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「光る君へ」第18回 「岐路」 思わぬ人生の転機を助ける人望とは

はじめに

 人生の岐路はいつも唐突です。大抵はそれが岐路であったと気づくのは後のこと。それくらい自覚的でない形で訪れます。摂政家という上流階級に生まれたとはいえ、三男坊に生まれた道長が政の頂点に立つ可能性は極めて低いものでした。一族の存亡をかけた謀をした兼家は、その可能性が頭を掠めることはありました(第10回)が、それでも万が一の場合の話です。

 道長当人は凡そ考えたことがなく、また生来、上から目線で人様と接する、争うことが苦手でした。若き日は太平楽を決め込み、友人たちとは争いを避け、兼家らがかかわる権謀術策からも距離をおいていました。どことなく厭世的で浮き世離れしていたとも言えますし、また興味深いことにそこが接しやすい人となりになり、他人を惹き付ける魅力になっていました。まひろが三郎と気さくに話したのも、直秀が変わり者の若様と興味を抱いたのも、行成が道長シンパなのも、そこに由来があるでしょう。

 そのような道長のあり方を変えたのは、自身の半端さで直秀を死なせた事実とそれに付随したまひろとの約束です。甘んじて摂政家の息子であることを受け入れ、政治的な判断による婿入りも果たし、未熟ながら積極的に政とその実務に励んできました。ききょう曰く「公卿の間でも女官の間でも人気はありません」だそうですが、話が耳半分としても、それは道長の実直さを示すものでしょう。

 もっとも、政にかかわるようになっても道長は自分が摂政、関白になることは考えていませんでした。あくまで自分は三男だからです。まひろとの約束はありますが、それは「まひろの望む世を作る」に比重があり、頂点を目指すのは指標というニュアンスだったでしょう(まひろは期待していそうですが)。ですから、やたらに詮子が自分に期待することも、伊周がライバル心を出してくることも不可解に思っていた節があります。倫子に常々言っていたという「人の上に立つのが苦手」というのも。これは本心でしょう。

しかし、兄たちが次々と亡くなるという予想外の事態に、望む望まぬにかかわらず、道長に権力のお鉢が回ってくることとなりました。このような天の配剤は、神ならぬ道長本人の戸惑いは大きかったでしょう。しかし、当人には唐突でも、道長にこの順番が回ってくる運命が訪れたことは、その資格があったからです。それは単に家格のことを意味していません。
 その準備が様々なところで出来上がっていて、彼をそこに誘ったということです。つまり、十分ではないにせよ、資質や経験をある程度経たときに人生の岐路は訪れるのです。


 それはまひろも同じです。紫式部としての彼女の人生を知る人であれば、もうすぐ大きな転換点が訪れることを知っています。そしてそれは今回、仄めかされました。まひろが、それを運命と受け入れることになるのは、「あの日から一歩も進んでいない」と焦れる彼女もまた大人になり、何らかの準備、心づもりが整ってきた証拠でしょう。
 そこで今回は二人の岐路を追いながら、道長とまひろがあの夜以降に得たもの、岐路に必要なものとは何かを探ってみましょう。



1.道兼の関白就任と急死をめぐる諸々

 道隆の死後、10日経っても関白の座の後継が決まらないことは、政治的な空白となるため、公卿らの様々な憶測を生みます。その最たるものが、中宮定子が伊周を関白にしてほしいと一条帝にせがんでいるためだというものです。帝の裁可を后が鈍らせているといういう憶測に、実資は「出すぎ者の中宮だ!」と人前憚らず非難します。この「出すぎ者」は、前回、詮子が口にした伊周評と同じです。その評を、妹の定子が別の人物から受けているということは、公卿らの間における中関白家の評判はすこぶる悪いことを意味しています。分をわきまえない傲慢な輩というのが、中関白家の大雑把な評価というところですが、つまるところこれは生前の関白道隆の専横の評価なのですね。
 したがって、道隆の専横が中宮と伊周によって引き継がれてしまうことを、彼らは危惧するのでしょう。実資ははっきりと口にしましたが、他の公卿たちも内心は同様と思われます。道綱が「伊周さまは若すぎるよねぇ…帝も若い、関白も若い…では」と実資を取りなすように応じたのも、周りの空気を察してのことでしょう。


 そんな道綱に「時には的を射たことを言うではないか」という実資の辛辣さからは、普段、道綱をどう思っているかが丸わかり(苦笑)実際、実資は、かの「日記、日記」の「小右記」でも道綱を「一文不通の人(何も知らない奴)」と馬鹿にしていますから、それを受けての反応でしょう。もっとも自分が無能でありながら高位に就いている自覚のある道綱は「時にはね」と苦笑いして受け流します。政治的センスのなさゆえに軽んじられていますが、人品が卑しくないという点では本作では数少ない癒しキャラになっていますね…まあ、夜這未遂人(吉高由里子さん談)ですけど(笑)


 道綱の発言を引き受けた実資は、「若いだけではない。道兼殿は帝の叔父だが、伊周どのは従兄弟に過ぎん」と、年齢もさることながら、帝を監督、導く立場の関係性が従兄弟という同等では道理が通らないという点を重視します。「好きではないがの。まったく好きではないが、関白は道兼どのであるべきだ」と、いつか兼家について述べたとき(第2回)とまったく同じ発言をすることも印象的ですね。

 政において個人的な感情や縁故を優先することは世の乱れにつながるということは、実資が終始一貫して主張していることです。今回の道兼関白就任を推す発言も、自身の感情や出世ではなく、道理をわきまえた筋の通ったものであること、それが世のためであるのか否かという公正さからのものです。実資の一本気な不変さは、同時に政の正道そのものでもあるのです。ですから、他の公卿も正論に返す言葉はありませんし、それを物陰から聞く一条帝もそれを無視できないことを悟るのです。

 また、実資は関係ないでしょうが、その他の公卿の道兼寄りの反応は、詮子の工作の効果もあってのことでしょう。公卿らを掌握した道兼派が優位なのです。


 17日もの間、後継の関白が決まらなかったことは、定子の意向よりも、自身の個人的な感情と公卿らの意向、そして物事の道理との間で葛藤があったということでしょう。ただ、この葛藤と苦悩は、彼が傀儡ではなく、もの考える帝であり、また何が正しいのかを見極める力を持っているということです。それは、生前の道隆の伊周を後継者にという申し出を保留、公卿らの反応、伊周の若さに不安を持つ自身の意向を踏まえて、道隆の生前に限り内覧を許すという折衷策を講じたことにも表れています。

 もっともその折衷案も「息子を内覧に据えたのは積悪の所業」(実資)とかえって道隆への反発と離反を招くだけにしかなりませんでしたが。物陰から公卿らの話を聞きながら、自身の政治的判断が臣下らの不安要素にしかなっていない現実を思い知ったのではないでしょうか。少し伏し目がちな帝の眼差しのアップからは、そうした彼の忸怩たる思いも察せられます。こうして、一条帝は、個人的には伊周へ配慮しながら、正式に道兼を関白にする意向を固めます。


 さて、道兼は思わぬ形で諦めていた関白位に就けることに対して感慨深い様子です。兼家引退時に鼻を膨らませて後継者になることを信じ切っていたあの頃の道兼であれば、関白就任も当然のこととして増長しきっていたことでしょう。しかし、どん底まで堕ち、それでも立ち上がってきた今の彼は、自分自身と向き合い、その分をわきまえています。実資の「まったく好きではない」という公卿らの本音も重々、承知しているのではないでしょうか。
 しかし、それは自虐的なものではありません。自身に関白になるだけの資格があるのかどうかは、これからの政次第であるという静かな覚悟となっていると思われます。「公任の家で荒れていた俺を掬い上げてくれたお前のおかげだ」という、まずは道長に何度目かの礼をする謙虚さにも、道兼の関白就任を前にした静かな志を感じられますね。

 応じる道長の「そのようなこともございましたね」という返事がよいですね。道兼の心を救ったのは間違いなく道長の真心でしたが、それを恩に着せるようなことはせず、それは遠い過去のことだというのです。この言葉は、今、道兼が関白になれたのは、他の誰でもない、どん底から這い上がってきた道兼自身の力という後押し、励ましの意味合いも込められていますね。道長もまた嬉しいのです。


 ようやく芽生えた二人の絆を考えると、お互いの喜びを確認したうえで話した「お前を右大臣にするゆえ、これからも俺の力になってくれ」との提案は、道長を地位で釣ろうというようなあさましいものではないことも見えてきますね。一つは自分の今があるのは、道長のおかげであり、彼がいることで何事かがなせそうな気がするという彼の偽らざる心情です。兄弟で何かを成したいのです、また、彼は道長が道隆政権下でその立場ゆえに思うように政に参画できず苦しんでいた姿をよく知っています。右大臣という権限を与え、その思うところをやるがよいという気持ちも幾ばくかあったと思われます。

 対する道長も右大臣という地位よりも「救い小屋のこと、公の仕事としてください」と、ここまで私費(倫子の資産ですが)を投じてきた事業の公認を求めます。公共事業となれば、財だけではなく人員を多く避けるということが大きいでしょう。前回でも人員不足に苦慮する場面が挿入されていましたからね。そして、この公認は、道兼の政治姿勢が民を救うものであるか否かを占うものでもあるのです。ですから、苦もなく「勿論だ」と応じる道兼に「兄上ならよき政ができましょう」と心から微笑み、自分が道兼のために力になると暗に仄めかすのですね。


