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「光る君へ」第29回 「母として」 諦めのボーダーラインはどこにある?

はじめに

 処世術として「諦めが肝心」とはよく言われます。世の中には悩んでも自力ではどうにもならないものがたくさんあります。こうした困難や厳しい状況を受け入れるとき、あるいは失敗や不運を嘆いても仕方がない場合、時には「諦めが肝心」というのです。「諦める」とは、ある物事への執着、固執を捨てることです。
 執着心が、他人の意見を退ける、あるいは視野狭窄を生み、人を苦しめることは、誰もが知るところでしょう。つまり、「諦める」とは、執着心から己を解放し、新たな道や可能性へ自分自身を開くことだと言えるでしょう。

一方で「諦める」ことに罪悪感を覚えるという人も少なくないでしょう。それは、ともすれば、努力を放棄することとイコールで捉えられるからです。ですから、諦めることを否定的に捉え、もっと頑張れと迂闊にアドバイスをして、逃げ道を封じてしまい、結果、他人や家族を追い詰めてしまうこともままありますね。

 それでは、どんなとき、「諦めが肝心」になるのでしょうか。様々な場合が想定されますが、明らかに諦めたほうが良いと言えるのは、他人を巻き込む目的の場合、あるいは他人の心を動かそうとする場合ではないでしょうか。例えば、恋愛や結婚では、自分の意思を徹底的に貫けば、大方の場合は失敗します。よしんば成功したとしても、おそらくそれは自己満足で、相手には忍耐と苦痛を強いているでしょう。酷い場合、それは善意であっても、ハラスメントにもなり得ます。その善意を諦めることが肝要なのですね。

「相手のことを思えばこそ」「相手のことを考えたから」という言い訳してしまう言動ほど厄介なものです。それが必要になる場合もあるでしょうが、思い遣りを履き違えているということもよく見られるのではないでしょうか。それが、最も出やすいのが、子育てや教育かもしれません。恋愛や結婚は、他人との関係ですから極論を言えば、断ち切ってしまえばそれまでです。しかし、親子関係となると、それが実子でなくても断ち難いものがあります。そして、親となった人は総じて、その責任を負いますから、子どもをよりよく育てたい、育てねばと思ってしまいがちでしょう。

 人生経験があるがゆえに「こうすべきだ」という思いが大人は強く持っています。また、自分が重ねてきた多くの失敗を子どもには経験させたくないと思う親心もあるでしょう。中には自分を子どもに投影し、生き直そうとする人が親にも教員にも見られます。
 また、子どもは未熟だとの思いを持っている人も多いでしょう。それは、一面的には正しいです。しかし、子どもには子どもなりの思いや考えがあるもの、幼いからといってそれが拙い、間違いだと侮るものではありません。子どもの思いは本質をつくことが、ままあるからです。自分たちの幼いころを思い出してください。大人が考えるほど自分たちはバカではなかったはずです。ですから、子どもの思いを無視して、大人の強い期待と願いを押しつけ過ぎれば、それがたとえ善意からであっても、彼らを駄目にしてしまうのですね。

 だから、大人たちは「子育て」において、どこかで「諦め」なければなりません。それが、我が子を受け入れることだからです。そもそも、皆さんは、親の願いどおりの大人になりましたか、なれましたか。期待に応えられた優等生な方々もいらっしゃるとは思いますが、多くは私と同じくなれていないのではないでしょうか?そう、子どもとは親の期待を裏切るように出来ているのです。それぐらいに諦めているぐらいが丁度よいかもしれませんね。

 ただ、どう「諦める」かは、親子の関係性、それぞれ個人の資質、性格によるところが大きく一概には言えません。その線引きが難しいところです。「光る君へ」に出てくる親たちも、そこを悩んでいるのではないでしょうか。そこで、今回は、執着を捨てる、諦めるという観点から、登場人物たちがどんな選択をしているのかを考えて見ましょう。



1.まひろに訪れる寡婦という転機

(1)まひろのなかに出来上がった幸せの軸

 1001年正月、まひろ一家は順調です。宣孝は、屠蘇など献じられた薬を飲み無病息災を願う「御薬の儀」で新取(帝が飲みきれなかった薬を飲み干す役)を務め、その出世は堅調であることが窺えます。因みにこの新取という役目は、大酒飲みが抜擢されたとか。お祭り男の宣孝に相応しい適材適所ですね。道長、よろしく引き回しています(笑)

 一方のまひろ宅では、よちよち歩きの賢子は毬を放り投げ、いとらの喝采を浴びている最中。「いいわね~、みなに誉められて」とすくすく育つ我が子に目を細めるまひろに、いとは「惟規さまはお歩きになるのも遅かったのに姫様はお早いことで」と嬉しげです。栴檀は双葉より芳し…早い成長は賢子の名のとおり賢い娘に育ちそうな気配があります。まひろの喜びもひとしおでしょう。

 そこへ宣孝が帰宅すれば、家はさらに華やぎます。すっかり子煩悩な宣孝が早速、賢子をあやす中、まひろは帝の様子を聞きます。そう、めでたい新年ですが、実は皇后定子が亡くなってらまだ半月ほどしか経っていません。寵姫を失った帝の傷心は、貴族ら皆の関心事です。それは、帝の心中が政に直結すると見られていることの証。帝とはどこまでも個人である以上に政治的機能なのです。だからこそ、詮子は息子に厳しく、道長や行成が諫言するのです。

 さて、宣孝によれば「近頃はお顔色も悪く覇気がないともっぱらの噂」とのこと。政治的には今年も不穏が残る幕開けとなったのです。「そうでしたか」と暗くなるまひろに、宣孝は突然「帝にはお目通りできなかったが、左大臣さまにはお会いしたぞ」と振ります。
 内心気にしていたことを宣孝に振られて、真顔で止まってしまうまひろですが、宣孝は「ご息災じゃ」とあっけらかん。二人にとり、道長の話題は最早、タブーではなく夫婦の一部。そのように宣孝は割り切っているのでしょう。まひろが道長の容態を知りたがるのは当然と気を利かせて話をしているのです。

 ただ「ようございました」とぎこちなく答えるまひろのほうは躊躇いがちの薄い笑顔に留まっています。道長の健康に安堵はあるものの、何事もないようその点に気を配ってくれる夫への申し訳なさもあるのでしょう。このことは、まひろの心境の変化と察せられます。彼女の中で道長が特別な存在であることは変わらないでしょうが、今、彼女が大切にしたいのは、目の前にいる夫と娘、現実の家族への愛情ではないでしょうか。つまり、まひろの人生の軸足は、家族と共に楽しく過ごせるこの暮らしへと、移っているということです。

 そのため、道長の話題も一瞬のこと、すぐに賢子の健やかな成長を宣孝へ嬉しげに報告します。宣孝は嬉しそうに「お前はおなごなのに威勢がよいのう」と賢子を抱きかかえると「ぶるぶるぶるぶる、ばあ」「ぶるぶるぶるぶる、うー」と変顔で娘を楽しませます。きゃっきゃっと笑う賢子の横合いから「うー」の変顔について「今の新しいですわね(笑)」とまひろがツッコミを入れてきます。まひろが、こうした茶々を入れられるのは、日々、宣孝を傍らでちゃんと見ている証です。二人の関係は何気なさで深まっているのでしょう。

 もっとも、ここはその場のノリでテキトーにあやしていただけだろう宣孝は、妻の意外な反応に「え?」と半笑いで驚きます。とはいえ、娘は喜ぶ、まひろに「もう一度お願いします」とせがまれたらサービスするしかないですね。妻子にメロメロ(死語)ですから。 
 調子に乗ったまひろは「もう一度」とさらにせがんでいるので、おそらく宣孝、ヘトヘトになるまで「ぶるぶるぶるぶる、うー」をやらされるのでしょう…(笑)こうして、何気ない日常は暮れていきます。

