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月へ

たこ焼きをひっくり返しつつ思う月面宙返りムーンサルトと呼ばれし技を

 
 人類はいつから月を目指さなくなったのだろうか。そんな疑問が胸をよぎったのは、つい先日のことだ。

 2022年12月11日、アメリカ航空宇宙局NASAの無人探査機オリオンは月周回軌道でのミッションを終え、パラシュートでメキシコ沖太平洋へ着水、無事に地球へ帰還した。この12月11日は、1972年にアポロ17号が人類最後の月面着陸を果たしてから、ちょうど50年後にあたるという。
 米ソ冷戦下の1960年代に始まった、NASAによる人類初の月への有人宇宙探査計画、通称〈アポロ計画〉は、計6回の有人月面着陸に成功している。1969年、ルイ・アームストロングとバズ・オルドリンが人類で初めて月面を踏んだその瞬間、はるか地球ではじつに世界人口の20パーセントの人々がその光景を固唾を吞んで見守っていたという。アポロ計画により持ち帰られた〈月の石〉は、翌1970年の大阪万博の目玉として、アメリカ館に展示された。当時、ひと目〈月の石〉を見ようと長蛇の列に並んだ、という人も多いのだろう。

 アポロ11号の月面着陸、それから大阪万博は、僕が生まれるおよそ20年も前の出来事だ。けれども、両者の映像はこれまでに幾度となく目にしているし、その光景は〈歴史〉としていつしか記憶に刻まれている。だからこそ、最後のアポロ計画から半世紀もの間、たった一人の人間も月面を踏んでいないという事実には驚きを隠せないでいる。
 50年という月日のなかで、生命科学や遺伝子工学、情報工学、その他あらゆる分野において、科学技術はおそろしく進歩を遂げている。身の回りの日常生活においても、無人機ドローンが飛び交い、遠隔リモートで繋がり、スマートフォンがあればたいていのことは事足りるようになった。そんな現在の姿を、かつて万博に列をなした人々は想像し得ただろうか。にもかかわらず、依然として月は、遠い。

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 半世紀の間に、著しく発展を遂げたのは科学の世界に限らない。例えば、スポーツ。陸上男子100メートル走では、1968年にジム・ハインズによって記録された9秒95という当時の世界記録は、2009年のウサイン・ボルトにより9秒58まで更新されている。あるいは、フィギュアスケートでは、1952年に初めて3回転ジャンプが跳ばれたというが、今や4回転全盛時代となり、複数の4回転ジャンプを演技構成に組み込まなければ世界の舞台では勝てなくなっている。

 そんなスポーツの世界におにて、何よりも飛躍的進歩を遂げた種目は、体操競技ではないかと思う。1964年の東京五輪の時代には〈ウルトラC〉ということばも生まれたが、今やそんなことばを覚えている人も稀だろうか。
 体操競技における技の高度化は凄まじく、当時A~Cの三段階のみであった難度は、今日ではI難度まで創設されている。それに伴い採点方法も、長らく親しまれていた〈10点満点〉は2005年に廃止され、以降は、上限のないD(Difficulty\難易度)スコア及びE(Execution\完成度)スコアの合計とされ、今や15点台や16点台という高得点が出るようになった。

 
 さて、冒頭の一首中の「月面宙返りムーンサルト」とは、1972年のミュンヘン五輪にて塚原光男が発表した鉄棒の下り技である。奇しくも、人類が最後に月に降り立ったその年に発表された新技は、当時、世界中の人々の度肝を抜き、塚原は9.90点の高得点で金メダルを獲得している。  
 この月面宙返りムーンサルト、すなわち〈後方抱え込み2回宙返り1回ひねり〉という技も、それ以来著しく進化を遂げている。現在、五輪や世界選手権の舞台で主流とされる鉄棒種目の下り技は〈伸身の新月面〉、すなわち〈後方伸身2回宙返り2回ひねり〉となっている。2004年のアテネ五輪男子団体決勝にて、富田洋之が日本の28年ぶりの金メダルを確定させ、〈栄光への架け橋〉の実況でもお馴染みとなったこの技と、塚原の月面宙返りムーンサルトとの差は誰の目にも歴然である。

 この半世紀の間に、およそ同じ人間技とは思えぬほどに極めて高度化を遂げた体操競技。〈ウルトラC〉という語がとうの昔に死語となった今、「月面宙返りムーンサルト」の語源となった月面着陸を、人類はそれ以後、一度たりとも果たせてはいない。

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 無人探査機オリオンの帰還カプセル回収を発表したNASAによると、現在進行中の〈アルテミス計画〉では、2025年、あるいは2026年には再び人類を月面へ戻す予定だという。その後、2030年代後半には、人類は火星へ到達し、さらにその先を目指すとのこと。その世紀の瞬間を我々が目の当たりにするのは、果たしていつの日になるだろうか。
 

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