 改めて弟に期待され、力になると言われた道兼が、少し照れ笑いの表情を浮かべるのがかわいいですね。あー、こんな表情もできるのかという発見であると同時に、これこそが道兼の荒々しさの奥にあった優しさと素直さだったのだと気づかされるところですね。父兼家は、人の才を見抜くセンスには長けていましたが、それはあくまで我が「家」のためにどう使えるのかという観点からのものです。その冷徹さは、道兼の奥にある柔らかい心根を救うのではなく、その心の隙間を突く形で利用してきました。

 道兼は、心理戦や人心掌握といった兼家の権謀術策の要を担ってきましたが、それができたのは、本来、彼が繊細な人間であり、他人の心の弱いところに気づけたからだと思われます。ですから、こうした権謀術策は、父からの愛を信じていればこそやれることで、内実は彼自身の心を蝕むものであったことでしょう。結果、兼家は貴族社会の頂点に立ちましたが、息子の教育という点では大きく失敗、彼の人格を捻じ曲げてしまいました。

 

 しかし、父からの愛に飢え、結局、拒絶された道兼は「父上に最早、恨みはない」と意外なことを口にします。その言葉に「おお」と目を見張る道長からは、道兼が父の呪縛から解き離れたことへの感動が窺えます。かつて、彼は道兼に「兄上はもう父上の操り人形ではありません。己の意志で好きになさってよいのです」との言葉(第15回)で送っています。そのときの道兼の反応は、戸惑いに満ちていました。それが、ようやく解放されたとわかったのですから、道長の真心もようやく報われた瞬間でもあります。

 ただ、それは父を捨てるというようなものではありません。「されどあの世の父上を驚かせるような政がしたいものだ」との言葉は、あくまで兼家の息子として、自身の中にある父へ敬愛と向き合ったまま、なおも父を超える政治家になろうというものでした。父を乗り越える強さを持てた道兼は「まずは諸国の租税を減免し、新規の荘園を停止しよう」と、民を救うための具体策についても触れます。
 それは、かつて花山帝が、醍醐帝の延喜の荘園整理令を踏襲して行おうとした永観の荘園整理令と似たものであるのが興味深いですね。花山帝のそれはかつての親政の復活を指向するだけのものですが、今回の道兼のそれは民を救うという政への志が宿っています。そして、その志は弟と共有するものですから、ますます強いものになっていることでしょう。「兄上なら必ずや」と意気揚々と答える道長にうなずく道兼…兄弟は本当の意味で兄弟になれた…そう当人たちが心から思えたのではないでしょうか。


 こうして見ていくと、もとより、彼の外面に出る荒々しさの裏にある鬱屈を放置し、人殺しをしてしまうまで肥大化させ、それを叱りもしなかった時点で、兼家の道兼への接し方は、息子の可能性を摘むものでしかなかったと言えるでしょう。兄弟をそれぞれに役割を押しつけ、個別に育てあげ、兄弟同士の関係性には目を配らなかった兼家の教育方針は、兼家という巨大な存在があればこそ摂関家の名のもと結束できましたが、兄弟らの実際は反目し合うだけでした。本来、我が「家」にあるべき兄弟の絆とは、今回の道兼と道長にあるものだったのかもしれませんね。

 ただ、時すでに遅し…道長が去った後、道兼はぐらりと大きく揺れます。既に病魔に襲われていたのです。就任の初日、伊周の恨みの目、公卿らのお手並み拝見という好奇の眼差しの中、弱々しい声ながらも「朕が意を奉じ国家万民のため、その力を尽くすべし」との帝の言葉に応えた道兼ですが、そこまででした。倒れた道兼は、道長に抱きかかえられると私邸へと戻ります。

 この事態に晴明を呼ぶ出なく薬師を呼ぶあたりに本作の道長が迷信よりも実利を尊ぶ性質が出ていますね。また、後に詮子が病臥に陥った際も道長は薬師を呼んでいますので、そうした事例も踏まえてのことでしょう。なんにせよ、道長の真剣な心配が窺えます(史実では実資が見舞いに訪れていますが)。
 しかし、道兼の言葉は「近づくな。俺は疫病だ。悲田院で見た者たちと同じである」と、助からぬから無用であるというものでした。深刻な事態に逆に「ご無礼」と御簾をあげて、入室してしまうのは、まひろのときと同じですね。その向こう見ずに「やめよ。お前が倒れれば我が家は終わる」と苦しみに喘ぎながら答えると「二度と来るな!」と念を押します。まひろが看病の末快復した体験がある道長は「疫病でも直る者はおります」と食い下がりますが、疫病のリスクは高いもの。
 道兼は「出ていけ、早く」と声を荒げると「俺を苦しめるな」と泣きそうな顔で懇願にも似た拒絶をします。彼の代わりに悲田院へ行こうとしたあの日と同じく、今の道兼の思いはどこまでも弟を守りたいというところにあるようですね。


 興味深いのは「お前が倒れれば我が家は終わる」という台詞です。前の「あの世の父上を驚かせるような政がしたい」にも表れていますが、彼にとって「家」とは道兼と三兄弟(と詮子)の親子関係こそが「家」なのです。どこまでも兼家の息子であることが、道兼にとっての縁(よすが)であるということ。ここには、父の愛を求めた道兼の哀しさがありますが、一方でここにこだわるのは、妻子に逃げられ孤独となった本作の彼にとっては、彼を救ってくれた弟との間に築かれつつあるささやかな絆が大切であるということも大きいと思われます。
 だから、道長が倒れたら、我が「家」が終わってしまうのです。それは先だって誓い合った政の志の終わりでもあります。それは、伊周たちとは共有できないもの、彼らは我が「家」の住人ではありません。
 父からの無償の愛を求め続けた道兼が、最期の最期に自らの弟への愛に生き、彼と共有した政への志でこだわる…その心情を思うと、言葉がありませんね。


 兄の並々ならぬ思いに、意を決した道長はその場を去りかけますが、御簾越しに聞こえる道兼の光明真言に思わず足を止めます。まひろの母を手にかけた神をも恐れぬ所業をした過去を持つ兄が神仏にすがる…その追いつめられた気持ちに後ろ髪を引かれるのです。過去の一切の罪障を滅する光明真言を唱えてしまったことは、当の道兼自身が「俺は…浄土に行こうとしておるのか…」と衝撃を受けています。「無様な…こんな悪人が…」と嗚咽と自嘲の入り混じった慟哭が、因果応報とはいえ、哀しいですね。

 弟のために彼を追いやり、自身の死を覚悟したはずなのに、いざ、死を前にした途端にその苦しみに耐えかねてしまう…それは人間であれば仕方のないところですが、人知れず自身の所業に苦しんできた繊細な彼にとっては、死に恐怖する人間らしさは許されないと思っていたのでしょう。だから、おとなしく死を受け入れるつもりだった。しかし、罪滅ぼしさえ許されず、絶望と孤独の中、無念の死を迎えることは、そんな自尊心すら奪ってしまいます。


 慟哭の中、病による咳き込みが同時に襲い、心身ともに筆舌に尽くしがたい苦しみが、道兼を襲うとき、なりふりかまわず、戻ってきた道長が道兼を抱きすくめます。それしかできない、兄の苦しみを取り除けない道長の無力感がそこにあります。こうして、関白就任からわずか7日で道兼は逝きます。
 ようやくつかみかけた人間らしさと志が、するりと手を抜けていったことは無念でしたが、弟に看取られたことだけが救いであったかもしれません。少なくとも孤独な死ではありませんでしたから。肉親の愛憎に振り回された道兼に用意された死としては妥当なものと言えなくもないでしょう。

 しかし、ようやく絆を得て、共に世の中を変えていこうと意気揚々と思っていた矢先の次兄道兼の死は、道長にとって、単なる兄の死以上のものがありました。道長は兄と共に民を救う将来を夢見ていたのでしょう。二人の志は疫病というつまらないくせに凶悪な厄介なことによって無残に打ち砕かれたのです。
 あっという間の兄の死と夢の挫折に、道長は何もする気が起きません。屋敷内で手足を投げ出したまま、ただただ放心状態の道長の表情はいつにも増して表情がありません。
 そんな彼を物陰から見守る倫子の心痛めた悲しげな表情に、道長の受けた衝撃と彼女の深い愛情が伝わりますね。どんなに道長の心に住むのがまひろであろうと、ときに明子女王のもとに行こうと、彼との日常を過ごし、彼の辛いとき、病めるとき、その心を共有し、見守ることができるのは嫡妻である倫子だけです。


 道兼の死は市井にも伝わったようで、為時とまひろも静かにその死に対して物思いの中にいます。沈黙に耐えかねたか「仇とはいえ…これで良かったとは思えんの」とポツリと為時は呟きます。ちやはの死は長年、この家の暗い空気を支配してきました。それは、その死の一件で仲違いしていた為時とまひろが和解した後も、抜けることはなかったでしょう。家族の無残な死とは、時を経たことでより深まる面もあるからです。しかし、それでもまひろは仇を討てればよいと思えず、どうしていいかわからず、為時も耐え抜く道を選びました。

 ただ「さぞや無念であったろう…」とまで思いを馳せるのは、人の死を喜ぶ性質ではないからだけではなく、道兼の本心と思われる何かに二人は触れてしまっているからです。以前、道兼は酒を呑もうと為時宅を訪れたことがありました(第8回)。それは、花山帝退位の策略の一環で、お人好しの為時を通じて花山帝の腹心になるためのものでした。このとき、彼は父から虐待を受けていることを理由にして、間者になったのですが、それが花山院や為時に通じたのは、その背景にある父からの愛情に飢えているという渇きと哀しみだけは事実だからです。

 そして、それが思わぬ形で露わになったのが、この為時宅訪問です。このとき、まひろは自身の積年の恨みと無念と哀しみを母の琵琶に乗せて道兼の前で披露しました。まひろは、このことについて「あの男に自分の気持ちを振り回されるのは嫌なのです」と述べています。自身の感情を整理し、前に進もうというまひろの個人的な事情にあったのです。

