことです。戦争から学ぶことがあるとすれば、「人間は当たり前に間違った選択をする」という哀しく厳しい事実ではないでしょうか。

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