ある春の日に
20年ぶりに茶道を再開した。
高校、大学の茶道部時代から、あっという間に月日が過ぎた。
若い頃は「お茶の先生になりたい」と思っていたこともあった。
お茶室で誰かと一緒に「お茶を点てる」「お茶を飲む」時間が好きだったことは間違いない。
けれど、就職を機に辞めた。
その頃の私には人間関係や昇級制度などが窮屈に感じられて自分が茶道を続ける意味を見失っていたし、何より土日休みではない職場だったので現実的に通えなかった。
話は飛ぶが、九州に暮らす私の祖母は子育てが終わってから茶道に熱中し、和室に炉を切り水屋を作って数人の知人に教えていた。
祖母は10代、20代に戦争の影響をもろに受けた世代だ。戦中看護師として働いていた彼女は、空襲で隣にいる人が死ぬという体験をしている。
たまたま、祖母がカルチャーセンターで「人生の絵」を作る講座に参加した日の夜に私は居合わせた。彼女は「人生を4つに分けて絵を描いた」と独り言のように言い、紐で閉じられた4枚の絵を眺めていた。何気なく祖母の手元を覗き込んだ私は、明るい花畑に赤い鼻緒の下駄が描かれた1枚目の絵の次に、画用紙一面黒と赤で塗りたくられた絵を見て仰天した。その絵を見るまで、明るくて世話好きな祖母の人生に命からがら逃げた夜があったこと、隣の人が血飛沫をあげて倒れる中で逃げなければいけなかったことを私は知らなかった。クレヨンの匂いが生臭い血を連想させ、丸く小さい祖母の背中の後ろに恐怖の夜が透けて見えた。
戦後、幼馴染と結婚した祖母は、狭い職員宿舎で新婚生活をスタートさせた。いわゆるワンオペで夫を支え、3人の子育てに奔走した彼女にとって、子どもの独立は第二の人生のスタートだった。煙噴く桜島に向かって「やったー」と1人叫んだという。毎朝「緑のおばさん」として子どもたちの登校に付き添ったあとは自由な時間だ。着物を着て茶道教室に通う日々が始まった。
地域の活動にしろ茶道にしろ、「自分でやると決めたことをやる」というシンプルなことが、祖母はとても嬉しかったという。50代を過ぎた祖父が掛け軸や茶碗といった骨董品を愛でるようになったことも拍車をかけ、少しずつ茶道具や掛け軸、着物が揃えられ、仕舞いには家で人に教えるまでになっていた。
幸せな時間が過ぎ、80代、90代にもなるとさすがに祖母にも老いがやってきた。お茶を習いに通ってきていた人も歳をとり、和室に炉が開かられることがすっかりなくなった。埃をかぶっているお茶道具一式、売ってしまおうかという話もあった。
いや、もうちょっと待って。
離れて暮らす孫の私には関係のないことなのだが、大好きな祖母の、大好きだった時間を一括りに売られてしまうような気がするのかもしれない。私が全て譲り受けることができるわけではないけれど、何かできることはないか。
「いつか」再開したいと思っていた、お茶。
やっていけば、いつか細い糸がつながることがあるかもしれない。今私の住む狭い貸家に着物を置くスペースなんてないことは分かっているけれど、とにかく始めよう。
幸い、歩いて行ける距離に祖母と同じ流派の先生が初心者向けの教室を開いていた。聞けば、元々他領域の仕事をしていたが、茶道や活花の大先生であった母上が引退されて跡を継いだという。母上についていた古い生徒さんは多くが辞められ、残った生徒さんと新しく入った生徒さんと力を合わせてやっていこうと思っている、という話だった。「歳をとって色々なことを忘れても、楽しかったお茶会の思い出は覚えていて楽しそうに話す母を見ていると、そういう楽しい思い出を作って行けたらいいなと思うんです」という先生は、「お茶室では先生ですが、お茶室を出たら私があなたに教えてもらうことはたくさんある。ぜひ力を貸してください」と、謙虚で肩の力が抜けている。
私はカチコチに緊張していたが、柔らかな風が吹いてきたような心持ちになった。ここならなんとか通えるかもしれない。生徒数の少なさゆえ、私の通える日程だと50代の男性の先生と一対一の指導になるということには正直ためらいを感じたが、思い切って入門した。
これからどうなるんだろう。
とりあえず、茶室に身を置き、お点前する。
そのことから始めてみようと思った。
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