 このように穏やかな日々を送るまひろたちですが、良いことばかりではありません。
 受領功過定(ずりょうこうかさだめ)という受領の成績審査会議において、為時の越前守の再任官が叶わなかったのです。実直な為時だけに税の徴収など一般業務は文句なしでしたが、彼が越前守に抜擢された最大の案件「宋人の帰国」が果たせなかったことが問題視されました。
 人様には辛辣な斉信にいたっては「宋の言葉にも長じておるということで越前の国司になったというのに怠慢ではありませんか」という始末。さすがに為時の蔵人時代を知る実資が「為時どのは真面目な御方。怠慢は言い過ぎである」と庇うのですが、「そうでありますが、赴任して四年でありますゆえ」という公任の言葉が決め手となってしまいました。4年間で目立った成果がないのは、能力不足ということでしょう。

 ただ公卿らの判定は早計というか、本作の道長政権は外交に明るくないように思われます。外交問題は、考え方や文化のまったく違う者同士の交渉ですから、その落とし処は容易ではありません。特に主張が真っ向対立、平行線のまま解決し難いデリケートな問題、交渉の行方次第では戦争になりそうな問題では慎重さが求められます。国境の線引きにかかわる領土問題かよい例でしょう。完全な決着が着くときは、どちらかが戦争で負けたときです。安易に強気に出れば、修復不能の事態を招き、泥沼化します。
 こういう場合、必要なことは交渉を途切らせず、一方で少しずつ優位を引き寄せながら、好転するまで問題を先送りし続ける忍耐と粘り強い駆け引きです。白黒をつけるだけが政治ではないのですね。こう考えると、「光る君へ」における宋人問題では、恫喝されながらも彼らを都に入れることなく、越前に留めおき膠着状態を維持しているだけでも、為時はよくやっていたと言えるのではないでしょうか。

 この点、道長は多少弁えているようです。再任がならなかったことについて「此度は、任官はならなかったか…」と渋い表情になるのは、そもそも、誰がやっても上手くはいかなかったであろう役目を為時に任せてしまったこと、その苦労に報いられないことを申し訳なく思うからでしょう。ただ、公明正大な政を掲げる道長は、受領功過定の裁定に従うしかありません。無用な職権乱用は、政権自体を危うくします。道長には、胃の痛くなることが続きますね。

 当然、越前での為時の様子を傍で見ていたまひろは、その苦労を誰よりも知っているため、宣孝から、為時の散位を教えられ、その理由が宋人の帰国失敗だと推察した上で「宋人は我々とは違う考えを持っております。表の顔と裏の顔があり、扱いは難しゅうございました。父も精一杯やっておりましたけれど…」と、その苦労が内裏に伝わらなかったことを残念がります。表裏があるというのは、宋人らの首魁、朱仁聡のことでしょう。宴席を設ける、為時にお抱えの薬師を手配するなど友好的に見えながらも、交渉においては輸入品を博多に入れないなど恫喝してきました。その逐一をまひろは見ています。無論、周明との顛末も覚えているでしょう。

 残念がるまひろに、宣孝は「案ずることはない。次の官職を得るまで、為時どのの面倒はわしが見るゆえ、好きな学問をしながら、のんびりと越前の疲れを癒していただこう」と、暮らしぶりに問題はない、休暇と思って労ってやろうと前向きに考えるよう促します。まひろは幼少期の出来事、融通の利かない真面目さ、自己肯定感の低さから、基本的に物事についてはネガティブになりやすい傾向があります。ですから、こういうとき、宣孝のポジティブは精神的な救いにもなるでしょう。生真面目なところが似ている道長とではこうはいきません。

 気遣いに恐縮するまひろに宣孝は「わしにとっても、父上であるゆえ」と気にするなと笑います。父親と旧友にして同世代の婿という不思議な立場ゆえの冗談に、「頼もしい婿さまにございます」と合いの手を返すのが、夫婦らしさかもしれませんね。その上で「昔のように貧しくなれば、従者や下女に暇を出さねばならないところでした」と本心を吐露します。
 父の散位は、すぐにでも困窮へつながります。貴族とは到底思えない生活を10年も続けてきたまひろです。娘を抱えて、そこへ逆戻りをすることは、大きな不安だったでしょう。まして、宣孝の妾妻になり、生活レベルが上がった今は尚更、昔のレベルに下げるのは大変になります。まひろが、こうした話を素直にできるのも、相手が宣孝なればでしょう。

 当然、宣孝はまひろの不安に「しおらしい顔をするな。強気でおれ、強気で!わしはお前に惚れきっておるゆえ、どこにもゆかん」と太鼓判を押します。紆余曲折を経て、宣孝の真心を信じられるようになった今のまひろは「わしはお前に惚れきっておる」という言葉も信じられます。「そうでございました」と冗談めかすと、ようやく破顔します。

 二人で朗らかに笑うなか、夜半でありながら目を覚ましてしまった賢子が、てとてととやってきます。驚きながらも娘の顔が見られて嬉しい宣孝は「賢子、父と月を見よう」と縁側に連れ出します。外は煌々と輝く満月。「おお、月が綺麗じゃのう…」と感嘆する宣孝に「まあ…」とまひろも応じ、親子水入らず、夫婦水入らずの月見という一家団欒が始まります。このとき、まひろは一旦は月を仰ぎ見たものの、それよりも「この明るさでは賢子も目を覚ましてしまうのう」と冗談めかして笑う宣孝と賢子へと眼差しを送っているのが興味深いですね。
 それは、まひろが、かつてのように、月を見て夢を描く、あの人を思うことよりも、今、目の前にある幸せのほうへ目を向けた瞬間なのです。まひろは、ようやく「幸せ」を知り、それを心の底から噛み締めているのでしょう。


(2)賢子のために生きること

 しかし、無常なこの世は、まひろがようやく手にした幸せが長続きすることを許しません。歳の差夫婦の避けられない現実が、突如まひろを襲います。赴任地の山城国に発った宣孝からの連絡が途絶えてしばらくして、彼の嫡妻の使者から宣孝の唐突な死、そして既に弔いも済まされたという事実のみが伝えられます。実感のない夫の死に呆然とするまひろ、その死の様子を知りたくなるのは人情ですが、嫡妻からは「豪放で快活であった殿さまのお姿だけをお心にお残しいただきたい」との言葉でした。使者に寄れば、自分たちもその死を知らないとのこと、おそらくは山城国の中ですべて処理されたのでしょう。

 それにしても、宣孝の嫡妻という方も気丈な人だと察せられます。妾妻を何人も持ち、浮名を流す夫にはやきもきすることも多かったと思われます。さらに今は、自分の子どものような年齢の若い妾妻(まひろ)とその娘に入れあげているのです。心中は穏やかとは言えないでしょう。それでも、そんな彼の「豪放で快活」という良さを受け入れ、その良さを共に覚えておきましょうと妾妻に伝えたのです。彼女が宣孝を慕い、偲ぶ心はまひろ以上のものがあったことが窺えます。ですから、まひろにはそれ以上のことを聞くことも、すがることもできません。

 急速にまひろ宅へ影が忍び寄ります。よねが、乙丸に「この家はどうなるの?」と不安を問い、ひもじくなるのであれば越前でまた海女になろうかと言い出したことは、まひろたちの生活と将来に暗雲が立ち込めていることを端的に表しています。
 文机を前に呆然としたまま佇むまひろのもとに賢子がやってきます。「賢子なに?」と問うまひろに「父上(てぃてぃうえ)は?」と舌足らずの言葉で宣孝を恋しがる賢子…何も知らず父を求めるその愛らしさがかえって哀れです。また、賢子の仕草は、宣孝が実の子ではない賢子をいかに心から慈しみ、愛してくれたかをも表していますね。まひろは、宣孝はもういないのだ…ということを、賢子の問いで一気に理解してしまいます。

