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わかりあえなさを分け合う

話し合えば、わかりあえる。

会話をはじめ、コミュニケーションの目的は「他者とわかりあう」ことだとされています。実際に、利害が対立した時、争いに至る前に交渉や対話で解決した例は枚挙にいとまがありません。

ただ、僕はそうした解決に至った理由が「わかりあえたから」ではないと思っています。

ほとんどのコミュニケーションの正体は「もうこれ以上話し合っても一致することはない」という均衡点に達した末での譲り合いが正体ではないでしょうか。

凪良ゆうさんの書いた『滅びの前のシャングリラ』は、巨大隕石で地球が滅亡するまでの人々のドラマを描いた小説です。いじめられっ子の中学生、ヤクザ、シングルマザー、そしてアイドルと全4章で目まぐるしく主人公が変わります。しかし、4人の主人公は相互に関連しており、それぞれの視座からの「世界の映し方」が多様かつ鮮やかで、ゆえに人々の「わかりあえなさ」が浮き彫りになっていきます。

滅亡前夜までの人間模様

冒頭はそれぞれの主人公の何でもない日常から始まります。何でもない日常でもそれぞれに生きにくさを抱えており、人生が思い通りに進まない苛立ちや哀しさが端々に書き綴られます。

たとえば、いじめられっ子の中学生は

こいつら死んでしまえ。それが叶わないなら、ぼくがもう死んでしまいたい。

呪詛にも似た諦念感情をいじめっ子と自分自身に抱いており、まずもって人間の初歩的な「わかりあえなさ」、互いの不幸を願う感情が発露されています。

そこに「数か月後、隕石が落ちて地球が滅亡する」というショッキングなニュースが飛び込みます。物語はここから大きく動いていくのですが、大雑把にまとめてしまえば、人々は理性のタガが外れていきます。

暴力や略奪が日常茶飯事になり、あろうことか主人公も殺人を犯してしまう。その動機は様々なのですが、ここでもまた「わかりあえなさ」が伺えます。

地球が滅亡するという途方もない事実を突きつけられた時、果たして人は団結できるでしょうか。

僕たちの依拠する価値観は、社会秩序を保つ規範による抑圧で発現されます。とすれば、社会自体が崩壊する前提においては、暴力を非とする規範は意味を失うのかも知れません。しかし考えてみると、遠くない終末の時に全員の死は確定的なのに、何をわざわざ傷つけ合う必要があるのか。

このことからも、人間は自然状態ではそもそも他者に攻撃的であり、「わかりあえない」ことがデフォルトなのではないか、という仮説が浮かんできます。

人は、本質的に「わかりあう」ことができない

小説を読むとき、読者は主人公の人生を追体験しながらも、実際の視点は世界を俯瞰する立場です。ゆえに、登場人物同士のやりとりが、微妙に真意と食い違っていることにモヤモヤする、それもまた小説の醍醐味でしょう。

4人の主人公は偶然が重なり、ひとつの場所に集うことになります。けれども、最後の最後まで互いの真意を完全に理解するには至らず、知らずにいたことが多いまま滅亡の瞬間を迎えます。

主人公たちの人生は一言で語れるほど単純なものではなく、生い立ちや感情のもつれ、不可避の運命に翻弄されながら生きてきました。そして、現実世界の誰もが同じ状況だと思います。

僕たちは他者の理解を試みる時、それまでの自身の境遇で規定された価値観と思考の枠組みで対象を見つめます。ヤクザとして生きた男がいじめられっ子の中学生の境遇を根底まで理解できるはずもなく、逆もまた同様です。

「わかりあう」とは、相手の人生を、相手の生まれた起点から、相手の主観から眼差した世界を体験することによってのみ、達成される営みです。身体を分かち、境遇を分かち、会ってきた人も住んできた場所も異なる人間同士に、傷つけ合うことがデフォルトの人間同士に、そんな営みは望むべくもありません。

わかりえあなくても、一緒にいることはできる

では、わかりあうことを諦めた人々は、結局は争いの世界に堕ちていくのでしょうか。

この本はもうひとつ、重要な示唆を与えてくれます。

正しく平和な世界で一番欲し、一番憎んでいたものが、すべてが狂った世界の中でようやく混ざり合ってひとつになった。神さまが創った世界では叶わなかった夢が、神様が壊そうとしている世界で叶ってしまった。

この一節は、暖かな家庭に憧れながらも手に入らなかった、でも終末の時に様々な偶然が重なり、ついに離れ離れだった家庭がひとつになった場面に出てきたものです。

人がわかりあうことの必要性に駆られる時を思えば、多かれ少なかれ状況がノーマルではなく、利害なり争いなりを調停する場面でしょう。大袈裟な表現なので「神様が壊そうとしている世界」を誰かとの議論、言い争い、価値観の食い違いぐらいまで落としてみましょう。

平和な世界とは、対立軸が顕在化していない日常です。つまり、平和な世界は互いの確認を要する必要性がないため、本当はわかりあえていないのに、それを自覚できていないのです。

それでも、神様が壊そうとしている世界で家庭がひとつになったように、「わかりあう」ことが不可能だったとしても「混ざり合ってひとつ」になることは可能なのです。

わかりあうことを突き詰めようとするから対立はますます深まります。そうではなく、わかりあうことを一旦棚上げして、「わかりあえない」デフォルトを認め合うこと。わかりあえなくても、一緒にいることはできるという世界が、僕たちがコミュニケーションに求めている着地点なのではないでしょうか。

コミュニケーションの正体は「他者とわかりあう」ことではなく、「わかりあえなさを分け合う」こと。どこが一致できて、どこが相容れないのか。最初からわかりあえないことが前提であれば、終末を待たずとも、もっと幸せな世界に辿り着けると思うのです。

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