 しかし、まひろの爪弾く哀しい親子の情感の音は、同じく父の愛に飢えた道兼の心根に深く響き、彼を自然と落涙させています。陰謀の一環で、人様に見せる表情はほぼ演技であった彼が、このときばかりは、苛烈な性情の裏にある繊細な、壊れやすい、怯えた心を覗かせたのですね。おそらく為時は、そのときのことを思い出しているのではないでしょうか。


 おもむろに立ったまひろは、母の琵琶を持ってくると、あのときと同じように、そして今度は自分自身のためではなく「あの御方の罪も無念もすべて天に上って消えますように」と彼の魂のためだけに奏でます。最後まで道兼は、自分が殺した女性が為時の嫡妻で、まひろの母であることを知りませんでしたが、その末期の「無様な…こんな悪人が…」を見る限り、その殺害の体験はずっと彼の心を呪いとして縛っていたのは間違いありません。だとすれば、彼がその本心を覗かせた琵琶の音によって浄化されるというのは、仇と恨まれるまひろに弔われる皮肉と相まって粋な見送りの演出と言えるでしょう。

 そして、仇の道兼の哀しみを慮り、一曲、心から弾くことができるところに、まひろの成長があります。自分の心のためばかりに生きてきた昔の彼女にはあり得ないことでしたから。



2.伊周の人間性と勘違い

 道兼の急死に放心状態になる道長に対して、「よくぞ死んでくれたものだ」とあからさまな喜びを見せるのが伊周です。人の死を嘲り、寿ぐあたりに優雅さを売りにする中関白家の心底の卑しさが見え隠れしています。

 因みに、関白道兼の急逝と同時に語らられた道長と伊周以外の大納言以上の公卿がすべて死に絶えたという衝撃的なナレーションは、疫病の恐ろしさと政の乱れを象徴しています。前回の実資の台詞「疫病が内裏に入り込んだことは、全て関白さまの横暴のせい」が正しかったことを示しています。それを踏まえると、なおさら道兼の死を嘲笑う伊周、隆家の人間性には呆れるしかありません。ある意味、中関白家のマッチポンプでこの状況が生まれているのですから。 

 そして、もう一点、このナレーションで重要なことは、大納言以上の公卿が死に絶えたことで、政の後継者は事実上、道長と伊周の二人で争われることを示唆しているということです。この後の道長以外の人々の言動は、道長VS伊周、二人の一騎打ちを意識してのものとなっていきます。


 ところで、伊周は、そもそも、道兼の関白就任という帝の裁定すら、Ⅰ㎜も納得していませんでした。一条帝がわざわざ事前に伊周を召し出し、「この度は右大臣道兼を関白といたす」と伝えたのは、帝の個人的な心情は中関白家にあることを示すこと、伊周への配慮からです。本来ならしなくてもよい事前通告をし、あくまで「この度は」と限定版な言い方をして将来に含みを持たせたところに一条帝の苦渋が察せられます。

 また、裁定に至った説明も「右大臣を差し置いて内大臣を関白とすれば、公卿らの不満が一気に高まるは必定。公卿らが二つに割れれることを朕は望まぬ」と真っ当な理由を正直に伝えたあたりにも誠意が見えます。ただし、これは婉曲的な含意もあり、伊周関白就任を公卿らに納得させる積極的材料が「現在」はないということです。今後、励めということでしょう。
 後、この裁定は、定子を心ない誹謗中傷から守ることも理由です。中関白家の権勢の中枢が定子なのですから、この点からしてもこの判断は納得してもらうしかないわけですね。


 しかし、帝の裁可に対する伊周の反応は予想外の事態に対する驚愕と屈辱の表情。「お上がお決めあそばされたことに誰が異を唱えましょうか」とギリギリ答えますが、裏を返せば帝が自分を関白にすれば誰も文句は言わないということ。不満と失望を隠しきれません。
 「すまぬ」と詫びる帝に対して、兄の反応を冷ややかに横目で窺う定子の眼差しは、予想通りの伊周の反応を呆れ、諦めていると思われます。それでも彼を推すのは、彼女にとって後ろ楯は中関白家しかなく、また愚かな面も含めて情が湧くからでしょう。
 また、彼女は父と兄以外の政治家を直接、深くは知りませんから比較のしようがないという点もあるかもしれません。例えば、叔父道兼は影が薄く、道長に至っては経理に小うるさい中宮大夫ですから人伝に聞いても印象がよくないでしょう(ききょうたちが陰口を叩いていそう)。


 ともあれ、彼の抱く失望と不満は他者へ向けての自分自身の問題点に向けられるものではありません。ですから「これでは亡き父上も納得されぬ」と亡父の無念を引き合いに出し「そなたはなんのため入内したのだ」と妹の無能を責め立てるのです。
 兄のそうした反応も予想の範囲なのか「このところ、お上は夜もお休みになっておられません」と帝の苦悩を察すべきと忠告するのですが「私を選んでおればよいものを」と今度は一条帝を優柔不断と決めつけ、なじる始末。

 人間、こういう耐えざるを得ないときほど性根が出るものです。伊周を関白に任じられないことについて、個人的な心情では帝も定子も残念ですし、伊周に申し訳なくすら思っています。二人は伊周の味方です。ただ、政の象徴的頂点である帝は、常に臣下の意見を広く聞き、公平公正であることが求められます。このタイプのトップに必要な資質はバランサーということになるでしょうか。

 かつて円融帝が、前例を重んじる関白頼忠と思い切った改革を望む兼家の意見に対して折衷案で対処するという場面がありましたが、まさにそれです。一条帝は若いながら、既にその役割を自覚的に行う聡明さがあるのですね。それゆえに悩んでいる…それを知る定子は察するよう兄に伝えたのです。

 しかし、伊周は彼らのそうした気持ちを汲まないばかりか、我が身かわいさに罵るだけです。人の心がわからない、自己中心的で尊大な姿勢が、伊周の本質ということでしょう。
 中宮になった妹を出世の道具と軽んじ、帝に対する忠節もまったくない…この不敬な言動は、かつて詮子の意思を軽んじ、円融帝に毒を盛り、花山帝を欺いた兼家と同じ傲慢さを伊周が無自覚に引き継いでいることを意味しています。加えて、彼は自身の才覚について何の功績もないにもかかわらず絶対の自信を持っています。慎重で老獪な兼家が決して見せなかった、自己陶酔的尊大さが、彼の人間性をより醜く見せています。


 やんわりと諭していた定子も、さすがに帝を非難する物言いをする兄に「兄上が関白になられるのが、お上は不安なのです」と明言するのですが「私に何の不安があると申される?」とあり得ないだろと真剣に驚いています。これには呆れますね。というのも、伊周が内覧になった際、「道隆が関白でいる間」という但し書きが付きましたが、それが何を意味するのか。それを彼は考えもしなかったというからです。彼は状況分析をすることも、我が身を省みることもない。

 その情けなさに定子は、かっと目を見開くと「もっと人望を得られませ」と言いにくいことをきっぱり返します。「人望?」と訝しむ伊周はその重要さがわからないようですが、定子は追い討ちをかけるように「次の関白に相応しい人物だと思われるために精進していただきたく思います」と釘を刺します。要は文句を言う前に、帝を悩まさないよう周りに根回しをしろというわけです。


 この正論には言葉もないのか、伊周はどすどすと下品に音を立て不満げに去っていきます。兄にここまで言わざるを得ない定子の気持ちを思い遣る余裕はありません。「私はどうしたらよいのでしょう、帝も兄上も私にとってはどちらも大切なお方なのに…」と物憂い定子も、その大いなる悩みには機転が思いつかず「少し横におなりくださいませ」としか言えないききょうも辛いところです。すべては伊周の心映えの問題、いかに才女たる彼女らでも手の及ぶところではありません。


 それにしても、伊周の尊大さはどこからくるものでしょうか。道兼の死を喜ぶ場面に端的に表れます。「よくぞ死んでくれたものだ」とうそぶく彼に、「父上が…お守りくださったのですよ」という貴子の言葉は、天運があったのだから気を引き締めなさいという意味です。
 母の忠告に伊周は「私が関白になれば、我が家の隆盛は約束されたも同然。私には後を継がせる息子も入内させる娘もおりますゆえ、どうぞご安堵くださいませ」と準備万端、隙などないと豪語します。平安期の上流貴族にとって、娘を入内させ産まれた皇子の外戚になることが権勢を得、それを次代の嫡男へ継がせることは理想でした。その意味では、伊周の認識は間違ってはいません。


 しかし、伊周はそれ以外の自身の利を語れません。彼の政治的優位は、中関白家に生まれ、つまりどこに生まれたかという地の利しかありません。周りをリードする政への志はありません。また若く父の権威で内大臣になっただけの彼には実績…いや実務経験すら乏しい。周りを納得させる材料がないにもかかわらず、その生まれを利用する環境を整えたことだけを誇ります。

 おそらく、伊周にとって、権威や権勢というものは、中関白家の嫡男である自分に最初から約束された先天的なものなのでしょう。だから、政治的駆け引きも実績も不要、時がくれば与えられるものだからです。摂政家の権勢は、兼家が血道をあけて、ようやく手に入れたもの。人生の結晶。それを易々と転がり込んでくるものとしか、伊周は思っていないのですね。彼にとって権威や権勢は振るうためにあるのでしょう。