 だからこそ、思わずまひろは賢子を抱き寄せると泣き崩れてしまうのです。宣孝の死という現実は、いかに自分たちが物心共に宣孝の愛情に守られ、支えられていたのかを、まひろに突きつけます。不実に始まった夫婦関係でしたが、結局のところ、まひろたちが現実を安心して生きていけるよう温かく見守る愛し方をしてくれたのが、宣孝でした。道長の真っ直ぐで激しい愛情も魅力的ですが、それとは違う安堵感が、まひろを満たしていたのでしょう。
 しかし、それは永遠に失われました。それは、まひろのつかんだと思っていた「幸せ」の終焉です。これから先、何を、どんな思いを頼りに生きていけばよいのか。宣孝の愛情の代わりになるものなど早々ありません。失って初めて、まひろは、自分が宣孝を本当に愛していたということに思い当たったのかもしれません。ですから、父宣孝を求めた賢子の姿は、自分そのものでもあるのですね。

 そして、宣孝がいなくなったという事実は、現実の生活も一変させます。為時が散位し、宣孝の支援を失ったこの家は、困窮を極めていくでしょう。賢子を育てながらのそれは、以前、まひろが吐露した「昔のように貧しくなれば、従者や下女に暇を出さねばならない」生活です。まひろにとっての幸せの大本であった「家族」すら、離散しかねない現状です。
 まひろは、物理的にも精神的にも途方に暮れ、その一方でただただ宣孝を失ってしまったことが哀しく、寂しく、賢子を抱きしめたまま、涙が止まりません。直後に挿入された雲がかかった夕日のカットは、彼女の不安と哀しみを象徴していますね。


 為時が帰京して後、案の定、生活は苦しくなりつつあることは、賢子の乳母のあさがほうほうの体で逃げ出したことからも窺えます。幸い、よねは留まってくれていますがそれは乙丸が、この困窮にも動じていないからでしょう。それは、いとも同じで、彼女は姫さまは私が育てますと意気込んでいます。あの困窮した生活の苦楽を乗り切った二人の強さだけは、まひろにとって心強いですね。

 そこへ、道長の使者として百舌彦がやってきます。百舌彦の口上は「為時どのにはながーーい越前でのお役目、真にご苦労に存ずるとの仰せにございます。また、この度は宣孝どの、にわかに身罷れたること、痛ましきかぎり。お慰めの言葉とて見つかりませぬ。さぞお嘆きとお察ししますが、この上はくれぐれも御身大切におわしますように」と、貴族の挨拶らしい回りくどいものです。しかし、「ながーーい越前でのお役目」という言い方には、「苦労かけて申し訳ない」との労いが強く滲んでいます。

 また、わざわざ妾妻にお悔やみを述べ、「御身大切に」と気遣うのも、道長が心からまひろの心配をしていることが窺えます(おそらく、道長は宣孝の北の方にはお悔やみはしていないでしょう)。節々に道長らしさが見え隠れする口上と言えましょう、さらにその後、添えられた「越前守再任を後押しすることができず、すまなかったと主は申しておりました」との言葉は、完全に道長の口調そのものですね。百舌彦は、道長の極めて個人的な気遣いで訪れています。

 百舌彦の用件の本題はこの後「為時どのより左大臣家ご嫡男、田鶴君に漢籍の御指南をいただけないかとのことでございます」とのこと、つまりは「左大臣家お抱えの御指南役」の依頼でした。簡単に言えば、道長はまひろたちが困窮に陥ることを察して、救援の手を差し伸べにきたのです。長く回りくどい口上は、この依頼に他意はないことを示すための建前ということでしょう。

 おそらく賢子を自分の娘だと知らない道長にあるのは、石山寺でフラれた記憶(第27回)でしょう(苦笑)夫を失ったからといって、まひろが自分の妾妻になることになびくとは思えません。ですから、道長が、彼女を正当な形で援助するには、この方法しかなかったと察せられます。さらにこの方法であれば、再任官させられなかった為時への労いにもなる。一石二鳥というわけです。道長の愛情も宣孝に負けず劣らずというところを見せてきますね(笑)


 この申し出にぱあっと顔が明るくして、父によかったわという眼差しを送るまひろの現金さが素晴らしいですね。昔のお堅いまひろであれば、訝しむ、逡巡するということがあったでしょうが、今の彼女は生きることに貪欲です。宣孝との婚姻生活は、彼女を確実に変えているのですね。

 一方、百舌彦は「屋敷でも時折、漢詩の会が開かれますので、そちらでも御指南役を頼みたいと」との道長の口上の続きを述べていますが、これはこの依頼が単なる施しではなく、為時の学才の豊かさを認めるがゆえだとすることで、彼がこの依頼を受けやすくなるよう配慮しているのです。道長はかなり、行き届いた提案をしていると言えるでしょう。こうした道長の配慮と気持ちが、きちんと伝わっているまひろは、納得顔。さらに嬉しげな表情になり、期待に満ちた目を向けます。

 そして、最後に「正式な官職ではないが、お引き受けいただければ、禄は十分に出すと仰せにございます」と最も重要な点を申し添えます。為時、ちらとまひろを見ますが、このときは、使者である百舌彦に一礼しており、彼女の期待と嬉しさに満ちた表情を確認していません。単に彼なりに娘を気遣う目をしただけです。まあ、ここで目が合っていれば、この好条件の依頼を断るなどというバカな言動にはならなかったでしょう。返答を聞いた瞬間、まひろ「え?」と、百舌彦の「え?」が表情的にシンクロしてしまうのは、断るなどあり得ない返答だからです。

 為時の表向きの理由は「私は左大臣様の御父君、亡き関白藤原兼家様にもお雇いいただいていたことがございます。されど正式な官職を得るまで耐えきれなかった己を恥じております」という10年以上前の兼家への不義理という今更なもの。実直な為時ゆえにそれっぽく聞こえます。
 ただ、それでは将来がありませんから「左大臣さまの御心を無にしてしまい、真に申し訳ありませぬ。もし叶うならば、この次の除目において、お力添えをいただきとう存じます」と詫びと願いを添えます。言い終えた後、ちょっとドヤ顔なのが苦笑い。わずかに言ってやった感が漂います。まひろは為時を止めたかったのですが、賢子が闖入してきてすべてはパー。恥をかかされた百舌彦は、噴飯ものという表情で帰っていきます。


 その後、まひろは為時の真意を問うと「お断りするしかなかろう、お前の心を思えば、左大臣さまの北の方のご嫡男に漢籍の指南をすることはできん」とまひろの心情を慮った結果だと言い出します。だから、あのとき、ちらとまひろを見、言い終えたときわずかにドヤ顔をしてしまったのですね(苦笑)その言葉に呆れ果てたのは、当のまひろ。イライラした顔を隠そうともせず「私の気持ちなぞどうでもよろしいのに!」と不満を爆発させます。
 娘思いをしたとばかり思っていた為時は目を白黒させますが、まひろは「父上に官職なく、私に夫なく、どうやって乙丸やいとやきぬを養い、賢子を育てていくのでございますか!」と容赦なく畳みかけます。あさの逃げ出し方を見れば、既にその困窮が切羽詰まったものになってきているのは明白です。彼女は、プライドや過去の縁よりも、生活を選ぶのです。

 そして、言葉に詰まり、「それは…そうであろう」としか言えなくなった為時に「あした、道長さまをお訪ねになり、お申し出を受けると仰せくださいませ」ときつく願い出ます。さらにまひろは、断りの後に添えた除目の件についても「次の除目とて、あてにはなりませぬ」と酷評します。いい気になって話した為時の発言は全否定されます。
 因みにまひろの指摘は的確で、現に為時が再び任官されるのは8年後、受領になるのはそのさらに2年後となります。しかも、その任官はおそらく、それは紫式部のおかげでしょう。世渡りの下手な為時には世知辛いのが現実なのです。少しは世慣れた為時ですが、浮世離れした学問バカの本質は第1話のときから変わっていないところがありますね(苦笑)


