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縁が薄いと感じるこの頃①

50代も半ばに入り、残りの人生を考えるようになった。
時間。
残された時間は以外と少ない。
だから、人に振り回させることなく有効に時間を使いたいと思う。
その反面、誰かに振り回されるような時間もあってもいいのかなと思う。
わがままのようだけど、そういう風に思う。

20代の私は、仕事が楽しくて残業もいとわないし、ましてやバブルだったから、お金はあって使いたい放題。
ブランド品に身を包み、小娘がタクシーチケットを使って終電も考えずに遊ぶ。そんな楽しい時代。

この時も誘われるがままに遊んでいたが、実のところ、疲れて仕方がなかった。それでも付き合っていたのには訳がある。

嫌われたくなかった。
仲間外れにされたくなかった。

だから自分の性格とは真逆の世界で遊んでいた。
確かに、知らない世界を体験して知ることは楽しくて面白かったし、自分が特別な感じもしていた。
その時は、本来の自分とは違う「遊びを楽しむ女」を演じていたと思う。

「またどこかに行く相談をしているみたい」
「遊びに行計画を立てている」

人のちょっとした変化にも気が付いてしまう私にとって、一緒に遊んでいた人が、私を誘わずに計画を立てていることは、一種の寂しさと恐怖でもあった。

「誘われないのは、私が一緒ではつまらないからだ」
「私は特にいなくてもいいような存在だからだ」

そんな風に思ってしまう癖もあって、次に誘われるようになるには、好かれる人の性格や行動を真似するしかない。
いつからかそう思うようになって、自分を作るようになっていった。
どうしてそう思うようになったかはわかっている。私自身の深いところに根付いて、埋まってしまって取り出せない「いじめられていた」という過去があるからだ。

中学生の時のいじめの体験は、大人になっても私を苦しめた。
話の輪にいるのに、誘われないのは私がいてはつまらないからだ。
仕事の仲間なのだから、プライベートは誘われなくてもいいじゃないか。
そう思えばいいのだが、それが出来なくて、何かにつけ、自分のマイナス面をこじつけた。

私の20代の頃は、今のように公私をきっちり分けるということがなかった。
仕事場から遊びまで、仲間のように親しく行動を共にしていたあの時代。
誘われないことは恐怖でもあった。
だから苦しかった。

今の時代で私が20代だったら、どんなに楽しかっただろう。
誘われないことに恐怖を覚えることなく、他人に振り回されない一人時間を満喫し、充実した人生を楽しんでいる格好いい大人と思われただろう。

休日に予定が何もない苦しさもなく、スケジュールは自分のやりたいことで埋まる。そんな20代を過ごしたかった。

そんなことを思いながらの人生を過ごしてきたが、
あるとき、思ったのだ。

「私には縁がない」

好奇心が旺盛で、行動力があり、なんでもやってみようというチャレンジ精神があるのだが、そこに仲間がいたり、同期がいたりしても「次につながらない」のだ。
一緒に日帰り旅行を行ったり、イベントに行ったり、ランチも飲み会も行ったりするのだが、次はない。

過去にこういわれたことがある。

「壁があるんだよね」

一生懸命に友達を作りたいと思っていたころ、言われた言葉だ。
自分なりに頑張っていたのだが、他人からはそう思われていたようだ。

「人は裏切るもの」

いじめを受けていた私が、いまだに思っていることだ。

「うわべだけ付き合っておけばいい」

自分では知らず知らずのうちに身に付けてしまった防衛策なのだろうか。
この呪縛は非常に頑丈で、ほどけないのだろか。
疲れがたまって抜けきれず、体力の衰えを感じるとともにふと考えてしまったこんなこと。


一年ぶりかもしれない「note」に吐き出してみました。
すぐの更新ではないかもしれませんが、続きは投稿しようと思います。

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