 つまり、中関白家という「家」の権威を絶対視するがゆえに、実績もないにもかかわらず必要以上に尊大に自信満々に振る舞えているのですね。その薄っぺらさでは、定子の言う人望の必要性に指摘されないと気づけないのも道理です。しかし、重要なのは、天運よりも、生まれがどこであるかよりも人望です。「孟子」の「天時不如地利。 地利不如人和」(天の時は地の利に如かず。 地の利は人の和に如かず)の言葉どおり、人の心こそが天下安寧の第一ですから。
 つくづく、定子のほうが中関白家の跡取りに相応しい教養と人格と言えます。伊周も文武両道のはずですが、人間性が伴わなければ、宝の持ち腐れです。

 そんな、彼が、ようやく行った公卿らへの懐柔策が、公卿一同を酒宴に招くということでした。しかし、尊大で敵を作り続ける伊周ですから、その手法はあまり誉められたものではないようです。確認してみましょう。


 まず揃った一同に実資がいないことを目ざとく見つけます。色黒で目立つ…からではなく、もっとも小うるさい公卿だからでしょう。実資は、若い帝の従兄弟より道長が就くのが道理と思っているでしょうし、またこの酒宴の狙いもお見通し。あさましい振る舞いをよしとしない彼らしい不参加です。そのことに「らしいな」と薄笑いしつつ、訝る顕光(宮川一朗太さん)に「私の話など聞きたくないのであろう」と嫌みを口にします。
 こういうときは、気にするさまを見せず、鷹揚に振る舞うほうが無難です。大雑把な父、道隆ならば取り合わないでしょう。彼も中身は薄いですが、その鷹揚な振る舞いには品格さえ伴ったものです。しかし尊大な彼は一々、細かいことを侮辱と受け取る了見の狭さが面に出ます。


 さて、揃った一同に、伊周は、この一席を設けた事情を朗々と語ります。「父道隆は皆様のご意見を聞き入れることの大切さを繰り返し私に語っておりました」と見え透いた嘘が入るのは、貴族らしい腹芸のうちですし、「(周りの意見を聞くという)父の遺志を継がねば」という主旨に沿うので無難なところでしょう。
 しかし、続く「おかげさまで我が妹、中宮は帝のご寵愛深く、私も、帝に近しくさせていただいておりますので、皆様と帝をつなぐ架け橋となれるよう精進したく存じます」は一見、皆に配慮するという低姿勢に見えますが、彼の高慢さはまるで変わっていません。殊更、自身の権勢の裏にある、寵愛を受ける中宮と帝の権威を語ることで、自分の権勢に阿れば、お零れをやろうというものだからです。


 本来は味方になってもらうには、相手を立てて、その協力を仰ぐというのが基本です。後の時代の関白秀吉すら恫喝しながらも一方で家康を下にも置かぬもてなしで懐柔したものです。昨年の「どうする家康」でもそうでしたね。しかし、伊周は、どうしても上から施してやろうという姿勢が抜けません。
 無論、この懐柔策、我が「家」の反映を願う貴族たちの欲望を刺激するという点では間違っていません。しかし、それは相手を自分に心服させることにはなりません。自身に利益のあるうちだけ従う面従腹背のイエスマンを配するだけです。しかも、彼の態度が偉そうときては、なおさらです。
 損得勘定の派閥づくりには一定の成功を収めたが、政の志を共にする人脈づくりとしては失敗したというところでしょうか。

 若き日の道隆であれば、かつて漢詩の会で公任らを取り込んだように、漠然としていても向かうべき政のビジョンを語ることも忘れなかったでしょう(実際の道隆には志はありませんが、そう形だけでも見せることが大切)。それすらできない伊周は決定的な何かが欠けているのかもしれません。


 そんな尊大な伊周の懐柔策について、公任は後日、斉信と行成(二人は参議ではないので呼ばれていません)に話しますが、その評価は「以前に比べれば、やや人物がマシになっていたぞ」という辛辣なもの。伊周最大限の努力と譲歩の結果が「やや」という微かな変化としか見られていません。三人が許せんと思った香炉峰の雪の頃とは、さして変わっていないということです。

 それでも、公卿らの欲望を刺激したこの懐柔策は、表向き「伊周どのは皆の承認を取りつけた」ものと見られています。「大の道長さま贔屓」の行成や道長のが都合がよいと言う斉信のように、本音では伊周に反発する気持ちを持っている公卿はいるでしょうが、この事態が伊周優位に働くのは、道長に原因があります。
 つまり、公任曰く「道長本人に関白になる気があるのか。道長にその気はないと俺は思うな」…このことです。この公任の評価は、奇しくもききょうがまひろに語った「そもそも偉くなる気もないし、権勢欲もまるでないようですので、やはりありえませんわね」と一致しています。
 実直だが野心が無さそうな道長が、自分たちを引っ張っていけるのかが未知数というのが、内裏内での道長評です。「あの人…人気ないんだ」とまひろのように単純に真に受けてはいけません(笑)

 民を救う道長のビジョンは明白ですが、道隆に阻まれ、現状、その志は周りには見えにくいものでしょう。また欲深い貴族らを納得させるにはまだ弱い。加えて、運悪く今の道長は、道兼の急死で心が折れてしまいました。ますますやる気が見えてこない状況です。


 まとめるなら、道長がよくわからない以上、伊周に阿る線は消せないというのが公任を含めた公卿の本音ということです。こうした伊周優位という公卿の空気に「これで堂々とそなたの兄を関白にできる」と帝は安堵し、「いよいよ伊周か。よろしくない流れであるな」と実資が戦々恐々となっています。

 まさに風雲急を告げるときに道長は放心状態…こうなっては東三条院詮子が直接出張るしかなくなるわけです。


3.政局に動かざるを得ない詮子の本音

 先にも述べたとおり、大納言以上の公卿らで生き残ったのが道長と伊周であったことは、二人の後継者争いを加速させました。若き日のトラウマから政治的に動くようになっている詮子が、ここを正念場と思い極めるのは、自然な流れでしょう。

 彼女は政局の潮目を読むこと、人脈づくりなどの裏工作と、政の駆け引きという点においては、兼家の子どもたちの中で最もその才能を受け継いでいます。詮子自身、兼家に反発しながらも、そうした面が似ていることを自覚しています。道兼の関白就任は、詮子の意向と工作が大きいのですが、死んでしまえばそれまでです。
 兄弟として思うところはあるでしょうが、放心状態になった道長と違い、早々に次なる手に出なければならないと判断し、動けるというある種の冷徹さにこそ、彼女の兼家的な政治家としての本領があるでしょう。人間的には冷たく見られてしまうときもあるでしょうが、生き馬の目を抜く政治の世界では不可欠な才能ではないでしょうか。


 その彼女は、同居する道長を呼び寄せます。実は、詮子はその居宅から東三条院と呼ばれましたが、すぐに道長の住む土御門殿に同居することになります。
 劇中、道長が内覧右大臣となったことについて穆子が「女院さまをこの屋敷で引き受けたのは大当たりだったわね」と述べていますが、彼女が土御門殿へ移ったことは道長との縁を内外に示す効果があったのは間違いありません。まあ、本作の詮子の場合、十中八九、彼女自ら土御門殿へ押しかけ、道長が断り切れなかったということでしょうから、穆子や倫子も気苦労があったと察せられます(笑)
 勿論、この詮子だけに、土御門殿を御所としたことは、単に道長だけに信を置いているだけではなく、道長の背後には帝の国母である女院がいるという政治的パフォーマンス込みの行動と見るべきでしょう。


 夜半に現れた道長夫妻に「遅いではないの」となじる詮子は、道長が道兼亡き後の政局にあまり関心がないと見て軽くいなしたのでしょう。内裏の仕事を理由に遅れを詫びる道長は元気がありません。あきらかに道兼の死を引きずってのことでしょう。そんな彼の心中を承知の上で、詮子は単刀直入に「わかっていると思うけど、次はお前よ。私には務まらないとか言わないでおくれ」と切り込みます。
 道長に対する詮子の物言いは、仲良い姉であることをいいことに、いつも唐突にして強引ですが、このたびは「言わないでおくれ」と懇願気味です。道長の心中を慮った上で、それでも自分のすべきことをしなさいと発破をかけようとするのは、危機意識からでしょう。ここで道長が政権を奪取しなければ、散々世を乱れさせ、疫病を蔓延させた道隆の自己中心的な専横が続くことが確定してしまいます。そして、それは彼女の息子、一条帝の政の評判を傷つけることにもなります。


 しかし、道兼の死によって、心が半ば折れてしまっている道長は「姉上、私は関白になりたいとは思いません」と伏し目がちに答えるだけです。関白になりたくないというのは、おそらく本心でしょう。彼は、自分は現場で実務を担当する、あるいは参謀として動くほうが向いていると思っているのでしょう。また、生来、人と対等につきあいたがる彼は人に命令することがあまり好きではありません。だからこそ、道兼の善政のもとでその協力をすることが理想的だったのでしょう。しかし、それは道兼の急死によって断たれました。無力感と絶望感が今の彼を覆っているのです。

 道長の意気消沈した様子に「お前がならなければ伊周がなってしまうのよ」と危機意識を煽る詮子ですが「それがよいかと思います」と述べる道長はなしのつぶて。様子のおかしい道長に不審の目を向ける詮子に、おそるおそる「女院さま、私たちは今のままで十分なのでございます」と倫子が口を挟みます。それは言葉通りの事実ですが、わざわざ口にした倫子の真意は別にあるでしょう。