 さて、まひろが敬愛する父にこうまでも厳しく出たことは「賢子にひもじい思いをさせぬためにも父上お願いいたします」という最後の言葉に凝縮されています。宣孝を失って後、まひろの生きる指針は賢子を育てることとしたのだとわかります。まひろは、宣孝との短い夫婦生活のなかで、家族と共に楽しく暮らすというごく当たり前の幸せがどんなものなのかを噛み締めることができました。
 困難も苦労もありますが、その幸せは書物や学問から得られる知識や理屈とは違う実体が伴ったものであったことは、まひろにとって新鮮だったことでしょう。そして、そんなささやかものを真剣に守りたいと思ったのではないでしょうか。

 ただ、宣孝の死によって、そのささやかな幸せは完璧なものではなくなりました。しかし、道長との愛情のなかで生まれ、宣孝と二人で慈しみ育てた賢子が自分にはいます。彼女はかけがえのない存在です。これを失えば、つかんだはずの幸せは完全に失われます。残された賢子と自分と二人、そして家人たち、残った家族の幸せのために現実を生き抜こう。そのためならば、かつての恋人の温情にすがる浅ましさも構わない。清濁併せ吞む、欲しいもののためにはなりふり構わない…これは宣孝に影響されたのかもしれません。宣孝はいなくとも、まひろの血肉になっているのでしょう。

 その思いが、まひろを強くしたのかもしれませんね。彼女は、道長と激しい恋愛の記憶、宣孝との幸せな時間、そうした過去にこだわり、すがることを諦めることで、ただ一つの大切な賢子を守り、今を生きる力に転じようと考え方を変えたのでしょう。思えば、母ちやはは、為時を愛し、為時の才と自尊心を第一義にしてきた彼女は、生きるために彼の意向に逆らうことはしませんでしたし、妾のもとへ通うことも耐えていました。それはそれで、一つの愛し方であり、生き方です。
 しかし、まひろは母とは違う道を選んだことが、為時への叱責では象徴されています。まひろは、今、母ちやはの影からようやく抜け出したのかもしれませんね。そんなまひろに為時は「そうで…あるな…そうである」と言うだけです。これから、この家は、実質、まひろが引っ張っていくことになるのでしょう。

 ただ、相変わらず賢子に「蒙求」を聞かせていることだけはいただけませんね。まったく興味も示さず、藁づくりの馬を振り回す賢子に言い聞かせていますが、いずれ嫌がられるでしょう(苦笑)その娘への学問を教え込みたいこだわりも捨てたほうがよい気はします。いずれ嫌がられるでしょうから。


2.倫子の憂いと思い違い

(1)的外れな藤壺の飾り立て

 内裏の藤壺にて一人ぽつねんと貝覆いに途方に暮れる彰子の様子が1カットだけ挿入された後、場面は土御門殿へ移ります。彰子のカットは中宮立后後、帝が彼女の元を訪れていないことを端的に示しています。ロングショットで捉えられた寂しそうなそれは、彰子の心中ではなく、彼女を見る道長、倫子らの目線からのものです。
 したがって、直後に続く土御門殿のシーンでの鏡、香炉など彰子の在所、藤壺を飾る装飾品の選定に余念がない倫子の胸中に焦燥感が窺えます。立后で得られた安心は、皇后定子の更なる懐妊によって打ち消され、そのまま約一年が過ぎてしまいました。定子は身罷りましたが、それが即、彰子への渡りにならないことは誰でもわかります。しかし、それでは入内した彰子が報われません。帝を何としても彰子のもとへ渡らせる…その真剣さゆえか、心を砕く様子にもいつものおおらかさが陰を潜めてしまい、彼女らしくありません。

 そこへ道長帰宅の知らせが入ります。「殿のお戻りにございます」の言葉に、倫子はふと動きを止めたものの、しらっとした表情になると目を伏せ、作業に戻り、やってきた道長に「お帰りなさいませ」と声だけかけます。これは、これまでの倫子にはない態度でしょう。以前の倫子であれば、やっていたことの手を止め、立ち上がり、笑顔で出迎えたはず。それが、愛しい殿御への倫子の愛情表現であり、また道長にとって土御門殿を安心の場とする女主人としての気丈さだったからです。
 倒れた道長が土御門殿に帰参した折、涙を浮かべながら彼を出迎えてから約半年の間に、急速に夫婦間は冷えていったと窺えます。原因の表向きは、彰子の問題でしょうが、根はもっと深いところにありそうです。妻のあからさまな態度にも「ん」といつもどおりに返す道長。倫子としては、これだけでもその無神経さに苛立つでしょう。

 ところ狭しと広げられた品々を興味深げに眺め、手にしようとする道長を「お触りにならないで。彰子さまにご在所に納める品ですゆえ」と厳しく窘める倫子ですが、夫とはまったく目を合わせようとはしません。得心した上で「毎日、藤壺を訪ねておるそうだな」と尋ねる道長にも無反応。倫子は、道長のその聞き方に、藤壺通いを咎める意図と察しているのではないでしょうか。おそらく二人はこうした彰子に関する方針の行き違いを度々、起こしているのでしょう。倫子は、咄嗟に防衛本能が働かせたのかもしれません。

 倫子の頑なな態度に、道長も言いにくそうに困り顔になるものの、それでも「いつもそなたがおっては帝も足をお運びになりにくい。気をつけよ」と一言だけ忠告し、その場を立ち去ろうとします。道長の忠告そのものは、もっともなことでしょう。まず、実母がやたらに通うことが後宮で噂となれば、それだけで帝の渡りがない揶揄の対象となり瑕となりかねません。


 また、男女問わず、義父母なるものは、好き嫌いにかかわりなく存在自体がプレッシャーになるものです。独身の私は実感がありませんが、既婚の方々は大なり小なり経験があるのではないでしょうか。土御門殿に婿入りした道長は。身をもって知っていると思われます。
 もっとも劇中描写を見る限り、雅信にせよ、穆子にせよ、道長夫妻に過干渉していないように察せられます。例えば、穆子は倫子に指南したり、愚痴を聞いてやったりしますが、道長にそれを話すことはしていません。かなり出来た人たちですが、それは道長と倫子を信頼しているということの証でもあるのです。穆子は、娘たちに土御門殿を任せたのです。

 これは、裏を返せば、倫子の過干渉は。親心であると同時に娘を信頼していないということを意味していますね。婚姻こそが女性の幸せと信じて疑わない倫子としては、彰子の入内は意に染まないものでした。世の安寧のためという大義という美辞麗句に乗せられただけなのでは?という自問自答をしてきたでしょう。
 地味で自己主張がないおとなしい娘というのが倫子の彰子評ですが、それゆえに我が子に帝を自ら勝ち取る力はないと見ています。そうと知りながら入内させたのですから、彼女の不幸せは母である自分の責任と内心感じているのではないでしょうか。月並みな幸せを犠牲にしてしまった娘への親心と後ろめたさ。それが、焦燥感となって、罪滅ぼしの通いになっていると思われます。

