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あなたは蟻ではなく、大鷲である


「人から受けた心の傷が癒えないのです。フラッシュバックみたいにその時のイメージがよみがえってきて、毎晩、私を苦しめるんです」
 
とある人から、こんな相談を受けたことがある。

その人の苦しみの要点は二つある。一つは、傷が癒えるのかどうか、という不安。もう一つは、傷つけられた自分は傷ついたままで、傷つけた相手は、私を傷つけたことで優越感を持ったまま気持ちよく生きてゆくのか?という人生に対する不条理感である。
 
「自分のような弱者はいつも傷つけられ、踏みにじられて、踏みにじったものは気持ち良いままなのですか?」
 
この二つの苦しみには、一つの答えから紐解くしかない。それは「傷つけられた自分とは何か?」である。また「他者を傷つけることで優越感を持つ存在とは何者か?」という根源的な問いを解くことである。この問いに答えることができれば、出口は見つかる。
 
よくよく見てゆくと、弱い相手を傷つけることで優越感を持つ「私」などろくでもないし、ちっぽけなものだ。卑小と言ってもよいかもしれない。いじめや、虐待の原因は、エゴというものが本質的に卑小で、広大無辺な世界から見るとちっぽけで、取るに足らないものであることから生まれる。
 
つまり、内心では自分の存在価値がないことに怯え、満たされていないことから生まれる。自分を肯定できず、自分自身で自己充足的に満たされていないエゴは、自分より小さなものを見つけ、踏みつけることで優越感を持ち、自らを肯定し、心地良くなり、より巨大になることを望む。
 
しかし、あなたは本来、蟻のように踏み潰されるような、やわな存在では決してない。なぜなら、あなたはその差別構造の事実を「見る」ことによって、そんな蟻たちの戦いを超えて、いつでも飛翔することができるからだ。鷲のように大空高く飛翔し、高みから蟻の行列を見つめる「眼差し」それ自体が、実は、あなたなのである。
 
あなたは、大鷲である。
 
空からそうした哀れで、不毛な営みを見つめる透徹した「目」それ自体が、あなたの本質なのだ。
 
空を飛ぶ鷲は、地上を這って、縄張りを争っているちっぽけな蟻に噛み付かれたりしない。ましてや、踏みにじられ、否定されるようなちっぽけな存在ではない。このことを理解した時、そうした不毛な争いの中に生きなくてはならない人々を哀れみ、理解し、新しい生のあり方を示すことこそが、これからの人生の義務になる。このことを本当に理解した時、過去の傷や、今の苦しい環境を超越できるようになる。諸々の現象が与える傷から、自由になることができるのだ。
 
「そんなことを言われても私にはできませんし、わかりません」とその人は答えた。
 
そう、もちろん、そんなことを急に言われても、わからないだろう。
 
それは現実の困難な人間関係と直面し、自分の揺れ動く自我を見つめ、他人の自我の働きを同じように見つめつつ、理解し、受け入れ、実践する中で肉化してゆくしかない作業だからだ。
 
見つめ続けることそれ自体の先に、自我を超えた飛翔があり、広大な世界が開いている。
 
この「あるがまま自己凝視と世界の凝視」という方法論は、「あるがまま」の事実から離れないが故に、真実で、確かなものであるが、地道で、ときに辛い作業でもある。
 
宗教や、教祖や、メソッドや、ある思想の中に逃避したくなるのも当然だし、大抵の人は自分をごまかし、脇道に逸れる。だから、誰にでも実践できるものではないし、向いてない人がすると心理的な傷を深めたり、自虐的になり過ぎたりして、逆効果の場合もある。
 
しかし、少しばかりインスタントな方法はある。とりわけ、その人が生きるか死ぬかの状況ならば、何らかの具体的方法を必要とするだろう。
 
「だったらさ、何か言われても、この人はこんなことでしか自分の存在を肯定できないんだな、かわいそうだなって思えばいいのじゃない?」と私は言った。「よくよく見ると、そんな人はかわいそうでしょ?」
「それならできる気がします」とその人は少しほっとした様子で言った。
「かわいそうだと思って見ているだけで、あなたはその相手よりも上にあるからさ、上から目線で見てやればいいじゃん。そしたら相手の嫌味なんて気にならなくなるよ」
「それは不遜というものではないでしょうか?」と相手は疑問を呈した。
「そんなことはないよ」と私は答えた。「人間、どうしようもないのもいるよ。そんな相手と同じ土俵に立って傷つけられることを認めてしまう方が、自分という存在に対する愛の欠如なんだよ」
 
これは、気を紛らわすだけのアドバイスかもしれない。しかし、とりあえず自我の争いの土俵から少しでも高みにある眼差しを獲得することが重要なのは事実である。
 
ときには他者に対する哀れみのまなざしが、愛に至る通路になることもある。だから、生きた人間に対し、定型句で対峙することはできない。たとえそれが正しいものであったとしても、現実世界でその「正しさ」を押しつけると、間違っていることもある。
 
要は、ケースバイケースなのだ。その瞬間、その相手に合った言葉なり態度を見つけ出し、表現してゆかなければ何も伝わらない。
 
瞬間、瞬間の具体的身振りによる表現――それが我々が肉体を持つ意味のひとつである(その点、自分はまだまだ足りないな、と思う。どうしても、こんな風なごたくを語りたくなってしまうのだ)。
 
誤解を恐れずに言えば、我々の肉体や様々な芸術というものは、見えざる神の具体的顕現のためにある。そこには「定型の方程式」などどこにもないし、ゴールもない。それは常に更新され、新たに創造され続けるものだからだ。
 
私たちは誰もが、常に時代から挑戦を受けている芸術家である。
 
「この困難な時代において、あなたは真実をどのように表現するのですか?」と。
 
芸術家であろうと、勤め人であろうと、家庭人であろうと、我々はその責務から逃れることはできない。
 
だからマイナーな物書きの一人でしかない自分も「悟り系」やら「無我表現」やら、試行錯誤しているが、まだまだ実になっているとは言いがたいのが現状である。
 
(アメブロ掲載記事2012年・改稿)

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