 夫婦そろって詮子の御前に参上したものの、政の話では倫子は基本的に蚊帳の外でしょう。普段であれば、倫子自身、そのことに不満はなく、聞き役に徹していたことでしょう。そういう彼女が横合いから口を出したのは、何故、道長がここまで無気力なのか、彼女だけが彼の傷心を知り、心を痛めているからです。勿論、それは道長の生来からの優しさから傷ついていることも踏まえてのことです。ですから、今の彼に無理強いをさせることはしたくないと庇う気持ちからの発言です。
 「お義兄さまの死に心を痛めているんです」と道長の事情を直接言うようなことはかえって道長の傷を深くしますから、あくまで嫡妻の希望による夫婦の方針と言う体を装って彼を庇ったのも、賢い倫子なりの配慮であったろうと思われます。政治を知らぬ浅はかな女の考えと自分だけが非難を受けるだけで済みますから。


 しかし、倫子が考える以上に事態は切迫しています。関白不在…政治的空白を長く作ることはできません。ただでさえ多くの公卿が亡くなり、政務は否応なしに滞り、不安と動揺は内裏全体を包んでいます。「この国の未来」がかかった現状、しかも自分たちの今後の命運もそこにあるときに、夫婦の感傷で水を差されることは我慢なりません。倫子の真意を計ることなく「そなたは黙っておれ」と語気を荒げるのも仕方がないところです。倫子は倫子でこうした政の現状を知らず、夫を庇ったことは不用意でした。立場が違いすぎて、噛み合わないのです。

 逆鱗に触れたことを悟った倫子は早々に「ご無礼いたしました」と引き下がりますが、あろうことか道長が「倫子の言うとおりでございます」と、その理屈に乗っかると、詮子と目も合わせないまま、「帝はお若いながら果断にしてお考えも深く、真、ご聡明におわします」と、自分など不要、姉上も自分が育てた帝を信じればよいと言い出します。これは彼らしくありませんね。かつて、若き道長は、兼家に「自分の考えはないのか」と問われたとき「私は帝がどなたであろうと変わらぬと考えております。大事なのは、帝をお支えする者が誰かということかと」と答えています(第5回)。


 先にも述べたとおり、象徴的な首長で絶大な力を持つ帝の政治的役割は、自らの権勢を直接的に振るうよりも公卿らのバランサーとなることが重視されます。だからこそ、帝の意を汲み、反論も含めて的確な補佐ができる臣下が必要なのです。一条帝の意向を無視した道隆も、花山帝の意向に阿るだけの義懐も、どちらも相応しいものではなく、政に歪みをもたらしましたね。これを知っているはずの道長が、帝がしっかりしていれば大丈夫などと言うのは、いつもの彼ではなくなっている証拠です。

 様子がおかしいと察したのか、詮子は「伊周が関白になったら私たちは終わりよ。それでもよいと思うの、道長は」と、今のままの生活すら危ういのだと書き口説くのですが、「それも世の流れかと…」と諦めきった言葉を返します。どんなに頑張ってもこうも簡単に志が挫かれてしまうこと、やっと希望を自分で見出し立ち直った道兼に与えられた無念の死、世の中とはどうしてこうも理不尽なのか…直秀の死以来の捨て鉢な思いに駆られています。
 妻の感傷的な理屈に乗り、諦めきった、捨て鉢な道長の物言いに、さすがの詮子も「うつけ者!」と激高します…が、今の傷心の道長に何を言っても通じないことも理解したでしょう。いずれ、時が彼を癒し、立ち直るとしても、今は時間がありません。詮子としては焦れる思いのはずです。


 そうしたなかで行われた伊周主催の酒宴と公卿たちの情勢の変化は、詮子には余談を許さぬものとして映ったはずです。今の道長があてにならない以上、彼女が前面に立って、事態を動かし、道長を関白の座に就ける…既成事実を作るしかありません。賢い彼は、その状況に柔軟に対応できることを、彼女は婚姻を始め、さまざまなところで知っています。また、彼の兼家の息子らしくない穏やかさこそが、帝と自分を守るに相応しい力となると信じています。そのために家柄のよい明子女王を娶せるなど力になってきたのです。今更、それを捨てるわけにはいきません。定子に中関白家しかないように、詮子もまた道長しかいないのです。

 意を決した彼女は、995年5月11日夜半に帝の寝所清涼殿へ自ら押しかけます。この詮子による夜半の一条帝の説得は「大鏡」でも有名な場面です。取り次ぐ蔵人頭俊賢に強く「どけ!」と迫るあたりに詮子の鬼気迫る様子が窺えますね。


 「次の関白についてお上のお考えをお聞きしたく参りました」と問う詮子に、上座の帝は「伊周にいたします」と即答とすると「明日には公にいたします」と明言します。帝にしてみれば、先だって彼を関白にできなかったことへの忸怩たる思いが解消できるとの思いがあります。閨での定子との睦み合いでもそれは伝わりますね。今回は公卿たちが伊周寄りになっていること、関白に任じられる最有力の職責にあるのが内大臣の伊周しかいないことを考えれば、阻むものはありません。
 さらに以前、伊周の関白就任を見送った理由の一つは、右大臣である道兼を差し置くことはできないというものでしたから、その理屈からしても道長はないということになりますね。

 母に明言できるのも、こうした諸条件がすべて揃っているからです。まあ、裏を返せば、今回、道長と詮子は直前まで絶体絶命、にもかかわらず、傷心の道長はやる気なしという最悪な状況であったということです。詮子の行動は起死回生の一手なのです。


 筋の通った裁可ゆえに自信をもって答える一条帝に「おそれながら、お上は何もお見えになっておりません。母は心配にございます」と、帝のものの見方は一面的であることを「母の立場」から指摘します。帝がお母さん子であるのは、彼の幼少期から描かれたことです。詮子は帝のそうした心根をからめ手にして、「前の前の関白であった道隆は、お上が幼いことをよいことに、やりたい放題、公卿たちの信用を失いました。伊周はその道隆の子。おなじ遣り口で、己の家のためだけに政を仕切りましょう。お上をお支えする気などさらさらありますまい」と伊周の問題点を滔々と語ります。

 徳治を願う帝の意向どおりには民を救おうともせず、栄華を楽しみ、疫病を流行らせた道隆の失政の影響は、今もって内裏のなかを渦巻いています。その道隆…つまり中関白家の徳の無い家風を継ぐ者が権勢を握れば、その悪政が続くというのです。徳治を目指すのであれば、不徳を根本から断ち切るのが筋であるというのが詮子の主張です。巧妙に中関白家の家風とすることで、その排除を考えていることがわかります。そして、視聴者は伊周の今回の醜悪な言動を既に見せつけられていますから、詮子の理屈になおさら頷くしかないでしょう(苦笑)


 伊周を嫌っているのだと単純に思ったのか「朕は伊周を信じております。伊周は母上の仰せのようなものではございません」と答えます。公私共に伊周と親しくする彼は、登華殿サロンで教養深く、機転を利かせる伊周のよい面しか見ていません。また定子の兄が、定子を不幸にするまいという思いもあります。しかし、それは十分な説得材料とは言えませんね。信用の基本には定子を信用していることにありますから。
 また、彼が道隆のような政をしないという証拠になるような政治上の功績をあげていないことも大きいでしょう。伊周自身が気にも留めていなかった実務経験不足が、この会話ではじわりと利いてきているように思われます。


 帝の伊周への信頼が、定子由来で根拠に乏しいと看破している詮子は「お上は中宮に騙されておられるのです」と挑発します。図星を指された「騙されているとは、どういう意味にございますか」と思わず反応します。詮子は「先だっては、道兼を関白にして落胆させたゆえ、今度は定子の兄にとお思いではないかと思いまして」と務めて冷静にしれっと答えます。さすがにこれは「朕はたしかに定子を愛でております。そのことで政は変わることはございません」と応じます。

 実際、彼がバランサーとして思い悩むのは、定子の思うようしてやりたい一方、徳治による民の救済という志もあるからです。ですから、葛藤の結果、定子の意に添わない裁可も何度もしています。しかし、だからといって、今回の裁可において、条件がそろったことをよいことに、伊周の政への才覚について疑問を持たずにいるのも事実。その裏に定子への情がないとは言えないでしょう。帝の言葉は、当人の自覚はともかく、半分真実、半分嘘というところでしょう。


 しかし、詮子が引き出したかったのは、定子のために政は変えないという言質です。その言質を取ると、そう思うのであれば「悪いことは申しません。道長になさいませ」と冷静に考えるよう進言します。しかし、道長は大納言、内大臣の伊周とは違いますから「道長を関白にとは考えたことはございません」とにべもありません。また、帝は道長という人物を実はよく知りません。道長は公私混同を避けていますし、登華殿へ訪れたことも政務絡みのみ。また、いくら献策を却下されても、関白道隆を立て、帝に直訴するようなこともしません。派手なたちでもない。凡そ、人柄を知る機会はなかったでしょう。ですから、眼中にないのも仕方ないのです。


 詮子が「私は、姉として道長と共に育ち、母としてお上をお育て申し上げて参りました。そのどちらもわかる私から見た考えにございます。道長は野心がなく、人に優しく、俺が俺がと人の前に出る人柄ではありません。若く粗っぽく我の強い伊周に比べて、ずっとずっとお上の支えとなりましょう。お上に寄り添う関白となりましょう」と書き口説くのは、帝が、道長の人となりさえ知れば、間違いなく道長を選ぶであろうという確信があるからですね。

 惜しむらくは、彼を知ってもらう機会がなかったことです。時間があれば、土御門殿にいる自分のもとへ帝が行幸した際に引き合わせることもしたと思われますが、今は時間がないうえに、肝心の道長は今、傷心で使い物になりませんから、あつかましくても詮子自身の口から宣伝するしかないのです。