 ですから、道長の忠告は、倫子の内心に潜む罪の意識と焦燥感を刺激します。倫子は、道長の言葉を自分への非難、揶揄と受け止め「帝のお渡りがないのは私のせいですか?」と反論します。穏やかな彼女に怒りが滲みますが、それでも道長と目を合わせないのは、自分の内心を言い当てられたように感じたからでしょうか。
 倫子への揶揄など毛頭ない道長は、その過剰反応に「気をつけよ、と言うただけだ」と反論するのですが、倫子は「帝のお渡りがあるよう華やかにご在所を彩るべく知恵を絞っておりますのは私でございます」と冷たく突っぱねます。その静かな怒りが滲んだ言葉には、貴方は彰子を後宮という地獄に放り込んだまま捨て置いているではないかという非難。そそて、そんな貴方に私がしていることをとやかく言われる筋合いはないという冷たい拒絶がありますね。

 そもそも、二人の財はそれぞれが管理していますから、その利用もそれぞれの自由です。とやかく言えないのは当然です。寧ろ、彼女から多大な援助を受けていることもある道長に反論の余地はありません。さらに、倫子の指摘するとおり、道長が彰子の現状に手をこまねいているだけであることも事実で、その指摘は痛いところを突かれています。道長は家人たちに、これ以上、女房ら家人に夫婦喧嘩を見せないよう「すまなかった…」とすごすご引き下がるしかありません。

 このやり取りを見ると、きっかけこそは彰子ですが、根本的な問題は、倫子が娘を愛するがゆえに徐々に膨らんでくる罪の意識、焦り、不安…そうした負の感情を道長がちっとも理解、あるいは共感していないことだろうと察せられます。道長が持ち出すのは、いつも政の正論です。それはある一面において、理屈の通った正論ですが、倫子や彰子一人一人の心を救うものではありません。寧ろ、個人をねじ伏せ、傷つけるものです。
 そのことに道長自身も苦しんでいるのですが、彼はそれを詮子と晴明以外に見せることはありません(まひろが傍にいれば、彼女には話したでしょう)。倫子もまた、彼が自分と同じく苦しんでいることを知りません。結果、倫子の目には、道長は、自分や家族を顧みない冷徹な夫に見えてきているのではないでしょうか。
 話したところでわからない夫、自分の思いに寄り添おうとしない夫、娘の現状に手を打つでもなく高松殿に呑気に顔を出す夫…一々が倫子の勘に触っていることでしょう。夫婦に吹くすきま風、そのやり場のない思いを慰めるのは、子どもへの愛情です。結局、罪滅ぼしのはずの藤壺通いは、彼女自身の逃げ道であり、癒しにもなっていると思われます。

 ですから、藤壺を訪ねた倫子が彰子を見る表情は、夫に見せた顔とは打って変わって穏やかです。母が訪れ、「あ…」と口にする彰子。表情の変化もなく、その声は小さいですが、それだけで彰子が、母の来訪を喜んでいることがわかりますね。
 娘が貝覆いに手こずっていると瞬時にわかった倫子は微笑んだまま「母も貝覆いをしましょう」と申し出ます。母の言葉に甘えた彰子は「難しくて…できませぬ」とうつむき、珍しく本音を漏らします。にっこり笑った倫子は、そんな彰子を受け入れ「どれどれ」と手ほどきを始めます。まだまだ手のかかる彰子の相手をすることが、倫子の癒しであるということがわかりますね。


 直後、夕刻、放心状態で独り、庭に佇む帝のカットが挿入されます。その目には生気はなく、心が死んでしまっていることが窺えます。定子を失った今、彼には居場所も逃げ場所もありません。また彼を受け入れる人、寄り添う人もいません。ただただ孤独のなかにあります。
 果たして倫子が装飾品で華やかに飾り立てた藤壺が、そんな傷心の極みにある死にかけた彼の心の拠り所になるでしょうか。たしかに登華殿は華やかで雅やかな場でした。ただ、それは朗らかな定子が中心にいるから成り立つものです。彰子では似て非なるものとして際立つだけです。さらに傷心の彼に必要なものは癒しです。おそらく華やかさは、今の彼の求めるものではないでしょう。そして、母子が仲睦まじくいたとすれば、母との関係も拗れた一条帝は居たたまれないでしょう。結局、道長の言ったとおりなのですね。


 先ほど、登華殿の華やかさは定子だから成立すると話しましたが、これは倫子が藤壺を美しく華やかに装飾品や調度品で飾り立てるというやり方が、彰子に合っていないことを意味しています。簡単に言えば、地味で強い自己主張はせずおっとりとした彰子の周りを飾り立てたら、かえって彰子はその派手な装いに埋もれてしまうでしょう。そもそも、倫子は「入内して目立たなければ死んだも同然」(第27回)との正論から、「華やかな、艶が欲しいの。みんなが振り返るような明るさが」(第27回)と必死になり、結局、彰子の趣味がわからないそれは空回りしていましたね。この飾り立ても、その延長線上にあります。
 勿論、倫子は彰子の雰囲気に合うものを選ぼうとしているでしょうが、その行為自体が彰子の望むものとは限りません。結局、彼女の趣味で選ばれたものが並べられ、彰子がなすがままになっているだけです。倫子は己の不安と焦燥感、母親としての責任感に囚われ、肝心の彰子を見失ってしまっていると言えます。皮肉にも親心ゆえに子が見えなくなっているということですね。

 

 それでは、彰子の本質はどこにあるのでしょうか。それが垣間見える瞬間が、第29回では描かれました。物語の中盤、詮子と道長の謀で、敦康親王の養育を彰子が任されることになります。早速、藤壺での彰子と敦康の対面が行われますが、このとき彰子は敦康を自分から軽く手招きします。これだけでも今までにない行為なのです。そして敦康親王は、相変わらず表情の変化に乏しい彰子にまったく物怖じせず、彼女の膝の上にちょこんと座ると彼女の顔を嬉しそうに見上げます。すると、彰子はごく自然に彼の頭を撫でます。

 あまり意思表示をしない彼女が敦康を自ら呼び寄せ、慈しむ。ここにこそ、彰子の本来の姿があるのではないでしょうか。彼女は、道長と倫子の二人が持つ大らかさと優しさという気質をある意味、彼ら以上に強く持っているのでしょう。
 敦康親王は、その大らかな優しさが醸し出す安心感を感じ取り、あっさり彼女の膝に乗ったと思われます。幼子だからと侮ってはいけません。子どもは自分を守ってくれる存在が誰かということには敏感なものです。それが生き残るための本能だからです。だからこそ、彼女の本質がそこにあると言えるのです。その後、詮子の四十の賀においても、膝の上に乗ったままですからよっぽど居心地がよく、彰子はそんな彼をよく慈しんでいると思われますね。

 したがって、彰子の元へ帝を渡らせようと願うならば、まずこの彼女の本質を引き出すことをしなければなりません。それを磨き、輝かせてこそ、倫子の言うところの「みんなが振り返るような明るさ」になるはずです。また、藤壺に来るのは帝です。帝の御心を癒し、慈しむ雰囲気であることが第一となります。つまり、傷心の彼の心も救うものが用意されていなければならないことも窺えるでしょう。

 実母が不安から部屋を飾り立てることは、間違いとまでは言わずとも、根本的な問題の解決にはならないのです。主役は帝と彰子、彼らの心映えを開き、引き立てるには何が必要なのか、それを考えなければ解決しないことが見えてきます。倫子も、彰子入内前は、彰子の好きなものを見つけようとしていたのですが、いつの間にか見失ってしまいましたね。母としての思いが強すぎてしまったこと、夫への不信、妾妻など嫡妻として考えることがありすぎることが彼女を追い詰めてしまったのでしょう。


(2)深まる道長と妻たちとの溝

 ここまで見てきたように、倫子の彰子へのフォローは的外れです。その理由の一番は、彰子と帝、当人たちの心をつかんでいないことですが、もう一つ、問題点があるとすれば、後宮が倫子の理屈や経験の通用しない世界であることでしょう。以前、土御門殿では謀略家の詮子の謀すら封じた倫子。それができたのは、いかな政でも家の中では家政の領分だからです。
 しかし、今回は逆。彰子と帝のことは男女の問題でありながら内裏の問題。つまり、政の領分なのです。ですから、土御門殿では無敵の倫子ですが、その親心による対症療法では効果が期待できません。

