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へんてこ長男妊娠育児と私の結婚初期までの人生

はじめての妊娠、出産


私のお腹の中の長男の姿を産院のエコーで確認できたとき、
私は心から嬉しかったことを
今でもはっきり覚えています。
23歳だったので、「若いお母さんね」と看護婦さんに言われました。
帰りに産院近くの本屋でたまごクラブを買いました。

その後、何の問題もなく夫立ち会いのもと、
長男を出産しました。
自宅に帰宅後、眠るときは基本的に抱っこで布団だったかクッションに寄りかかる形で、朝ごはんはカロリーメイトでした。
はじめてのことだらけで心身ともに疲れはて、
長男が何で泣いているか分からないことが続いた生後3週間がたつ頃、
泣き止まない長男を夜中、ベッドに投げつけそうになる一瞬手前までいきました。
何とか理性で持ちこたえましたが…
そんなこんなで一人目育児はやはり、一番神経質だったと思います。


長男のこだわり特性

一歳を過ぎた頃だったか、長男のこだわりのある一面がはっきりと現れはじめました。
長男は積み木や木製の線路、電車、プラレール等がお気に入りのおもちゃでした。
毎日飽きもせず、木製の線路を繋ぎ、電車を走らせ、電車が脱線して倒れる度にぐずる…
積み木の並べ方に独特のルールがあり、
それ以外は許せず、他の子が少しでも積み木の並べ方を変えたり、
一つでも積み木をもっていこうものなら
長男は泣いて怒り狂い、取り返すまで譲らない…そんなこだわりのあるマイルールのある子でした。

幼い頃の長男に頻繁にぐずられる日々の中、ある日私は長男が1日何回ぐずるのだろうと思って、
朝起きてから夕方まで長男がぐずった回数を
数えたことがありました。
そうしたら24回でした笑
朝7時か8時から夕方5時か5時半までくらいだった記憶があるので、8時から5時と仮定すると…1時間に2、3回はぐずっていた計算になります。
こだわりが強い上、気持ちの切り替えも下手な長男なので、
毎日本当に大変な時期でした。


学生時代~育児初期の私の話

その頃の私はマイホームに憧れがあり、
雑誌や広告は隅々まで見て
資料を取り寄せたり、オープンハウスに行ったり…私にマイホームに憧れがあったのはなぜなのか、少し私の人生を振り返りながら綴っていきます。
※ちなみにそのマイホームは子供達に見事ぼろぼろにされました汗

地元や学生時代の友達の中では私ははやくに結婚した方だったし、
あっという間に一人目も授かった…

就職で住む場所が遠くなり、おいそれと以前のように気軽に会えない友達も増えたし、
独身既婚等ライフスタイルが違ったり、
たとえ結婚していても地元から離れた友達と
幼子のいる身で会うということは
なかなかハードルの高いこととなりました。

また、私は超就職氷河期ど真ん中世代で、
就職活動にも苦労したし、やっとの思いで新卒で入った会社は人間関係に挫折し、半年で退職。
※今なら対応が分かるので、そんな簡単に挫折はしない笑、私は若かった&時代がまだ昭和体質
その後決まった転職先は、なんと入社一ヶ月で業績悪化のため私の入った支社をしめる決定がされ、リストラされました。
私の父親は高校生の頃に病気で既になくなっており、母親は末期がんでホスピスに転院するかどうかの時期でした。

一人っ子だった私は18歳から母親がなくなるまで、大学に通いながら母親が入院する度
家のことをして、アルバイトして、看病していました。
実際私の人生の中でも圧倒的に大変な時期だったし、
甘ったれにしか見えないまわりの大学生に
心底腹立たしく思っていました。
※今振り返ると恥しかないです、今高校生の娘の方が大人で様々な人達を受け入れる器があります


そんな一人っ子で両親をともにはやくに亡くした私は、
あたたかい家庭がほしかった…
その思いが強くなったのは、母親がなくなる数ヶ月前にリストラされた時です。
社会人は代替可能だけど、
家族は代替不可能であることを身をもって
実感していました。

とはいえ、長男幼少期の頃は私もまだ20代で、社会に取り残されている感じが拭えず、フルタイムで働くことを迷った時期もありました。
しかし現実問題両親はいない、義父母に頼るのは気が引けるので、 
子供が病気になったとき、私が会社を休まないといけないと考えました。
そうすると会社では疎ましく思われてしまう可能性があるし、私自身も罪悪感にさいなまれるなと思いました。
そして、何より子育ては今しかできないし、母親になることは女性として生まれたことの特権の一つだとも思いました。
仕事は年いってからでもやれるけど、子育ては今しかない、お金は多いにこしたことはないけど、今は子育てに集中しようという結論に至りました。
もちろん、贅沢しなければ何とか夫の給料で生活できると踏んだからで、
夫には感謝しているし、
生活のためなら私も否応なくフルタイムで働いていたと思います。
また、今そのような働き方をされているお母さん方のことは心から尊敬します。




話は戻って、友達はいない、社会との接点も持てない私は
次第に雑誌にのっているような、
素敵な料理やインテリアで彩られるような暮らしをする、
家族思いのママに憧れるようになりました。
※恥恥恥笑

マイホームは基本の型は決まっているけど、できる範囲で希望を叶えてくれる注文建築で
建てました。
もちろん夫との喧嘩もありましたが、ほぼ私の希望通りの新築一軒家が建ちました。
※夫の好意や大きな器のおかげ?せい?なのか、私はこの辺りから子供時代経験しなかった、わがまま放題したい放題を謳歌するようになる

料理やインテリア、音楽や服装等は家に合わせた
ナチュラルかわいいものを好むようになり、
児童館で知り合ったママ友親子を料理や手作りお菓子で
もてなすようになりました。

そこから長女幼少期くらいまでかな?
いわゆるお稽古事に精を出すようになりました。
まぁ、それは今も変わってないのですが笑
また自宅で料理教室ひらいたり、何か特技のある人達招いたイベントやったり、外でも持ちよりパーティーやりました。
末っ子が生まれた一年後には、某主婦雑誌のサイト内でブロガーをやったこともあります。
それらは確かにとても充実した日々だったし、楽しかったし、いい思い出として残ってはいるけど、
今、それらは全て時間と手間を消費しただけだったな、上辺だけだったなと思います。
私のエゴを満たすためのもので、そんな浅はかなエゴを持つ人間には、本物の人間関係は築けなかったのです。


こんな私がこだわり特性が人一倍強い長男、感性派、善悪損得なんて無関係のやりたいことはなんとしてでもやる長女、トラブルメイカー兼ムードメイカーの次男を産み育てることになったことで、
今ではその当時とは比べ物にならないほど、
地味に平凡な日常を生きるようになった経緯を綴っていきます。













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