 注意したいのは、彼女が道長を推すのは、単純な身贔屓だけではありませんし、また道長が自分の都合よく操れる人材だからということでもありません。彼女の根底にあるのは、愛した円融帝との一粒種である息子、一条帝を守ることにあります。この場合の「守る」は、自身の野心のためにその命を脅かさないこと、一条帝が思う政治を行えるよう意を汲み、補佐できる心根と優秀さを持つことです。
 兼家のように野心や我が「家」のために帝に毒を盛るような人間は、あり得ません。彼女はあの日、命をかけて、息子を守ると誓ったのです。そう考えたとき、幼い頃から共に過ごした道長だけが、姉の話をよく聞いてくれ、妙な男らしさを押しつけることがなく、また怒ることが苦手な穏やかさを持っており、ただ一人信頼できる家族だったのです。

 勿論、道長にも野心はありますし、我の強さも持っています。ただ、それは、今のところ、他人の気持ちを無視するということにはなっていませんし、また利己的なものでもないということでしょう。


 しかし、詮子の帝を思うがゆえの言葉は、帝にとっては自分の裁可を信じず子ども扱いする母の過保護にしか聞こえないのでしょう。頑なに「朕は伊周に決めております」と応じます。ここにきて、遂に詮子は「母を捨てて、后を取るのですか」と伝家の宝刀を抜きます。が、その後に続くのは、母のエゴではなく「お上はどんな帝になろうとお望みなのですか。何でも関白にお任せの帝でよろしいのですか」と、政治姿勢を問うところであることに、彼女の一条帝を育てるにあたってずっと抱えてきた思いがあります。

 彼女は「お上のお父上は、いつも己の意を汲まぬ関白の横暴を嘆いておいででした。父上の無念をお上がはらさずして誰がはらしましょう」と言います。このくだりには、今なお、兼家が円融帝に毒を盛り、夫の志を砕いたこと、それによって誤解を受け、円融帝と引き裂かれたばかりか永遠に恨まれたことを詮子が忘れていないことを窺わせます。本作の円融院は死ぬまで詮子を許さなかったようです。それでも彼女は円融院の死をきっかけに女院となり、操を立てています。未だに円融帝への想い断ち難く、それゆえに帝を一人前にし、守り切る想いも強いのでしょう。


 そんな彼女が、帝の傍から排除しておきたいのは、我が「家」の繁栄を理由にいかなる悪事にも手を染められる兼家の非情さ、冷酷さです。そこには、「家」を守るためにそうせざるを得なかった兼家の事情があるのですが、そんな兼家の苦労も知らず、そのやり方だけに心酔し、父以上の暴政を振るったのが道隆です。純粋培養され、ただ父の外形を真似るだけの道隆は、その非情さに加え、その栄華を当然のものとして自分たちが享受し、傲慢さを先鋭化させました。結果、彼は兼家が欠かさなかった他の貴族たちの配慮と根回しを一切せず、彼らの意見に耳を貸さず、意固地になることで、人望を失いました。その災禍が疫病の拡大です。

 こうした道隆のあり方については、後継者になる前から詮子は、「父上のやり方を疑わない道隆の兄上も、父上の手先になって嬉しそうな道兼の兄上も最悪ね」(第10回)と辛辣でしたが、改心した道兼はともかく、道隆は詮子の慧眼どおりとなりました。結局、以前のnoteでもしてきたとおり、道隆は兼家の劣化コピーでしかなかったのです。そして、そんな道隆以上に、生まれついての苦労知らず、挫折知らずのボンボン伊周は、兼家のハングリーさと慎重さもなく、道隆のような鷹揚さもないまま、ひたすら我を通すワガママな人間に育ちました。

 結果、伊周は、兼家の劣化コピーだった道隆のさらに劣化コピーとなり、兼家イズムの中になる自己中心的な非情さと傲慢さが凝縮された人間となってしまいました。詮子は、かの日の傲慢な説教で、伊周のその本質を見極め、それを排除せねばと誓ったのでしょう。


 つまり、詮子のなりふり構わぬ涙ながらの訴えの根底にあるのは、「兼家的なるもの」への憎悪、そして帝をそこから守る親心です。「母は自分のことなどどうでもよいのです」という言葉も印象的ですね。円融帝に毒を盛った実家への強い不信と怨嗟から「薬など生涯飲まぬ!」と吐き捨て、実際、薬を飲まなかった彼女は、どこかで常に死を思いながら、命がけで帝を育ててきたに違いないと察せられます。その想いの深さと業の深さは、定子をしても想像を絶することでしょう。
 そんな母の「ただ一つ願うは、お上が関白に操られることなく、己の信じた政ができるようにと、ただひたすらそれを願っておるのでございます」に、あくまで「朕は伊周に決めております」と言い続けた帝ですが、母の強情と信念に根負け、いや、彼自身の母を思う気持ちもあり、遂に道長に内覧宣旨をくだす決断をします。せめて関白にしなかったことが、定子への配慮であり、母への抵抗でもあるのでしょう。

 そして、いよいよ、道長が政の頂点に立つわけですが…今回、ここまで道長は実は何にもしていません…内覧は棚ボタで転がり込んできたのです(笑)



4.人望とはなにか~道長と伊周の違い~

 十中八九、自分が関白になると信じていた伊周にとって、道長の内覧宣旨は信じがたいものだったのでしょう。自分は必死にロビー活動(酒宴)をしたのに、なんのアクションも起こしていない、経理に小うるさいだけの中宮大夫が、内大臣の自分を差し置いて内覧になるなどあり得ないと思っても不思議ではありません。
 一方で他の公卿たちは、この人事をすんなりと受け止めていますから、伊周(と隆家)だけが衝撃を受けていると思われます。だとすれば、これだけで伊周自身に人望がなかったのだとわかりそうなものです。しかし、自分に問題があるとはまったく思っていない伊周は、他者に責任転嫁します。彼が思う帝が裁定を覆した理由は、定子の不甲斐なさと決めつけます。

 登華殿サロンで楽しむ定子と女官たちのもとへ荒々しく「どけ、どけ!」と表れた彼は、他人の目を憚ることも、公私混同の振る舞いに対する自制心もありません。利己的でワガママの本性だけが前面に表れています。もっとも、普段からこの本性が嫌みで高慢な言動として現れるから、ことごとく会う貴族を不快にさせているのですが。しかし、定子からすれば敬愛する兄のその姿は、あまりに無様。「お静かになさいませ」と諫めるのは、兄を思ってのギリギリの言葉です。


 そんな定子の自制心にも気づかぬ愚か者は「帝のご寵愛は偽りであったのだな?」と問いかけます。こうなった兄に何を言っても無駄であると知っているのでしょう「そうやもしれません」と敢えて逆らうことはしません。明確に侮蔑の笑いを見せた伊周は、中関白家の繁栄のために「何も出来てはいないではないか」と責めます。これに対しては、定子は「関白ではなく内覧宣旨のみお与えになったのは、帝の私へのお心遣いと思いました」と冷静な分析力と帝の心を慮る思い遣りから、帝の政治判断の意味を正確に読み取ります。
 道兼を関白にしたときと同じく、「この度」は道長を内覧にしたということです。伊周の将来の可能性は開いてあるということです。前回の件も踏まえれば、伊周はじっくり腰を据えて、どうすれば人望が得られるのかを考え、実行しなければいけない。やるべきことの方向性もはっきりしているのです。これを温情と言わず、何と言えばよいのでしょうか。


 しかし、伊周は「私は内覧を取り上げられた上に、内大臣のままだ!そんなお心遣い…何の意味もない!」と癇癪を爆発させます。挫折をしらず、大切に育てられた伊周は、屈辱に耐えるということを知らないのでしょう。また失敗が次のステップになることも理解していないのだと思われます。

 そういえば、教員としての実感として、昨今は失敗を極度に恐れる若者が多いです。一度の失敗で人生が終わったと自分を追い込んでしまう学生もいます。学生の間は、勉強に関しては何度失敗しても構わない…というか寧ろ、失敗を重ねて学んでほしいのですが、なかなか理解されません。ただ、これは現在の日本の世の中が、一度の失敗を許さない、敗者復活がない厳しいものになっていることが大きく影響しています。

 しかし、伊周の癇癪は、こうした現代の学生のものとは質が違います。将来の可能性もあります。にもかかわらず、このような言動を起こすのは、ただただ思う通りにならなかった責任を他人になすりつけて、感情を爆発させているだけのことです。駄々をこねる子どもと同じですね…まだ21歳とはいえ、見苦しいかぎりです。帝の苦渋、定子の思いに思いを馳せることは一切しません。こういう他人の気持ちがわからず、自分の感情を優先させる自己中心的な言動が、彼に人望がない所以だと言えるでしょう。


 そして己の子どものような醜悪をさらしている現実にも気づかず、伊周は定子の前に座り込むと「こうなったらもう、中宮さまのお役目は皇子を産むだけだ」と、彼女が錯乱した父に言われ、気にしていることを突きつけます。モラハラも大概、この場に帝がいたら、来週起こるあの一件の前に太宰府行になりそうですが、ここには彼を止められる者がいません。伊周は「皇子を産め」と言うたびに、ドンと音を鳴らして恫喝し続けます。

 先週の道隆と同じ台詞を吐く伊周のさまは、道隆の中関白家の権勢欲へのあさましさが、伊周に引き継がれていることを象徴しています。ただ、道隆のそれが病に追いつめられ、「家」が権勢を失う恐怖心と錯乱によるものであったことに対して、伊周のハラスメントは単なる個人的な憂さ晴らしに過ぎません。伊周のほうが、レベルが低く、悪質なのです。こういう点も、伊周が道隆の劣化コピーでしかないことが表れていますね。

 とはいえ、父と兄に同じことを繰り返し、繰り返し、呪詛のごとく唱えられ、唇を噛みしめ耐えるしかない定子の心中は察するにあまりあります。「素腹の中宮と言われておるのを知っておいでか。悔しかったら皇子を産んでみろ」という心ない誹謗中傷まで吐き捨てた伊周の株は女官の間でも大暴落、道長への内覧宣旨が正しかったことを伊周自らが示したことになりますね。


