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自分のことだけを考えるのではなく、いつも周囲の人たちに、優しい心と目を向けられる人が、本当の意味で賢い人だ。

『その苦しみは続かない』という本に出会いました。
竹内昌彦さんという視覚障害の元教員が書かれた本です。
同じ教員として学べること、
同じ人として学べること、
1時間で読み終えた読後感はとてもいいものでした。
少しばかり内容をお裾分けします。

「おめえら、いろいろ言いよるけどな、そのノートの鉛筆は、薄うてよう見えんのじゃねえか。竹内、わしのを見てみ。わしはお前が見やすいように、今日から鉛筆を変えたんじゃ。2Bいうてな、線が濃く書けるんじゃ。これを使ええ、貸したらあ」みんな競争して、なんとか私の役に立とうとしてくれた。目の不自由な私の役に立ち、親切にすると、先生に褒めてもらえた。
島村先生は、子どもたちに「いじめはいけない」とは言わなかった。しかし先生の姿勢が、60人のクラスメートに対し、何が正しいことで、何が人として恥ずかしい行為かということを、あっという間に教え込んだ。

P.33

「でもなあ竹内くん、私から見ると、その『5』は一つも本物ではありませんね」
「先生、本物の「5」いうてどんなん」「あなたは、自分の成績だけが良かったらいいと思ってるでしょ。あなたの様子を見とったら、それがようわかる。勉強のようわからん友だちを放っとるじゃう。今年は自分のことだけで一生懸命だったから、仕方なかったと思うけど、来年は勉強がようわからんで困っとる友だちに、親切に丁寧に教えてあげるようにしなさい。それができたとき、あなたの『5』は本物になるんよ。いくら100点を取っても、みんなのために使えない100点なんか意味がありません。来年こそ本当の『5』にしなさいね。先生はいつまでもあなたのことを見てるわよ」
有頂天になりかけていた私に、先生は大切なことを教えてくださった。

P.66

「いじめは絶対に許さない」と題目を唱えるよりも、
教員が醸し出す雰囲気に生徒が誘われ、
教室全体が温かな感情があふれる空間になることの方が、
よっぽどか効果がありますね。
「本物の5」は、ぜひ我が教え子にも伝えていきたい素敵な見方です。

「竹内さん、あんたが盲人用の卓球台をいろいろいじりょうることは、前からよう知っとった。それでもわしは、黙って見とったんじゃ。あんたは何も悪いことをしとったわけじゃねえ。なんとか生徒だけでネットが上手に張れるようにならんか工夫して、生徒と一緒にあれこれやっとったろ。ええことをやろうとしとったんじゃから、わしは何も言わんでもええと思うとったんじゃ。
まあ、わしに先に相談してくれとったら、安心はしとったけどな、心配せんでもええ、もっとええ工夫があったらやってみてくれたらええからな。わしも助かる」予想していない言葉か返ってきて、ほっとすると同時に、そんなふうに見ていてくださったことがうれしかった。
「わかりました。これからは気をつけるようにします。すみませんでした」ともう一度頭を下げてさがった。
このときの体育の先生の言葉から、私はある教訓を得た。確かに私には手続きに不備があった。それを許してくださったのは、それが私自身のためというのではなく、「生徒のために役立つことをしている」ということがあったからではないのか。これからも仕事のうえで「どうしようか、どっちが正しいか」と迷うことがあるだろうが、そのときの判断基準は「本当の意味で、生徒のためになるのは何か」というところにおけば、間違いないということではないか。そうしておけば、たとえ間違った結果が出たとしても、「生徒にとっていいことだと思ってやりました」と顔を上げて歩くことができる。自分自身に対しても、胸を張ることができると確信した。

P.104

かなりお酒の入った席で、彼らは教務主任だの保健主事だのややこしい仕事が回ってきていることをぼやきだした。私は「いま舎監をやっているけど、舎監長をやれと言われて断ったぞ。あんなやっかいな仕事なんかやっとれんからなあ」と、なんとはなしに切り出した。
すると、思いがけない反論にあった。
「竹内くん、そりゃあ、少し違うんじゃないか。『長」がつくような仕事はしたくないというのは、きみの個人的な好き嫌いの問題じゃないか。全盲であっても、あなたなら舎監が任せられる、舎監長もやってもらいたいというのは校長さんたちが考えたことじゃろ。それを個人的な好き嫌いという理由だけで、断ってもいいものかなあ。
よほどの事情があるのなら仕方がないけれど、せっかくやらせようと言われた公の意志を個人の好みだけで捻じ曲げてもいいものなのかなあ。今度そんな話があったら、ちゃんと受け止めて頑張ったほうが、世の中のためになると思うぞ」友人の予想外の言葉に、私は何も言えなかった。

P.170

この2つの箇所からは、仕事に対する向き合い方を学びました。
「生徒のためになるか」という判断基準は、教員として絶対に譲れない。
逆に言うと、そこさえブレなければ、どこであろうが何をしていようが、
教員として働く矜持を持ち続けることができるのではないかと思います。
「公の意志」と「個人の好み」、学校を社会の公器と捉えると、
優先すべきは「公の意志」かと私は思います。(昨今は価値観も変化しているかもですが。)
とりわけ、公立学校で勤める身としては、
このような想いを常に抱きながら、「全体の奉仕者」として、
自身の役割を全うすることで社会に貢献できればと考えています。

いまの日本では、1日に約60人の人たちが自殺をしている。そのほとんどが目の見える人たちだと思う。つまり、目の見える人たちのほうが、視覚障害者よりもはるかに苦しみ、悩み、大きな問題を抱えているのかもしれない。
誰の苦しみが大きく、誰の悲しみは小さいと、誰も決めつけることはできない。その人にとっては、その悩みは命を捨てたいと考えるほどの重大なものなのである。
身の回りに苦しんでいる人たちは大勢いる。同僚が仕事に疲れているかもしれない。「あとは私が片づけておくから、早く帰って休めよ」と言えないだろうか。
母親が疲れているかもしれない。「お母さん、お風呂掃除をして、お湯を入れておいたよ」と言えないだろうか。
一人暮らしの高齢者が、大きな袋にゴミをいっぱい詰めて運び出している。「私がゴミ捨て場まで持っていきましょう」と言えないだろうか。
クラスメートが病気で休んだ。「みんなで手分けして、ノートを写して持っていってやろうよ」という話にまとまらないだろうか。
隣の奥さんが病気で寝ている。「買い物に行きますから、ついでに必要な物を買ってきましょう」と見舞ってあげることはできないだろうか。
自分のことだけを考えるのではなく、いつも周囲の人たちに、優しい心と目を向けられる人が、本当の意味で賢い人だ。そういう優しさを持てる人が、本当の意味で強い人でもある。こういう人たちで世界が埋まったとき、障害者はもちろん、健常者も安心して生きていける社会になる。何が起きても、将来に絶望するのでなく、やさしく支えあえる社会を、人間ならつくることができると、私は信じている。

P.221

本当に賢い人、本当に強い人を育ててこそ、
教育の役割を果たしたと言えるのではないだろうか。
これまで、その役割を十分に果たしてこれただろうか。
この文章を読んで、教員人生を振り返ると、
できていないことが山のように浮かびます。

「やり直しはできないが、出直しはできる」

私の好きなことばの一つです。
教員人生、また一から出直して、
決意を新たに学び続けたいと思う次第です。

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