見出し画像

ヒューマンエラー:第71期王座戦第4局を振り返って

金木犀の香はたおやかに十月のヒューマンエラーの多かりしこと

 
 最近、将棋を指し始めた。これがなかなか面白くて、僕にしては珍しく長続きしている。藤井聡太八冠の活躍に羽生善治九段の将棋連盟会長就任もあって、メディアでも頻繁に話題となる将棋界だが、世間でもしばらく前から空前の将棋ブームが到来しているという。

 もともとは、いわゆる〈観る将〉だった。タイトル戦など注目のプロ棋士の対局について、棋譜解説の動画配信を見始めたのがきっかけだった。そこからしばらくして、オンライン将棋ゲームの実況動画を見るようになり、いつしか自身もオンラインでの対局に興じるようになっていた。
 大学時代には一時、友人とチェスを指すことはあったけれど、将棋を指すのは子どものころ以来、かれこれ二十数年ぶりになる。〈観る将〉から実際に対局に臨むに至ったのには、実況配信という動画の性質によるところが大きいように思う。アマチュア有段者による実況配信では、配信者がまさにオンライン対局に臨みながら、局面ごとの展開や戦術、寄せの構想や一手の意味合いを逐一解説している。この実況が、見ているだけで随分と勉強になるように感じられる。

 見ているだけで勉強になる・・・・・・・・・・・・、というのはあながち誇張ではないと思う。かつてならば、ある局面の展開を学ぶ場合、実際に盤上の駒を動かしたり、棋譜や局面図を用いてシミュレーションを重ねるのが当然だっただろう。現在の実況配信動画では、今まさに耳にしている解説及び先の展開を、画面上の盤面に視覚的に追うことができる。メディアの発展に伴い、プロの世界においても、研究の深度は飛躍的に進歩しているという。もちろん、それにはAIの登場が大きく寄与していることは言うまでもない。



 2023年10月11日、第71期王座戦五番勝負の第4局にて、挑戦者の藤井聡太竜王・名人は永瀬拓矢王座を138手で下し王座を奪取、史上初のタイトル八冠を達成した。この王座戦第4局の最終盤はライブ配信にて観ていたが、その壮絶な幕引きはいまだに強く印象に残っている。
 
 両者得意の角換わりの戦型となった本局は、序盤から永瀬王座の研究が冴えわたる。自玉と両サイドの2枚の金を初期位置から動かさないという永瀬王座の駒組は、一見、素人の指し手のように思われたが、要所で藤井七冠は長考を重ね、中盤では残りの持ち時間に3時間以上もの差がつく展開となった。そこから永瀬王座は持ち時間を使いつつ、形勢有利に終盤へと差し掛かる。
 先に5時間の持ち時間を使い果たした藤井七冠が1分将棋に入り、永瀬王座の猛攻を受ける展開となる。そこから永瀬王座も持ち時間を使い切り、両者1分将棋に突入した最終盤、藤井七冠の122手目は5五銀打ち。この手にAIは、藤井3%:永瀬97%という評価値を示し、藤井七冠の敗色が濃厚となる。そして次の123手目、残り10秒の秒読み段階でAIの示す評価値は1%:99%となっており、誰もが永瀬王座の勝利を確信したなかで、永瀬王座は5三馬と王手をかけた。
 が、この5三馬に、解説者は驚きの声を上げ、一気に両者の評価値は逆転した。藤井七冠が2二玉とかわした時点で、AIの評価値は藤井99%:永瀬1%を示した。自らの悪手で藤井玉が詰まなくなったことを悟った永瀬王座は、呆然と宙を仰いだのち、激しく頭を掻きむしった。この後、藤井七冠は正確な指し手で永瀬玉を追い込み、ついに138手目の5六歩をもって永瀬王座は投了し、ここに藤井聡太八冠の誕生となった。

 
 最終盤のたった一手で、圧倒的有利な形勢が逆転してしまうという将棋の怖さ。敗着となったこの5三馬について、後に羽生善治九段は次のように語っている。これが、対局開始直後のフレッシュな状態なら、まずプロ棋士が間違えることはないだろう。しかしながら、10時間以上、極限の緊張感のなかで対局を続けた末に、1分将棋の秒読みのなかで正確な手を指すことは人間には難しい、と。
 また評価値についても、AIは短時間で膨大な先の展開を読み切るので、1%:99%のような大差を示すことができる。けれども、その値が示すのは、あくまでその先の10~20手を正確に指し続けた場合の結果なのだという。実際に対局に臨んでいる棋士にとっては、AIが示す値ほど圧倒的な形勢差を必ずしも感じているわけではないらしい。

 このあたりに、将棋におけるAIと人間との違いがあるようだ。事実、藤井竜王・名人の122手目、5五銀という手は最善手ではなかった。劣勢時にAIが示す最善手は、往々にして単に延命を図る手にすぎない。翻って、ときに人間が指す予想外の一手が相手を惑わし、大逆転への布石となることがある。結果的に、本対局ではこの一手から形勢は逆転し、そして藤井聡太氏による史上初のタイトル八冠という偉業が達成されることとなった。


 
 藤井氏の粘りと見事な終盤力、八冠独占という偉業達成の瞬間として、この王座戦第4局はこの先も語り継がれてゆくだろう。けれども、本対局に関しては、自らの決定的な過ちに気づいた後の、永瀬王座のあの頭を搔きむしる姿が強烈に印象に残っている。プロのトップ棋士が、対局中に、相手の手番であるにも関わらず、あれだけ感情を露わにする場面はそうそう見られるものではない。
 およそ人間がその思考力と集中力、あるいは創造性や精神力をもって臨み得る極限の地平を、あの瞬間に垣間見たような気がした。そして、その高みにあってなお避けられなかった一つの致命的なミス—— その世界線は、瞬時に数億手を読み切り最善手にたどり着く人工知能 A Iには決して侵せない、人間の領域なのだと思う。

 明らかにAIが人間の力量を上回った時代において、プロの棋士の存在意義とは何なのか。羽生善治九段はあるインタビューにこう答えている。「何が価値なのかを考えたときに、それは物語ではないかと思っている。単なる勝ち負けではなく、勝った負けたを繰り返していくなかで紡ぎ出される物語に対して、人は魅せられたり魅力を感じているのではないか。」
 藤井聡太八冠が、そしてタイトル奪取を狙う多くのプロ棋士たちが、この先どんな物語を紡ぎ出していくのか。将棋界から目が離せない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?