 一方、内覧宣旨と同時に右大臣に任じられ、完全に伊周の上位に立った道長は、内覧右大臣となりました。静かにそれを引き受ける道長の心底はその場では語られませんが、貴族の頂点に昇りつめたことは事実です。

 土御門殿では、穆子が「内覧でなおかつ右大臣のお役目をいただいたのだったら、これはもう政権の頂に立ったのと同じ。でかしたわね、倫子」と褒めるのに対して、倫子は「自分は上に立つのは苦手…と殿はいつもおっしゃっていましたのに…これからご苦労なさるかと思うと心配でございます」とあくまで健気に夫の心配をします。どんな地位に就こうと、道長は道長、その変わらぬ優しい心根と卑しい野心なき、彼が思うよう政ができるよう祈っているのでしょう。とはいえ、亡父雅信が「不承知不承知」と言いながらも見守ってくれるだろうと軽口を叩けるくらいには明るくいます。


 「関白でも右大臣でも我が殿に変わりございませぬ」と自分の道長を慕う気持ちが微塵も変わらないと言う高松殿、明子女王も嫡妻倫子と同じ想いでいます。二人の女性が、富貴を楽しむのではなく、愛する道長の美徳がこれまでどおりであることを願うのが興味深いですね。二人の妻たちによって、道長が支えられていくのであろうことが窺えます。

 道長の出世にも動揺することなく、日課の父の位牌への祈りを欠かさない明子に、道長の才覚を熱く語るのは、兄俊賢です。帝の蔵人頭としては実直、明子の兄としては計算高い野心家の顔を見せるという二面性が、俊賢の魅力でしたが、今回は少し様子が違います。
 「右大臣さまは関白の職は要らぬと仰せになったそうだ」と道長の発言に興味津々だからです。内覧宣旨しか与えなかったことは、帝の判断ですが、どうやらそれを受けた上で自らも関白の座は不要と明言したというのです。これにより、道長は関白を巡る不幸の連鎖を断ち切ったことになりますし、また帝の折衷案的な意向をポジティブに受け取る対応も帝に対する敬意にもなっていますね。


 さらに俊賢は「関白になってしまっては意のままに動けぬ。存分に働ける場に留まりたいと仰せになったそうだ」と、道長の発言を引き、「ただ者ではない」とひたすらに感心しきりです。つまり、彼は現場も知らず、上からわかったような指図をするような指導者にはならない。現場主義を明言したのですね。
 これは、道隆の執政における問題点を直接見て考えたこと、悲田院に出向くことで現実的な対策を考えられた体験が生きた結果と言えるでしょう。道兼の死の傷心から放心していたとは思えないほど、しっかり立ち直っています。詮子の目、願いは確かなものであったと言うことです。


 また、この関白位は要らない発言の重要性は他にもあります。兼家が摂政、及び関白になったときのことを思い出しましょう。彼はこのとき、摂政関白をいう地位を太政官からは影響を受けない別個の地位として確立させることで権力を掌握しました。これを悪用したのが道隆です。太政官とは独自の権限を持つものとして、太政官の意向を無視し、専横を行ったのです。つまり、権力の二重構造によって、道隆政権の政は歪んでしまったと言えるでしょう。

 しかし、兼家直系の中関白家とは距離を置く道長は、この専横の歪みを正し、太政官を重視する政治方針を打ち出したのです。現状、太政官のトップとして公卿たちとの朝議である陣定(じんのさだめ)で議論を尽くし、そこで物事を決めていく。つまり、多くの公卿たちの存在自体を、道長の権力の基盤とするということです。自分の権限の強化ではなく、多くの貴族との調和を重視する政治を指向しようというわけです。この発想と現場主義を俊賢は「ただ者ではない」と言うのですね。


 慕う夫をここまで褒められるとさすがの明子もまんざらではない笑顔になりますが、手の平返しの兄に「この前まで道長さまなど眼中になかったくせに」と憎まれ口を叩きます。しかし、興奮覚めやらぬ俊賢は「ああ、これほどの心意気の方とは思わなかった」と妹の揶揄も意に介しません。 自分たちの能力や才覚次第で、それが政に反映されるのだとすれば、事なかれで、形骸化していた太政官も活性化するはずです。広く有能な人材が求められる時代が久々に到来しそうなのです。

 だからこそ二枚舌の風見鶏だった俊賢をして「これからは右大臣さま一本でいく」と言わしめるのですね。やる気になった俊賢は「俺のこと、道長さまに誉めておけよ」とあつかましい頼みごとをすると、初めて父の位牌に手を合わせます。出世しそうとなった途端にこれですから現金なものです。この後、四納言の一人として道長政権の一角を担う俊賢ですから、この決意は本物でしょう。


 そして、この俊賢の反応にこそ、人望の本質が表れています。今回、道長は自身の政権奪取において何もしていません。彼を推す詮子の強い意向と努力があったからです。しかし、詮子が強く行動を起こせた一端には、道長に対する長年の深い信頼があります。その座に就けてしまえば、今は傷心の道長も必ず成果を出すと思えばこそ、帝への直談判ができたとすれば、詮子を突き動かしたのは、道長の人間性もあると言えるでしょう。

 そして右大臣内覧となって以降、その権勢を確かなものにするのは道長自身です。周りに野心が薄いと見られていた道長は、そのことで今一つ覇気のない人間にも見られていたようですが、就任と同時に明確に現場主義と太政官重視の施政方針を打ち出しました。過去の歪みを正し、皆の意見を広く聞くという道長の方針は、公卿や他の貴族にとっても新鮮なものです。そして、政に対する意欲を掻き立てるものであったことは、俊賢の言動によく表れています。つまり、道長は、その政治的ビジョンを示すことで、貴族たちが自ら、この政に参加したい、何かやってみようと心の底からやる気にさせたのですね。


 このように道長は、自分が必要なときに、彼の思いに賛同し、動こうとする人間がいるのです。そして、道長のために自ら動こうとして自分自身を変えていった一人に道兼がいることも忘れてはいけません。それは道長の真心の結果です。道長は、その人間性で人望を得る術を体得していっていたと言えるでしょう。これは、伊周の酒宴のような付け焼刃で利益を与えてやるというような上から目線の言動では決して起き得ないことです。奇しくも定子が伊周に忠告した「人望を得なされ」を実践していたのは道長のほうであったのです。だから、状況は覆されたのです。

 ところで、道長が関白位を蹴ったことについて、劇中では一切触れられていませんが、もう一つ理由があるような気がしています。それは、急逝した道兼のことです。元々、道長は関白道兼のもとで、志を叶えようとしていました。それは叶わぬことになりましたが、もしかすると道長は自身が右大臣に留まることで、心の中では道兼を関白に奉じながら、政を行う気持ちになったのではないでしょうか。

 あくまで深読みのレベルにすぎませんが、内覧宣旨を受けた途端に立ち直った道長の様子を見ると、そんな人知れぬ決意があってもよさそうな気がしています。


5.まひろの好奇心と思い遣り

 政治的な大きな動きがあった道長側と比べると、まひろの身に起きた諸事情は極めて日常的です。しかし、その中でまひろの二つの面が強調されたように思います。一つは、まひろの幼少期から変わらぬ好奇心の強さです。20代も後半になろうというまひろの好奇心は衰えることを知りません。ことに前回、思わぬ形で道長とのつながりを改めて思い、そして、仲違いしたと気に病んでいたさわと仲直りの中で、「書くこと」が自分や人様に与える影響を考えさせられ、久々にまひろの精神状態も上向きになっています。そうした精神的な充実は、珍しいものに対する関心を強く抱かせます。


 特に4年ぶりに帰京した宣孝の太宰府で経験した異国(宋)に関する話には興味津々です。異国の酒を味わい、紅をさしてみるなど体感的な経験にも臆することがないあたりも、まひろらしいですが、彼女が興味をひかれたのは、科挙制度です。
 宣孝の「宋には科挙という制度があり、これに受かれば身分が低くとも政に加われるそうだ」と聞かされ「真でございますか。身分を越えて機会が与えられる国があるなんて…」、能力主義ではなく、家格によってすべてが決まる貴族社会の矛盾や欺瞞をずっと生活レベルで味わってきた彼女にとって、驚きしかありません。
 もっとも長きに渡る中国の科挙史でも、女性に門戸が開かれたのは1853年の太平天国の下だけですから、あくまで男性たちに開かれたものです。だとしても、身分を越えると言うこと自体が夢のようです。もし、そうだとすれば直秀とて政にかかわれる世界があったということですから。

 ですから、父の様子を窺いながらも「行ってみとうございます!」と言う彼女の姿には、進んだ宋の国への憧れが見えます。そして、様々な話をするものの「大宰府から宋はどのくらい時間がかかるの?」と、科挙制度を備え広く人材を取る国への憧れが戻ります。2か月半はかかるという行程にさすがに「遠いですね…」と目を丸くしますが、為時はそこにまひろの微かな本気を感じ取り「行こうなどと考えるでないぞ」と釘を刺します。
 「伺っただけにございます」と口とがらすまひろに「行くならわしが一緒に行ってやろう。ついでに商いもできるゆえ」と焚きつける宣孝も半ば本気に見えますから、挙動不審になった為時は「やめてくれ。その気になったら困る」と苦笑いをします。そこには、当時としては、完全に行き遅れになってしまった娘の幸せを願う父の思いが見えますね。道長との可能性について聞いたのもそのためです。


