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”立派なダウン症”とお墨付きをもらった話と謎の呪文

 第4子を加えての新たな生活が始まった。(この時はまだ”疑い”だったのだが)最初の頃は初めて接するダウン症の子どもということで、親の方は妙に力んだり緊張していたかもしれない。息子が退院した春には長男が高校入学、長女が小学3年生に進級、次男が小学校入学と、上の子ども達もそれぞれ新しい道を進み始めていた。特に初めて”お兄ちゃん”となる次男は初めての弟に興味津々だ。学校に行く前や帰宅した時には必ず末っ子のもとに駆け寄り、顔を見るのが新たな日課となっていた。思春期真っただ中の長男も母に変わりミルクをあげたり、あやしたりと可愛がっている。弟2人めとなる長女もおもちゃを渡したり声掛けしたりと甘々で愛でている。

 母である私は遅々として進まない授乳ばかりしていたように思う。全身の筋力が弱い息子は母乳を飲むだけでもゆうに1時間以上はかかっている。朝から晩までふにゃりとした息子を抱えて1日を過ごしていた。そして常に呪文のように「お母さんが必ず守るからね。うちに来てくれてありがとう。」と繰り返し息子に語り掛けていたのだった。

 NICUを退院してから約2週間後に1ヵ月検診があった。本当は生後1か月を過ぎていたのだが、退院後順調に成長しているかどうかを見てもらう大切な検診である。そしてもう1つ重要なミッションがある。退院時に検査したダウン症かどうかの答えを聞いてくるのだ。

 順番に身長や体重をはかり、最後に主治医の診察がある。想像していたよりも100倍くらい簡潔に「お子さんはダウン症です」と告げられた。思わず私も「立派なダウン症…ですか…」と返してしまった。後で思い返せば、なんでコントのようなやり取りをしたんだろうと我ながらおかしくなる。もしかしたら自分自身の動揺から身を守るべく、笑いのエッセンスを入れてしまったのかなとも思う。
 その後はこれから成長していく上での注意点など詳しい説明を聞き家路についた。

 思いっきり昭和生まれの私は夫には通常通り仕事に行ってもらい、重要な告知の時も自分1人きりだった。私1人で息子を連れて検診に行っていたので、帰り道に車を運転しながらアクセルを踏む足がずっと震えていたことだけが生々しく記憶に残っている。

 これは自分の性格の特性というか問題だと思うのだが、はっきりと主治医にダウン症と告げられたことで、とても爽快なすっきりとした気持ちになっていた。もちろん、これからどう育っていくんだろうとか、この先どうしたらいいのだろうかという不安がなかったわけじゃない。が、自分の場合は「ダウン症をもって生まれたからには仕方ない」という腹を括る覚悟のようなものが出来ていた。

 保育器の中の息子を初めて抱っこした時に感じた息子自身の「生きる力」や「たくましさ」に賭けてみようと素直に思った。


 我が家ではそれぞれの子どもの年齢がかなり離れていることもあり、第2子以降のこどもの名前は子どもを含めた家族全員で決めてきた。そして今回我が家にやってきた息子の名前も家族全員一致で名付けられた。


 今回仲間入りした息子は「楽」という。



 妊娠中のエコー検査の度に必ず肩から下しか画像に映らず、顔を見せないくせにいつも手を振って楽しそうにしていたところから名付けられた。ダウン症と判明した後に知ったのだが、ダウン症の赤ちゃんの場合、首の後ろに浮き輪を付けたような浮腫みがでることが多く、出生前検査をしなくても首の浮腫みでダウン症が判明することもあるらしい。きっと楽はエコー検査の時に意図的に位置をずらして首付近が映らないようにしていたに違いない。のちのち分かってくることだが、楽を見ているとダウン症を自分の意思で携えて生まれてきたんだろうなと妙に納得してしまうほどの力強さがある息子だった。

 そしてこれも後から考えると不思議なのだが、なぜ私は出生前検査を断った時にあんな予言めいた言葉を言っていたのだろう。出生前検査をすすめた医師に対して「たとえ障がいがあっても無くても生む意思に変わりはありません。通常のエコー検査で手がない・足がない場合は教えてください。生むことに変わりありませんが、出産後のサポート体制を整えるために知りたいのです」と。偶然の一致か、はたまた少し先の未来を感じ取っていたのかもしれない。


 かくして楽は”立派なダウン症”というお墨付きをもらい、母である私を新たな世界へ連れて行くのだった。




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