 寧ろ、長い目で潮目を見極めながら、確実に追い込む冷徹さが重要です。それを知らない倫子にとって、この件は自分の手の及ばない初めてのことでしょう。それだけに抱える焦りの気持ち、自分自身を責める気持ちはもやもやと燻っているのです。つまり、彼女はある意味、追い詰められていると言えるでしょう。そうした彼女の心理状態を理解していないのが道長です。彼は政の人として、その理を説きますが、得てしてそうした正論は相手をかえって追い詰め、視野狭窄に陥れるでしょう。夫婦間のズレは取り繕えないレベルになっているようです。

 そのズレが顕著に表れるのが、詮子の四十の賀。平均寿命の低いこの時代では40歳は通過点として祝うに値する年齢です。「源氏物語」でも光源氏の初老という言葉は元々、40歳を差します。パリ五輪で銅メダルを取った平均年齢41歳の総合馬術の日本チームが、初老ジャパンを自称するのも妥当なことなのです(笑)


 さて、その席での童舞は、倫子の長男、田鶴と明子女王の長男、巌君の二人が舞うことになっていました。それさ、半ば公とも言える場で、嫡妻の子と妾子との競い合いをさせることを意味します。ですから、争い事を好まない道長の正室を知る公任は「道長らしくない」と訝るのですね。
 それに対して、俊賢は「帝のご所望だと妹明子が申しておりました」と説明します。左大臣家に波風が立つようなことを帝が所望したことは興味深いですが、意図的なものか、偶発的な思いつきかはわかりません。ただ、定子の死に気もそぞろな帝が果たして、道長へ意趣返しや牽制をする余裕は無いように思われます。また二人のどちらが上手であるかも知らないでしょう。道長は帝の気紛れに、姉の祝いが華やげばよいと応じたのではないかと思われます。

 まあ、帝の所望で巌君が舞うことを、明子が俊賢に嬉々として語ったことは容易に想像されますね(苦笑)高松殿で道長が倒れ、倫子が駆けつけた際のやり取り。倫子が比較的大人の対応をしたものの、明子は一方的にそれを屈辱と感じ、対抗意識を露わにしていましたから。童舞は倫子への意趣返しのまたとない機会と思ったのではないでしょうか。
 ですから、公任が「それにしても…妻を二人同席させるのはないな」と漏らすのは言い得て妙です。二人の子が舞うならば、その母たちがそれを見たくなるのは道理ですが、比較されるのは必定でどちらかが面目を失う可能性があります。土御門殿でのイベントということで明子を招かない判断があってもよいでしょう。二人の妻たちの内心の諍い、あるいは面目を意識していない道長は、無神経と言えますね。

 おそらく、倫子は、帝の所望ということで受け入れたものの、こうした道長の対応を快く思っていないと思われます。倒れた道長を見舞うために高松殿に行ったことで、明子との間に無用の軋轢が生まれたことは倫子も感じたでしょう。気丈に振る舞った彼女自身も内心は傷つくところがあったはず。そこに、道長はまた角が立つようなことを持ち込んで来たのです。心中は穏やかではないでしょう。

 まずは田鶴の陵王(蘭陵王)の舞から始まります。幼いながらも頑張る我が子に道長は、そっと「見事なものだな」と囁きます。夫婦らしいやり取りを期待しての道長の言葉でしたが、倫子はちらと道長を見たもののすぐに田鶴へと視線を戻し、返答しません。結果として、ほぼ無視された形の道長は、気持ちの置き場がなく、居心地の悪そうな表情をするしかありません。

 倫子には道長の言葉を軽く受け流す余裕がないようです。それは彰子絡みの小さな諍いが積み重なった不信感がまずあるでしょう。また、道長は田鶴を誉めましたが、道長は日常、田鶴が舞を披露しようとするのを仕事を理由に「また今度」と見ようとしませんでした。息子を顧みてこなかった道長が今さら誉めるのは、おためごかしに映ったかもしれません。
 今、道長に応じれば、そうした苛つきの蓄積が言葉に滲んでしまいます。祝いの場でそれはできませんから、無視を決め込んだのではないでしょうか。気を紛らすやり方が、息子の舞を心配そうに眺めるというのが倫子らしいですね。夫とすれ違うなか、彼女にとって子どもらが寄す処なのでしょう。

 続く、明子の長男、巌君は納蘇利(なそり)を、田鶴を上回る技量で鮮やかに舞ってみせます。その出来に明子は目を細め、満足げです。こういう訓練の結果を見せるという場においては、自由に育てる倫子の教育方針よりは、明子のようにみっちりと仕込む管理教育のほうが成果が出ますね。ただ、明子のそれは子どものため以上に彼女の嫡妻への対抗心や自尊心に比重があることは、前回のnote記事で触れたとおりです。
 巌君の舞に帝は目を奪われ、詮子と顔を見合わせるほど。実資や道綱といった招待された貴族も誉めそやします。因みに道綱は幼い頃、同じ納蘇利を舞い、帝から御衣を賜るほど誉められています。「蜻蛉日記」には道綱の頑張りに、兼家と寧子が一喜一憂する姿が描かれています。そんな道綱が、さすがは道長の子と誉めているのです。


 我が子が衆目の感心と関心を集めたことは、自分が道長の名を高めたことと同じです。自分と倫子、妻としてどちらが役割を果たしたか。それを思ったのでしょう。勝利を確信した明子は、倫子を見やると余裕の笑みで会釈します。聡明な倫子は、そうした明子の勝ち誇るような意図は察したでしょうが、穏やかな笑みで社交辞令の会釈をして返します。あくまで嫡妻としての振る舞いを守るのですね。
 その動じもしない様が面白くない倫子は、視線を外すと真顔になります。何も立場が変わらないことを察したのでしょう。対する倫子はポーカーフェイスの笑顔のまま。心中は穏やかではなくとも自制心で対処しているのかもしれません。実際はストレスを抱えていると思われます。

 因みに二人は、帝や詮子、彰子、道長を挟み両脇に控えていますから、その距離は結構あるのですが、それでも二人の妻の目配せのみのやり取りは異様な緊迫感が漂います。二人に挟まれた道長が妻たちの諍いに気づきもせず呑気にしているのが、困ったものです。この無頓着に近々、バチが当たるように思われます。


 二人の妻の対決は一見、倫子優位に終わったように見えました。それを崩すことが起きます。巌君の舞に感心した帝が、右大臣に耳打ち。巌君の舞の師匠に従五位下の位を授けたのです。これが、興が乗った一条帝の気紛れであるのは、明子の驚きにも表れています。とはいえ、この実質的な舞比べに明確な決着をつけてくれたことは大きく、御寵恩に深々と一礼をしながらも明子は笑いが止まりません。

 不味かったのは、自分の舞の不出来が明白になってしまった田鶴です。この結末に泣き出してしまいました。身体を動かすことが好きな彼は、おそらくは自信満々に舞台に上がったことでしょう。しかし、結果は惨敗。初めての挫折に幼い心は折れてしまったのです。そのみっともない様をフフンと薄く笑う明子の様が1カット挿入されますが、その嘲りの色に倫子に勝った確信が見えますね。
 公衆の面前で泣き出す醜態を晒した田鶴。倫子は穏やかな声で囁き、宥めようとするのですが、そこを道長は「女院さまのめでたき場であるぞ!」と一喝します。我が子の醜態ゆえに、道長は殊更、大音声で叱りつけます。ここで、庇い、甘やかすことは、左大臣も息子には甘いとの要らぬ風評を呼び、威信を傷つけるからです。