 まひろのほうは、そんな父の思いに気づいたかどうか「心配性な父上」といたずらっぽく笑います。その表情は、異国の紅をさしただけにもかかわらず、やや大人っぽさがあります。そう、彼女が大人になってきたことが強調されるのも今回の特徴ですが、それは好奇心についても変化を及ぼしています。かつてのまひろは、面白い物語ならばなんでも楽しんでいました。それが高じて、直秀たち散楽のシナリオのあらましを作ったことさえありました。

 しかし、先ほどの宋の話でまひろが関心を抱いたことは、そうした物語ではなく、身分にかかわらず政にかかわることができる世の中についてでした。直秀の死への慟哭、道長との哀しい別れを選択したこと、たねに文字を教えたこと…こうしたことは、まひろに、世の中の理不尽が民を苦しめているという現実に向き合わせ、さまざまな葛藤や哀しみを経験させました。そして、未だにその答えは見いだせていませんが、政さえ変われば民は救われるのではないか、そんな確信はあります。だからこそ、政への関心を寄せるのです。 


 その好奇心の向き方は、久々に大学寮から帰宅した弟惟規が学生の間で流行っているという白楽天の「新楽府」の話を聞いたところです。日本の近現代文学しか知らない人は、文学というと物語という印象でしょうが、諸外国では社会風刺があることが文学性の必須条件でした。白楽天の「新楽府」も同様で、惟規の弁を借りるなら「白楽天が民にかわって政を批判している」ものです。内心「民を救いたい」と願うまひろにとって、「民に代わって時の為政者を諌めるもの」という点は興味深いところです。直秀たちの散楽に通ずるものすら感じたかもしれませんね。
 それだけに惹かれたまひろは、父すら持っていないと知ると、惟規に強くせがみます。貧しさゆえに普段、欲に対しては抑制的なまひろにしては珍しいことです。惟規はもったいぶってまひろをからかっていますが、彼女の思いは真剣だと思われます。

 つまり、まひろの好奇心の方向性は、現実的な民の生活や政への関心に向かってきているということです。ここに、寧子に教えられた「書くことで自分の哀しみを救うこと」そして、さわに教えられた「自分の書いたもので救われる人がいる」ということが加わることなりそうです。まひろの好奇心の方向性と深さ、従来の物語好き、そして見出しつつある「書くことの意味」、これらが組み合わさったとき、「源氏物語」への道が開かれるのでしょう。そのためには、まだまだたくさんの経験が必要になるのですが。



 ところで、まひろの書いたものが何故、さわの心を動かしたのでしょうか。勿論、さわがそれを書き写すことで、まひろに追いつこうとしたこと、写すなかで自分の思い、まひろの思いに気づいたのですから、さわの主体的な行動がさわを動かしたのは事実です。しかし、そのためには、まひろの書いたものに真心がなければなりません。その内容については、劇中で詳しく触れられてはいませんが、さわに「私の友はまひろさまだけなのでございます」と思わせたそれは、まひろのさわを思い遣る心に溢れたものであったのだろうと思われます。

 元々、頭でっかちな子だったまひろは、母ちやはの死もあって、自分の感情を封じ込めながらも、それゆえにそれにこだわっていました。いつも自分の感情に振り回されている自分本位な子であったと言えるでしょう。決して悪い人間ではなく、他人を思い遣れるのですが、その自分本位な言動は例えば初期の倫子の土御門サロンでの空気の読めなさにもよく表れていたと思います。また、父が散位になったとき、相手の真意や感情も読めずに兼家に直談判をしに行き大失敗をしたこともありました。


 しかし、さまざまな経験をとおして他人を思い遣ること、そのことが先立ち、それを表現できる女性になっていったのではないでしょうか。多くの哀しみや寂しさを抱える彼女は、本当は他人の痛みにもとても敏感です。だからこそ、道長との道ならぬ恋にも落ちたのです。ただ、それを表現する経験が足りませんでした。さわへ送った文とは、それが成功した最初なのかもしれません。だからこそ、さわを救い、まひろとの強い絆となり、まひろ自身も救ったのですね。

 そんなさわが国司になった父について肥前に旅立つことになったシーンは、哀しい部分もあるのですが、一方で強く結ばれているだけに絆の永遠性も感じられ、寂しい感じにはなっていませんね。惚れられていると自覚していた惟規が「俺にも当分会えないから泣いてるんだ?」と茶化したときの「昔は私、惟信さまをお慕いしておりましたけれど、いまはもうやめました」と笑顔で返すさわの晴れ晴れとした顔が印象的ですね。「あ?」と戸惑う惟規に「よき思い出でございます」というのは、男性側には一番きついもの。思い出にされてしまう、つまり過去にされてしまうほど切ないことはありませんから。呆気に取られて言葉もない惟規に「人の心は移ろうものなのよ」とフォローするまひろも、さわと同じニッコリですから、惟規は二人のシスターフッドを彩る道化になってしまいました(笑)


 このようにまひろは人を思い遣り、それを言葉にする表現を身に着けたことで大切な友人も得たのですね。今回、肥前に旅立ったことでさわのモデルが「筑紫の君」であることが確定しましたが、肥前に行った後も、そしてまひろが越前に行ってからも、その遠い距離を文のやり取りをして、その深い関係性が和歌と共に残っています。惜しむらくは、「筑紫の君」は肥前の地でなくなり、さわが恐れていたとおり、二度と会えなかったということですね。前回のさわは「私は何があっても病にならない頑丈な身体なのです」と言っていたのですが…彼女の死に際して紫式部は「いづかたの雲路と聞かば尋ねましつら離れたる雁が行方を」(姉君は雲に消えていった…)と万感の一首を残しています。二人のシスターフッドは永遠です。


 さて、道長と別れて後のまひろ、当人は「自分の生まれた意味」も「進むべき道」も見出せておらず、まだ一歩も進めていないという忸怩たる思いを抱えているのですが、婚姻によって疎遠となった倫子との縁、為時との親子関係の復活、さわという親友を得たことなど、人を思い遣り、表現できつつある彼女は、魅力的な女性になりつつあります。

 そのことを端的に表したのが、宋の酒を呑んだまひろの感想を聞いた宣孝の「まひろは打てば響くよい女になったのう」との言葉です。まひとは、宣孝の期待に合わせた粋な答えを返したのですが、以前のまひろなら単純に「不味い」とか「辛い」とか平気で言っていたはずです。相手に合わせて、会話を楽しむ大人の余裕が彼女にあるのも、常に相手(親友、父、民)を思うような気持ちがまひろの中にあるからでしょう。


プレイボーイで知られた宣孝の言葉だけに、まひろはその褒め言葉を胡散臭そうに聞いています。ただ、その後に付け足された「年を重ねて色香も増した」共々、宣孝の褒め言葉は本気でしょう。ただの面白いだけの小娘がいつのまにか大人の女性になっていた。それは期待以上であったのです。それは紅をさしたときのまひろを見たときの驚きにも表れていますね。己の自覚すらもなく、いつの間にか魅力的な大人になっていたまひろにも転機が訪れているのです。

とはいえ、20歳も離れたプレイボーイのおっさんと20代後半とはいえ妾は嫌で、心の中に初恋の男を住まわせているこじらせ女の恋路はなかなか難しそうですが(笑)


おわりに

 右大臣内覧となった夜、道長は月を見ながら、7年前のあの日を昨日のことのように思い返しています。鮮明に思い出される「この国を変えるために道長さまは高貴な家に生まれてきたのよ」「誰よりも愛しい道長さまが政によってこの国を変えていくさまを…死ぬまで見つめ続けます」の言葉、まひろの望む世を作ると約束した彼ですが、こんなにも唐突に、こんなにも早く、政の頂点に立ってしまったことへの戸惑いがあります。それは、いよいよ、本格的にまひろの「この国を変えていくさまを…死ぬまで見つめ続けます」に応える日々が待っています。それは生半可な決意では行えそうにありません。道長の足が自然と、約束の原点である廃寺へ向かったことは仕方がないことでしょう。


 そこに偶然、まひろが先客として訪れていました。一瞬、目を見張ったものの言葉なくわずかに目線をかわす二人…まひろは「昔の己に会いに来たのね」と瞬時に思い至ります。それがわかるのは、前々回の看病で道長があの日の約束を忘れていないこと、今も自分を忘れていないこと、思いが通じ合っていたことを知ったからです。もしも、疫病での看病がなければ、「どうしてここに?」とまひろは問いかけていたかもしれません。

 そして、一歩も進めず、思い悩むことの多かったまひろは「昔の己」に会うことで、自分を鼓舞する、思いを鎮める、考えをまとめる、そのためにこの廃寺に幾度か訪れているのかもしれません。今、来た理由は語られませんが、さわが旅立ち、寂しくなることから先々をまた考えに来たのかもしれません。


 ただ、この廃寺に来たということは、今のまひろに逢いに来たのではない。昔の自分、そして思い出の中にいるまひろに逢いに来たのだということに他なりません。そして、過去を追いかけなければいけないということは、今はまだあの過去に対して答えを見出せていない、志半ばだということです。それは道長も、まひろも同じでしょう。だから、どんなに愛しくて、どんなに切ない気持ちになろうと「今かける言葉は何もない」のです。あの日の答えを見出したとき、初めて今のまひろ、今の道長として、大人の二人の出会いが始まる。そのときまで、待つしかないのでしょう。

 道長もまた、そっとすれ違っていくまひろを目で追いかけたりしません。情熱的に看病した道長に今なお熱い想いがあるのはあきらかです。しかし、内覧右大臣という現実が、いよいよ、まひろの期待に応えるという現実とそれに対する戸惑いが、思いを告げるのはまだ先と彼を思いとどまらせるのでしょう。二人が思わぬ岐路に立っているということが、この出会いにも象徴的に表されていますね。

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