『青春とシリアルキラー』

 ネタがない……わけではないのだが、蓮田彩子の日常は十年一日のごとく何も変わらない日々の繰り返しなので「何もない」を書くのはつまらなく思い更新を止めていた。ただ日記を書くに当たり三日坊主にすらならないのもなんとも情けない、これでは何のために生きているのかわからない、そんな日々を過ごすのも慣れ切っているとはいえ「何か」をすることは大事なのでここにつまらない日常を記す。

 佐藤友哉の『青春とシリアルキラー』を読んだ。読み終わったのはひと月以上前だが。佐藤友哉の小説はデビュー時から読んでいた。講談社ノベルスが好きでその前にメフィスト賞が好きで、そもそもは綾辻行人をはじめとする本格ミステリが好きでそうなると講談社ノベルスを読むのは必然と言える(綾辻らを読んだのは文庫でだが)。京極夏彦に驚嘆し森博嗣と西澤保彦の新刊を毎月購入し浦賀和弘の作風に度肝を抜かれ殊能将之の洗練されたミステリに心を惹かれそんな中「戦慄の十九歳」が『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』という狂ったお話でデビューした。なんと素敵な時代だったことか!

 そんな佐藤友哉の最新作は青春もとうに過ぎ中年の域に入ろうとしている作者(と作中人物)がダメな自分を自虐的に描いた青春(時代に戻りたいと願う?)小説である。読んでいて思い出した。そうそう! 佐藤友哉はこういう作風だったよね、と!

 「青春とシリアルキラー」では作者自身を思わせる主人公が平々凡々と主夫業をして毎日を過ごしているがどうも幸せを感じられない。痛いのは嫌だからって理由で自殺はしないだけ。ま、大人になるってのはそういうことだよね。何もしなくとも日常は続くのだ。人の感情とか関係なく地球は毎日廻っている。……なんて情けない中年男性の感情の吐露はその年代に特有なものなのか、もちろん違うよねこじらせてるユヤタンだからこその感情なわけで、この作者の考えに共感できるかどうかが本書を面白く読めるかどうかだと思う。蓮田彩子としては当然面白かった。誰もが大人になってその大人がみんな正しい大人になり切れるのか、少年時代こじらせていた人でも成長すれば「普通」の大人になってしまうのか、「普通」とか「正しい」とかなんなのか、こじらせたまま大人になってはいけないのか、社会に生きる上で「生きにくさ」を感じている子供が青年になって中年になっても「生きにくさ」を感じたままではいけないのか、そんなことはないのだと断言してくれる最後の一行は感動すら覚えた。

 コロナ禍で生活様式が変わり不自由な生活を余儀なくされた世界中の人々。いやいや、自分たちはパンデミックが広まる前から家にこもる生活だったぜ、この生活が「息苦しい」と感じるのが「正しい」のか?

 「不快から快楽を得てもいい」

 「ウイルスで幸せになってもいい」

 それは決して誰かの不幸を幸せに思うことではない。そうではなく、生きてることに幸せを感じられる人が多くいる一方でそうではない人も確かに存在するのだ、マジョリティとマイノリティが逆転し快哉を叫ぶときがやってきたのだ! 俺たちこそパイオニアだ! そう思える時代がようやくやってきた。皆さん、コロナ禍で「生きにくさ」を感じていなかった自分を恥じる必要はないのですよ。

 ただ、そのコロナ禍もいつか終わりを迎えてしまう。何事にも始まりがあれば必ず終わりがあるのです。

 同時収録された「ドグマ34」は「青春とシリアルキラー」の前日譚で、神戸連続児童殺傷事件の犯人「少年A」の軌跡を辿るロードノベル(?)。何故あのような事件が起きたのか考察する内容ではもちろんない。「青春を辿る旅」といってもいいかもしれない。実際にあった残忍な少年犯罪の犯人の行動を後追いするという内容で一見悪趣味だけど、佐藤友哉は基本的にユーモアのある作家だから不快感を感じるものではないと思う。

 凶悪な犯罪を犯した人間は、果たして本当に自分とはまったく懸け離れた人間なのかな? もしかしたら紙一重かもしれないね。

 小説を読む人は年々減っている(?)のか知らないが、少なくとも電車の中で本を開いている人は自分以外ほぼ見かけなくなった(電子書籍を読んでるだけ?)。読書家はマイノリティなのかどうかそれはともかく、読書って独りでするものだしそこから何を受け取るか(あるいは何も受け取らないか)いやそもそも読書はただの娯楽だから受け取る必要はないんだけど、小説を読んで何かを受け取ったならば、それも何百冊と読んで何かを受け取ったのならばそれはその人の糧になる。電車の中でずっと俯いて本を読んでいる蓮田彩子のような社会的弱者のためにこそ小説は存在すると勝手に思っている。