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大原がもつ癒しの力 穴穂部間人皇女と建礼門院の二人の母

 京都大原の寂光院は、天台宗の尼寺です。聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うため、推古2(594)年に建立したと伝えられています。建立当初の本尊は、聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊でしたが、現存しません。
 
 大和の斑鳩を拠点とした聖徳太子が、なぜ大原の地に用明天皇を祀る寺を建てたのでしょう。不思議ですね。確かに、聖徳太子を背後から支えた秦河勝は、山背の国、つまり京都盆地を勢力範囲とする渡来系豪族でした。しかし、秦氏の拠点は、大原ではなく太秦のあたりだったと言われています。鴨川上流域を治めていたのは、秦氏ではなく賀茂氏です。どうやら別の理由がありそうですね。
 
 聖徳太子の母、用明天皇の正妃は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)という女性でした。聖徳太子が母の穴穂部間人皇女のために建てた寺は、法隆寺の隣に立つ中宮寺です。国宝の弥勒菩薩はとても美しい姿をした仏像です。
 
 穴穂部間人皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避け、一時期、丹後半島に移り住んでいました。それにちなんで、京都、丹後半島には間人と書いて「たいざ」と読む地名が残っています。ブランド蟹である間人蟹(たいざがに)で有名ですね。


寂光院

 ここからは想像にすぎませんが、一つの仮説を立ててみます。
 通常、大和から丹後半島に向かうには、京都盆地から綾部に出て、大江山を迂回し、天橋立方面を目指すルートが一般的だったのではないでしょうか。しかし、蘇我氏と物部氏が争っていたということは、当然、渡来系である秦氏もそこに関与していたと思います。秦氏が治める京都盆地西部は、危険だったのかもしれません。
 
 そこで、争いを避けて東部の鴨川沿いを上り、琵琶湖西岸を回って福井の小浜を経由したのかもしれません。そこからは海路も可能でしょう。
 もしかすると、穴穂部間人皇女一行は、大原の地でしばらく滞在したのかもしれません。用明天皇の菩提を弔う場所に大原の地を選んだのは、母の意向があった。そう考えてみるのも、楽しい想像です。

 聖徳太子の皇子は、山背大兄王と言います。山背の名前を付けていることから、太子と京都の地との深いかかわりがうかがえます。
 聖徳太子の病没後、蘇我氏によって弾圧され、山背大兄王は斑鳩宮で自害します。その後、斑鳩宮も焼失し、しばらくして聖徳太子が建立した法隆寺も焼けてしまいました。
 
 寂光院の本尊だった鎌倉時代の地蔵菩薩は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼けてしまいました。聖徳太子親子の悲しみと重ねてしまうのは私だけでしょうか。

 寂光院というと、建礼門院である平徳子の悲話の方が有名ですね。建礼門院もまた、息子安徳天皇の死を悼む地として大原を選びました。その理由はわかりません。大原が持つ癒しの力が引き寄せたのかもしれませんね。

三千院

 寂光院を拝観したあと、三千院を訪れました。この日は、初午大根炊きの日で、たくさんの観光客がいて、大原女姿の女性から振舞われた大根炊きを味わっていました。もちろんおいしくいただきました。

初午大根炊き

 その後、宝泉院をめぐり、見事な五葉松を鑑賞しながら、おいしいお茶とお菓子をいただきました。

宝泉院

最後は、おいしいカフェランチを楽しんで、大原の散策を終えました。

KULMさんのランチプレート

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