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宮澤賢治『やまなし』の真実 ―題名が「やまなし」なのはなぜか―

 なぜ題名が「やまなし」なのか。この問いは、授業でよく行われる定番の発問となっています。子どもたちが辿り着く深さは学級それぞれで、学級がそれまでに『やまなし』を読み描いてきた世界の深さによって決まります。今回は、この問いに私見を述べてみます。
 
 五月の最大の事件は「かわせみの侵入」であり、十二月の最大の事件は「やまなしの到来」です。二つは独立した二つの事件として描かれています。にもかかわらず、題名が『やまなし』なのはなぜでしょう。『かわせみとやまなし』でもいいはずです。やまなしは、ただ落ちてきただけで、台詞もなければ、自ら行動することもありません。意思をもっているのかさえも分からないのです。それなのに題名が『やまなし』なのは謎ですね。
 

対比で考える

 この問題を考えるために、かわせみとやまなしを対比してみます。子どもたちに考えさせても、たくさんの対比が出てきます。一例を紹介します。

<かわせみ>   <やまなし>
黒くとがっている  黒く丸い
飛び込んでくる   落ちてくる
飛び去る      沈んでくる
ぎらっ       とぶん
食べる       食べられる
奪う        与える
殺す        生かす
恐怖        喜び
生きている     生きていない
 
 かわせみとやまなしは対照的な存在として描かれているのは間違いありません。そして、最も重要なこととして、次のような対比が挙げられます。

<かわせみ> <やまなし>
動物      植物
意思がある   意思がない
感情がある   感情がない
 
 これまでの投稿を読んでくださった方は、すでにお気づきかもしれません。仏教においては、かわせみは有情(うじょう)であり、やまなしは非情(ひじょう)です。つまり、かわせみは輪廻するものを象徴し、やまなしは輪廻しないものを象徴しているのです。
 

一切衆生悉有仏性

 しかし、これではまだ題名が『やまなし』である理由を説明できていません。涅槃教は、一切衆生悉有仏性を説いています。命あるもの(動物も植物も)は、全て仏となる性質(可能性)を内にもっており、全ての人もまた仏に成るべき仏性を生まれながらに具えているという意味です。
 法華経には一切衆生悉有仏性という言葉は出て来ませんが、同じような考え方を説いています。法華経では仏性のことを仏種といいます。種というと、まさにやまなしの実とつながりますね。
 

やまなしは仏性の象徴

 ここで題名が『やまなし』である意味が見えてきました。かわせみの輪廻は、やまなしの仏性を際立たせるために描かれています。父親のかには、煩悩により仏性に気付かない者を表しています。やまなしは仏性の象徴であり、『やまなし』は一切衆生悉有仏性を説くための物語です。だから題名が『やまなし』なのです。
 
 自らの仏性に気付き仏果(成仏すること)を得るためには、三毒を捨て、五戒を守り、煩悩を捨て去ることが必要です。しかし、父親のかににはそれができません。彼は俗物だからです。
 一方、彼はどこにでもいる普通の人、凡人の代表でもあります。普通の人たちにこそ気付いてほしい。賢治はそう願った。全ての人に仏性への気付きを与えることが、『やまなし』に込めた賢治の願いなのです。
 
 賢治の父もまた熱心な仏教徒(浄土真宗の信徒)でしたが、尊敬しつつも俗物だと賢治は捉えていたのではないでしょうか。賢治は、古着商である家業にも負い目を感じていて、何とか別の方法で生計を立て、自立しようとしていました。その一方で、父親に法華経へ改宗させようと強く迫ります。賢治は、かつての自分が経験した気付きを、父親にも与えたかったのではないでしょうか。

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