開所式の前日夜、上祐代表が東京本部より来阪。我々に、謝礼がてら面談希望と、連絡きたので家族で、会いました。 警護役の信者と一緒に、現れた代表。昔、アレフの広報担当としてTVで、連日強気に、話していた感じはなく。正直な話を言うと、なんか? 辛気くさい雰囲気でした。 しかしながら、当時は行政(西成区)や、回りの住民等四面楚歌の中で、唯一の味方である我々には、すごく気をつかってる感じが、よくわかりました。 翌日の開所式も、無事おわり大阪事務所は、スタートしました。 次回、また時
さて、今回から「ひかりの輪」シリーズで書きます。実際につきあいしたのは、アレフ本体でなく分派団体の、ひかりの輪なのでね。入居契約を、かわしてから、入居するまでどこからか?(恐らく部落解放同盟か?)情報が洩れて、強烈な反対運動が住民からおきました。まあ、わからなくもないのですが、こちらも商売。では、もし中止なった場合の、テナント料の補償、どこが負担するの?もめて結局入居決定。 私も、大家代行(父の持ちビルですが、最終的に私が管理する関係)で何度か?入居者を確認しに行きました
前回の投稿から、少し時間があきました。先日、たまたまテレビで、録画していた番組の中で、オウムのサリン事件がありました。 記憶のすみにあった本件。忘れない内に何回か?わけて書いてみよう。思います。 もう私達とは、縁きれて15年以上経過してるからですね。 1999年頃に、私の実家が所有するテナントに、オウム真理教からの、分派団体である「ひかりの輪」が、入居したいと話がきました。 話の詳細は、覚えていませんが確か?当時東住吉の方にいたのですが、住民の移転要求があり、話が巡り
記憶を思い出しながら、書いています。 数えきれない程の、手配ミスを してきました。 今の時代だったら、とっくに業界からリタイヤしないと、いけないレベルでしたが、まだ末席にいます。 幸運なんでしょうね。 あの失敗事件も、いま思い返すと馬鹿でした。 モスクワ駐在員の奥様と、子供さんがご主人にもとにいくのを、手配したのですが査証書類は、全て完璧でした。 当時、私は査証担当から離れて、営業担当に異動しており査証手配担当者に、全て書類を渡して申請に行って貰いました。 奥さんの旅
なかなかnoteに慣れない。まあおいおい、慣れるだろう。多分。 私が、業界に入った当時は、恐らくほかの会社もそうだろうが、新人はまず業務の基礎を覚える為に、海外旅行部門は入国査証(ビザ)手配を、主に担当した。前日夕方に、翌朝申請にいく国(当時は、韓国、台湾がダントツに多かったね。)の領事館に、持参する書類(旅券、申請用紙、その他必要書類)を確認する。翌日は、出社したら自分なりにいく領事館の順番を、決めて出発。 申請受付時間が、決まってるから締め切り時間までに入館。 領事館
旅行業に従事しての思い出 1 私が、某総合商社系列の旅行会社に、ご縁があり入社したのが1988年4月。丁度、バブルがはじまる前で日本が、果てしなく元気があった時代だった。 入社試験の思い出は、面接と適性検査(だったかな?マークシート)。午前の面接で、面接官から「うちを志望した動機を、お願いします。」確か? 聞かれて、「旅行会社の添乗員は、お客様に旅の思い出をくばる夢先配達人と思う。私も、この会社でそんな夢先配達人になりたい!」話したら、当時の課長(私の後の上司)が、噴き出
つぶやきは、投稿ボタンが表示されるのに。なぜ?テキストは、記事を書いても投稿ボタンが、表示されないのか?全て、下書きに保存されてしまう。つまらんなぁ~。
140文字数の制限あるから、いつまで継続できるか?私は、35年前に、ご縁があり某総合商社系列の、旅行会社へ入社。商社は、規模縮小したが現存してるので、会社名は、秘密にします。正直な話、実家が商社の某部署との取り合引きあり、正味縁故入社。入社試験の事が、思い出すと思わずくすりとなる
とりあえず、ここでは本業である旅行業の、思い出を呟いてみよう。私は、大学卒業して、ご縁があり旅行業に従事して、今年で35年目になる。業界の同期も、殆どいなくなってきた。 しかし、日本が元気だった頃に主に、海外旅行手配だが、色々体験してきた事を、書いてみたい。
話題のnoteに、今日から参戦です。さて、将来は有料で記事を投稿して、誰か?購入して頂ける様に、なれば最高ですね。。頑張ろう!