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宮澤賢治『よだかの星』を読む ―修羅を浄化する青い炎―

よだかは、実にみにくい鳥です。
 
 この有名な冒頭の一文は印象的です。賢治は、差別やいじめに視点を当て、弱者をいたわる物語をいくつも書いています。『猫の事務所』もその一つです。しかし、よだかを蔑みの対象へと一気に突き落とすこの宣言には、何の救いも容赦もありません。
 冒頭の一文に続き、外見の醜さをこれでもかと書き並べ、その上、その醜さゆえに他の鳥たちから排除される様子が説明されます。
 なぜよだかは、それほどまでに理不尽な蔑みの対象として描かれなければならないのでしょうか。その謎は、よだかの最期によって明らかになります。
 
よだかは鷹から改名を迫られます。改名は存在の否定です。存在を否定されたよだかは、行き場を失い空を彷徨います。そして、悲しみの中で自らの業(修羅)を悟るのです。

ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

よだかの星

 生まれつきの身体的特徴、よだかとして生まれたことの出自によって蔑まれねばならない宿命は、よだかの修羅であり、他者の殺生によってしか生存できない宿命もまた、よだかの修羅です。この世界で生きている以上、よだかはこの修羅から決して逃れることはできません。
 
 よだかの修羅は賢治の修羅でもあります。賢治が友人にあてた手紙を紹介します。

もしまた私がさかなで私も食われ私の父も食われ私の母も食われ私の妹も食われているとする。私は人々のうしろから見て「ああ、あの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思わず呑み込んでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横たわっていた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解しているだろう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすててささげたものは人々の一寸のあわれみをも買えない。」私は前にさかなだったことがあって食われたにちがいありません。

友人への手紙

 よだかには、二度と虫を食べないことで餓死する選択もあれば、鷹に殺される選択もありました。鷹に食われて命を差し出せば、少なくとも命は無駄になりません。
 しかし、よだかは星になって燃え続けることを願います。なぜでしょう。それは、餓死しても、鷹に食われても、よだかは自らの業により輪廻の苦しみから脱出することはできないからです。賢治は、よだかを輪廻から救いたかったのではないでしょうか。輪廻から逃れるために、永遠の炎となり、光となって存在しつづけるという選択をしたのです。
 
 賢治は、日蓮を師として生きてきました。日蓮の生き様を師と仰ぎながら、思想的には日蓮を超えようとしていたと思います。日蓮の思想を完全に理解した上で、化学や地学、天文学などの自然科学、キリスト教などの他宗教、そして文学や芸術までも統一した思想を創り上げ、世界全体の統一理論を完成させようとしていました。その上で、世界全体と自己を同一化することで「本当の幸い」を目指したした。そう思います。
 
 よだかは日蓮であり賢治です。迫害を受け、罰せられながらも自らの宗教を確立しようとしたのが日蓮です。よだかへの理不尽な蔑みは日蓮の辿った苦難です。賢治は、他者から罰せられるような生き方ではありませんでしたが、自らを罰するような生き方を自分に課していました。日蓮をなぞるように生きていたのです。

夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
 寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺さしました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居おりました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。

よだかの星

 賢治は、よだかを青い光を放つ炎に変えることで、修羅を浄化し、成仏させようとしました。それは日蓮への崇敬であり、自己への救いでもあったでしょう。最期に浮かべた笑みがそれを表しています。
 
 また、青は賢治の修羅を象徴する色です。修羅を燃焼させ、浄化しようとするとき、賢治の視界は青に染まります。それが賢治の自意識であり美意識です。宗教的高揚感が高まるほど、青さを増すのが賢治なのです。
 
 よだかは醜い鳥でなければなりません。どこまでも醜く、そして理不尽な蔑みの罰を受ける者でなければならない。不条理で悲しい存在であるほど、魂を浄化する光は美しく輝く。よだかの星が今でも燃え続けているのは、誰もが浄化されたい自己意識を抱えて生きているからではないでしょうか。

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