2.普通ってなんだろう

普通って言葉以上に無責任な言葉って存在しないと思う。

自分はきっと普通じゃなかった。多分発達障害の何かしらを所持しながら今まで生きている。親や先生には「なぜできないの?」「普通はこうやるのよ」なんて言われながら生きてきた。
常にその言葉に対して思ってきたのが「普通ってなに?」「普通の定義を教えてほしい」ってことだった。

その普通ができなくて、いじめられる経験もたくさんあったが、みんながなぜいじめたりするのか、よく分からなかった。

だが、様々な視点が容認されてきた今、私が思うのは「普通」とはその人の見方や視点でしか無い、ということだ。

そしていじめが生じるのは、きっと、言った当事者が「不理解」しているということの象徴なのだと思う。

じゃあなぜ、その「不理解」が生じた?
社会人になって、こんなことが理由ではないかな、と思うことがある。
親や先生、近くにいる規範となる人間が「不理解」を当然として行ってしまっているのではないか、と思う。

私は栃木の片田舎出身であり、なかなか情報の更新が遅い場所に住んでいた。周りの大人は「AだからBである」と、人間の感情など、不確定要素が多いものに対して決めつける言い方をする人が、ほとんどであった。

それに対して私は、本当は世の中に絶対なんてない。むしろ、絶対なんてない、ということは「理解」することができるし、それは世の「真実」であるのに、なぜこの人たちは「不理解」のままでいられるんだろう、などと考えていた。

大学生になり、東京に進学した。
周りの視野の広さや、不理解の少なさに驚いたことを覚えている。
それはなぜか?と考えたときに、やはり、狭い土地に多くの人が住んでいる東京。それだけ人間と摩擦することが多い故、理解しないと生きていけない、のかもしれないな、なんて今は思っている。

そして現代、グローバル化が広がる世界で、多様な人間と関わる機会が増えていく。
どうしたって人と絡み合い、理解していくことが求められる世の中だと思う。江戸時代の幕末期の人々が目まぐるしい世を迎えたように。そんな時代にこれからなっていくんではないか、と思う。

以前本で読んだことがある。人間は動物であるから、「安全な保存」を求めている、変化を嫌うため、成長をするためには、刺激を与えることが必要だ。と。これからの世はどうしたってその刺激を避けることが難しくなってくる。
「理解」する努力が困難な人が「不理解」や「分断」が生まれていくのだと思う。

人生は長い。共感はできなくても、「理解」をする努力は忘れないでいたい。
これが人生だ。と決めつける前に。

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