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『スター誕生/アリー』観た no one is at fault  

ブラッドピット主演の『ファイト・クラブ』の原作を読み始めた。デビット・フィンチャーの映画が、原作の面白さを損なうことなく、ある種忠実にしかも複雑な構造を映像に閉じ込めた作品だったことがわかってきた。

焼き鳥を食べたくなって、赤提灯をくぐり、レモンサワー飲みながら頁をめくってたら、くらくらしてきたので家に帰ることにした。

死に近い者たちの話を聞いたり、人間の素手で殴られて痛みを感じることで生きる実感を確認する主人公の世界にとりさらわれたら、危ない。明日起きたらどこにいるかわからない。😊

気持ちの良い音楽がかかる映画を流しながら用事を片づけようと考え、チョイスしたのが『アリー/スター誕生』。
映画に挿入されているレディ・ガガの『バラ色の人生』が好きで、サントラを繰り返し聴いてる。映画ではドラァグクイーンの経営するバーで女性にも関わらず、踊りなから歌うガガの姿も良い。

歌手になることを夢見みつつそれを諦めかけていた女性が、有名ミュージシャンの男と出会う。そして彼に才能を見いだされ、ステージ上に導か普段かれていく。しかし栄光の日々の中、彼女の心は愛と成功の狭間で揺れ始める。

出典 アマゾンプライムHP

映画の宣伝としては、ガガさまに焦点があたっているが、テーマをブラッドリー・クーパーの演じるジャクソンの影に感じる。

『シャロウ』の歌詞にも、すでに堕ちていく男が暗示されてる。

I’m fallin’
In all the good times I find myself longing for change 
And in the bad times, I fear myself

ジャクソンは、音楽界で名の知れたスター。けれども精神的には社会からドロップアウトしてる。他人は才能があるのにもったいない、一人で音楽してるわけではないのに責任がないなど、言いたい放題しそうだ。
しかしながら、一歩引いて眺めれば、彼のような人は、レベルの差はあれ世界のそこかしこにいそうである。

その背景には、親からの愛情、育った環境、生まれつきの能力などが関係してる。精神力や努力を否定はしないが、それだけですべてが好転するわけではない。ジャクソンの身にも痛烈な痛みや愛の不足が降り掛かっていた事が仄めかされている。幼少時代に親から関心を向けられることも少なく、友達も無く、音楽だけが救いだったのだろう。孤立は魂を蝕む。

彼は酒に溺れてはいるが、終始穏やかなのが良い。諦観に囚われた顔をしているのかも知れないが。アリーの方が、生のエネルギーが強い分、感情の波は激しい。それも、生き抜くためには必要なこと。

他者は、繊細な生き方をしている彼を理解しない。突出した才能があるゆえにイライラすることもあるのだろう。しかし、それも大抵は周りの人間の利害の絡んだ事情でしかない。彼は彼であることを全うすれば良いだろう。

彼の最期は必然的な結末となる。救いはアリーというスターを生んだことだ。彼の魂を、その歌声で多くの人に届けてくれる。

ラストシーンでアリーが、自分が嘘をついたので彼が自死を選択をしたのではないか?と語るシーンがある。アリーは、自分に責任があると考える。映画は問題提起をし、観客に答えを委ねて幕を降ろす。

ごく普通に生きていても、他者との関わりの中でトラブルがあった時に自分に責任があるのでは、いやいやそうでもない、とことん考えても答えが出ないという局面はあることだ。それが愛する人との間のことならば余計に整理などつかなくなる。

誰かの責任ということに焦点を当てずに、すでに起こってしまったことに対して向き合い、考えてみる事がひとつの解決方法と思う。

大抵の場合は
no one is at fault

犯人探しを最優先すると、人生の輝きは鈍くなる。いつの間にか人生の秋を迎えているかも知れない。

そもそも人は自分の都合の良い考えにとらわれがちなのだから。

自分のせいや他人のせいから離れ、前を向いて進むしかない。

そうだろ、アリー。




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