 ただ、彼は本気で彼を叱りつけたいわけではありません。すぐに声のトーンを押さえ、つまり、穏やかに「泣くのを止めよ」と諭します。帝や詮子から叱責、あるいは後々、公卿らから後ろ指を指される、それらを封じるため、道長は率先して叱ったのです。つまり、彼なりの温情でもあったと言えるでしょう。だから、この後、道長は「せっかくの興に水を指してしまいました。お許しあれ」と、自分の非礼として田鶴をきちんと引き受け、場を収めているのですね。
 また、通説を見ていくと、もう既にこの時点で自分の後継者は倫子の長男と決めていたようです。それも考慮すると、ここでの叱責は跡取りなればこそ敢えて厳しく接したということも加わるでしょう。この程度のことで動揺しては務まりません。藤原氏長者として後継者に対する指導なのです。道長には様々な深慮があったのですね。


 しかし、この叱責にやや驚いた表情をしたのが倫子です。子どもをかわいく思い、心配する彼女の親心からすれば、公衆の面前で田鶴を叱りつけることは、彼に恥をかかせる冷酷さと映ったと思われます。道長の深慮が見えないのは、彼女が家政の立場にあり、道長が政の立場にあるからでしょう。
 夫の仕打ちは、彰子に手を打たない様子と重なり、道長の無情に見えたことでしょう。そして、それは彼らを手塩にかけ、子どもを思う倫子の親心を踏みにじるものにもなると思われます。倫子の目にわずかに非難の色が宿るように見えるのは気のせいでしょうか。この一件で、彰子ら子どもたちを守ることへの倫子の固執はかえって加速しそうです。夫は当てにならず、また自分の親心を理解しないからです。

 このように、詮子が倒れ、その印象が強く残るこの場面。実は、倫子は夫を非情と無理解に傷つき、明子は我が子こそ後継者に相応しいと自信を深めるという、妻たちの誤解、道長との溝が深まったことを象徴する場面ともなっています。このことは、今後、道長に暗い陰をもたらすのではないでしょうか。
 まあ、妻たちを都合よく扱ってきた道長ですから、因果応報と言えなくもありませんが。



3.息子を守るため~烈女を貫いた詮子~

(1)敦康親王を人質にする決断

 1001年を迎えて以降、体調が芳しくない詮子は病臥していますが、その身体を押して「話があるの…」と呼び出します。にもかかわらず、咳き込み、道長に背をさすってもらわねばならないほどの状態。道長は、彼女の体調を最優先にしようとしますが、それを制して「敦康親王を人質にしなさい」と単刀直入に切り出します。
 この期に及んでも、彼女の頭にあるのは、政の行く末です。史実では、定子の遺児の養育は、本作には未登場、おそらく今後も出ないだろう定子の妹、御匣殿(みくしげどの)があたったと言われます(この妹は定子の面影を追う帝の寵愛を受けます)。が、彼女の本作への登場如何にかかわらず、敦康は、生母も後見人もないまま、政治的に中途半端な状態です。

 というのも、東宮の居貞親王には既に三人の皇子がおり、居貞親王は我が子を次代の東宮とすることを願っているからです。後見のいない敦康の立場は微妙とならざるを得ません。したがって、詮子としては、円融帝の血統による皇位継承の維持のため、一条帝の唯一の男児、敦康を保護しなければなりません。何と言っても、敦康は詮子の孫なのです。可愛くないわけがないのです。

 一方、道長にしても中宮彰子に懐妊の兆しはまったくありません。彼の権力基盤を安定させるための入内も、その効果は限定的と言えます。彰子が皇子を産まない以上、現状、敦康を手元に置いておくことが、彼の権勢の維持には重要です。東宮始めとする各方面の野心家たちの策謀を事前に封じることになり、また、定子を失い厭世的な帝を叱咤する牽制にもなるでしょう。詮子は、自分が信頼する道長に敦康を託すことで後顧の憂いを無くしたいのですね。

 人質というあからさまな文言に驚く道長に「定子の忘れ形見、敦康親王を彰子に養育させるのよ」と、具体的な内容まで指示します。「人質として…でございますか」と確認するように聞き返す道長には逡巡の色が窺えます。詮子は、事もなげに「昔、父上が懐仁(一条帝)を東三条殿に人質に取ると仰せになったの」と昔話をすると「此度もそれね」自嘲するように言います。

 かつて、兼家が、孫を東三条殿に引き取ったのは、円融院との駆け引きのため、つまりは我が「家」の権勢のために孫を道具としたということです。一方、詮子は、その逆で孫を守るために人質という手段を使う。つまり、権勢のほうが道具となっています。真逆です。
 しかし、詮子は最早、よくわかっています。孫と権勢、どちらが主であり、従であろうと、やることは所詮、同じだということを。それを突きつけたのが、帝の「朕も母上の操り人形」発言です。彼女は、守ってきたはずの当の息子に人生を全否定されたのです。その衝撃はいかばかりか…

 かつて、父のやり方に自分の思いを踏みにじられた詮子は、息子を守るため、その父から遠ざかり独立を目指したものです。残念ながら老獪な父には敵いませんでしたが。しかし、兼家の子どもらの中で、誰よりも彼の政治的資質を受け継いだのは、詮子でした。彼女は、自分自身が父によく似ていることを知りながら、人を懐柔し、恫喝し、汚い手段を取ることも厭わず、清濁を併せて吞み、息子を守り、権勢を目指しました。
 にもかかわらず、それは「私は父に裏切られ、帝の寵愛を失い、息子を中宮に奪われ、兄上に内裏を追われ、失い尽くしながら生きてきた」(第26回)という虚しいものでした。その上、息子である一条帝の心すら見失ってしまいました。それでも、彼女は、それ以外に一条帝を守る術がなかったのでしょう。

 彼女には、最早、生き方を変える力はありません。変えるには手を汚し過ぎましたし、重病にある彼女にはおそらく時間がないからです。そして、それは息子との拗れてしまった信頼関係を完全には取り戻せないことを意味します。その上でなお、彼女は息子と孫を守るために、最後まで権謀術数に生きることを決意しているのですね。嫌っていた父と同じ人間になってしまったこと、息子の理解すら得られないのにその道を貫く虚しさ…それらが自嘲気味の口調にはあるのではないでしょうか。
 それだけに、兼家の手段と同じと聞いた道長が、いつもの清廉潔白さゆえに「父上と同じことはしたくありませぬ」と拒否するのが、歯がゆいのです。思わず、彼女は「お前はもう父上を超えているのよ!」と激高し、道長を叱咤すると、そのせいでまたもや咳き込み、体調を崩してしまいます。

 詮子の言う通りです。兼家の直系であった中関白家を結果的に排し、父をも思いつかなった一帝二后をなすことで、これまで以上の盤石の政権を築きつつある道長です。既に娘を供物に捧げた彼に後戻りは許されない。この先は、誰も見たことのない景色。彼は、それを独りで切り開く強さが求められているのですね。詮子と、おそらく晴明だけが、それをわかっています。

 姉の強い叱咤と願い、そして、その理屈が正しいゆえに、結局、道長は、敦康親王を彰子に養育させることを進言します(史実では、ここでも行成が活躍しています)。定子を失い、すっかり気力が萎えている帝は「定子はどう思うであろうな」と、政や親王の危うい政治的な立場よりも亡くなった定子のことばかりです。道長は「敦康親王様がお健やかであれば、亡き皇后、定子さまのご鎮魂にもなります」と答えます。

 これを聞けば、帝も彰子に親王を託すことを許さざるを得ません。道長が、なかなかに狡猾なのは最後に「これからはお好きなときに親王さまにお会いになれます」と添えたところですね。定子を失った哀しみから覚めやらず、なすがままの帝にどれほどの効果があるかはわかりませんが、親王と自由に会えるという利点を示すと同時に、親王に会うことを口実に彰子の元へ渡ることを促しているのですね。

