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「ある人について、語りたい」がない時、人は一番孤独だと気づいた話

ある友人のnoteを見つけてしまった。

 もう友人と称することができるかも危うい関係性であることは___それを自覚している自分が最も哀しいことも____軽く語るに留めておく。
 彼女と過ごした時間は、一瞬だった。
 私たちは春に出会った(と記憶している)。物腰柔らかく、垣間見た哲学的で独特な思考と発言に、自然と落ちた。彼女を好きになることというのは、東から太陽が上がって西に沈むことくらいに自然で、当然で、抗えないことだった。
 そして春の冷涼な風が、6月特有の湿り気を帯び始める迄もなく、私たちは自然と疎遠になった。それでも、私は彼女に関する噂の影がちらつくたびに(彼女は活動家なので良い噂をよく聞く)、彼女を思い出すし、その頻度の高さと、その時間が継続する限り、私はあの春の延長線に今があると信じ、頑なに彼女を「友人」と言い張ることにしたから。



 彼女は、私なんかと違って謙虚で素朴で、美しいひとだ。
 彼女の手記を見つけたあの瞬間の感情は、どう形容すべきか分からない。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、心の中がぐるぐるした。見てはいけないものを見てしまったかのような申し訳なさと、見つけてやったという背徳感と、好奇心と、ここでも彼女の追随者が多いことへの羨望と絶望が大きな波のように、私の心を攫って行った。
 文が人を表すのなら、間違いなくそのnoteを書いた人物こそ、彼女だった。
 春の、木漏れ日のような暖かさ、肌を掠める柔い風のような心地よさと、可憐な雰囲気が滲む、羨むほどに美しい文だった。
 ああでも、何が一番美しかったかっていうのは、彼女の語る「愛」だ。

 こちらが覗き見るを恥じるほどに繊細に、然し躊躇なく、思い人への愛を綴っていたこと。誰かを愛し、その人について語る彼女は、もう私なんかの手じゃ届かない場所に行ってしまったような、そんな気がした。
 私はまた、勝手に置いてけぼりにされた気分になった。

いいな、とおもった。
羨ましく思った。
豊富な語彙も、経験も、紡がれる文の美しさも。
そして何より、「ある人について」語れることを。


対抗して、私も何かを綴ろうとした。 ここに。

結果、何も書けない自分だけが残った。
私には、
こう言う不純な動機で何かを書こうとする私には、語れる人(対象)がいなかった。

「ある人について、語れない」 「ある人について、語りたい」がない
これが本当の孤独だと知った。

友人は、眩しい。
手を伸ばしても、もう届かないところへ行ってしまった。
物理的にも(私は鬱を患い療養中であるため大学在学中の彼女には会えない)
精神的にも(彼女は全く孤独からかけ離れた存在である)

私たちの決定的な違いが、そこにあった。
それを、ここに語ろうと思った。

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