 詮子の目論見には、一条帝を彰子の元へ渡らせ参らせるところまで計算が行き届いており、道長はそれを正確に理解し、進言しているのでしょう。道長は、本人の気持ちとは裏腹に、やろうと思えば、こうした謀を事もなげにできてしまうようになっています。詮子の見立ては正しいのですね。


(2)母として、国母としての愛し方

 さて、詮子が、政に心を砕く烈女の生き方を、哀しいまでに貫くことは、その最期にも見て取れます。道長主催の「四十の賀」で久々に帝と対面した詮子。帝が詮子に厳しい言葉を投げつけたときから、そして、定子を失ってしばらく経って後に行われたこともあり、その挨拶は穏やかなものでした。肝心の儀式においても、巌君が舞う納蘇利が見事さに、帝と詮子は顔を見合わせるといった様子もあり、めでたい今日という日だけはかつてのごとく良好です。詮子にも久々の笑顔が見えます。

 しかし、宴に移ろうというそのとき、突如、詮子は折からの病か、それとも伊周の呪詛か、胸を抑え、うめき声をあげると倒れ伏してしまいます。帝と道長が駆け寄るなか、詮子は「お上、私に触れてはなりませんぬ」と帝が近寄ることを制します。そして「病に倒れたものに触れ、穢れともなれば政は滞りましょう」と、あくまで帝とは政の頂点として万民をあまねく照らす光であると説きます。凡百の母子の関係は許されないのです。

 「されど…」となおも近づこうとする帝の様には、母を慕う思いと甘えがあります。その思いは、息子に全否定され拒絶されたと思っていた詮子には嬉しく思う気持ちもあったでしょう。しかし、彼女は、心を鬼にして「あなた様は帝でございますぞ!」と再度、彼を退けます。いつまでも皇后の死に囚われる息子への最後の叱咤です。

 彼女は、母子の情愛を諦め、「手塩にかけてお育てしたお上」をそれに相応しい存在にすることを選びます。それこそが、彼女が信じ、ずっと続けてきた息子の命を守り、生かすことだったからです。母として、国母として、女院として、帝としてどうあるべきかを示すのです。その鬼気迫る覚悟に帝は、愕然としたまま、手を出すことができません。詮子は、弟道長に抱きかかえられながら、その場を去り、そして、これが一条帝と詮子の母子の今生の別れとなります。

 さて、屋敷内では薬師が薬湯を用意しますが、詮子は「薬は要らぬ…」と拒絶します。道長は薬師を下がらせると、自ら手に取り「姉上、どうか…どうかお飲みくださいませ」と勧めますが、それでも彼女は「私は…薬は飲まないの」と頑なです。通説では、道長が薬を勧めることに対して「徳の高い僧侶に祈祷させている。それで治らないなら仕方ない」と言ったとされ、彼女の信心深さとされています。

 しかし、本作では、薬を飲まないことは、信仰心に由来していません。彼女は、兼家らが退位を迫るために死なない程度に毒を盛り、その権勢欲の恐ろしさを目の当たりにしました。毒と薬は表裏一体です。にもかかわらず、兼家は怒り狂う詮子に気鬱の病だろうから薬師を遣わすと誤魔化そうとしました。
 これが、この恐ろしい実家から、飽くなき権勢欲から息子を守ると決意したきっかけでした。そのとき、兼家らに言い放ったのが「私が懐仁を守る」「薬など生涯飲まぬ!」(第4回)です。第4回でも触れたように、この台詞は、実家への強い不信と怨嗟と決別の言葉でした。

 ここに彼女の政の原点(オリジン)があります。それは、息子への愛情です。臨終を迎えようとするそのときに再び、その原点に戻ってくるところが因果ですね。その初心は変わっていません。ですから、彼女は息も絶え絶えになりながら、道長に「これ…ちか…の…位を…元に戻して…おくれ」と伊周の復位を頼みます。道長は、あれほど中関白家を敵視していた姉の言葉にやや驚いた表情になります。

 彼女は、専横を極める中関白家を、謀をもって排除しようとしました。そのこと自体は、死活問題でしたし、帝を守るために必要と信じていましたから後悔はないでしょう。一方、伊周の呪詛に感づいたということも考えにくい。ただ、自分のしでかしたことの反動として、伊周が最も強く政敵である自分たちを恨んでいることは検討がつくということではないでしょうか。

 そして、その恨みが、何らかの形で帝や孫の将来、そして彼らと共にある道長の政に影を落とすことは、可能な限り避けておきたい。帝に理解されずとも、それが彼女なりの親心であり、罪滅ぼしなのでしょう。そこには必要だったとはいえ、定子を遠ざけ帝を傷つけたことへの詫びも少なからずあるかもしれませんね。
 ともあれ、詮子は「は…は…」と最後の力を振り絞り「帝と…敦康のために、伊周の怨念を…収め…たい」と涙を一筋流すと「お願い。道長…」と彼女が唯一、信頼できる弟にすべてを託し、こと切れます。


 詮子は、円融院から、あるいは実家から傷つけられ、苦しめられたことで、息子とその血統を守ることに血道を開けてきました。それが、彼女にとっての叶わぬ円融院への愛情と息子へ想いを示す唯一のあり方と信じてきたのです。結局、それは自ら、最も愛する息子を自身より遠ざけるという哀しい道でした。臨終において、彼女の傍にいたのは、彼女が唯一信頼し、かわいがり、政を託した弟だけでした。

 その寂しさを押してなお、彼女は息子と孫の愛のため、政の人であることを貫き、結果的に道長を呪詛する伊周の怨念を引き受け、自身の人生の寂しさと哀しさを一筋の涙として流し逝きました。肝心の帝に理解されず、その愛情と信頼を諦めることになっても、彼女は最後まで、息子の将来を気にかけていました。その思いが、帝に伝わることがないままであるのが哀しいですね。
 そして、その恨みを解消すべく詮子の意向で位を戻された伊周が混乱の原因となっていくことも皮肉も待っています。いつか、詮子の想いが、劇中で報われるときが来てほしいものですね。


4.歪んでいく「枕草子」

(1)まひろとききょう、書き手としての分水嶺

 ある日、まひろのもとへききょう(清少納言)がやってきます。多少やつれが見えるのは、定子を失った哀しみを抱えているからでしょう。「脩子さまや媄子(よしこ)さまのお世話をして過ごしておりました」と定子崩御以降の暮らしぶりについて話したききょうは、「そして…これを書いておりました」とまひろに書き溜めた「枕草子」を手渡します。
 通説では「枕草子」は定子が亡くなった直後にはほぼ完成したと言われています。その後、10年ほど加筆修正をしたとされ、そのため4種ある「枕草子」の伝本には大きな違いがあります。つまり、まひろに手渡したものは、もっとも最初期の「枕草子」となるのでしょう。

 ききょうは「お美しく、聡明で、きらきらと輝いておられた皇后さまとこの世のものとも思えぬほど華やかだった後宮のご様子が…後の世まで語り継がれるよう、私が書き残しておこうと思いましたの」と、定子との日々を思い返すように「枕草子」を綴った思いを語ります。この草子の始まりは、定子を慰めるためでした。それはいつしか、定子と清少納言との無二の絆の証となっていきました。
 そして、定子亡き今、後世に定子の輝かしい様を遺すためという目的がさらに転じたとうのです。このことは、定子を失った哀しさを「枕草子」を綴ることで、何とか耐えてきたという彼女の今を窺わせますね。

 まひろは、ききょうの定子とかの日への憧憬が、その文才によって豊かに描き出された「枕草子」をまひろを楽しそうに読み進めます。「まひろさまに「四季折々のことを書いて皇后さまをお慰めしたら」と勧められて書き始めた草子ですので、此度もまず、まひろさまにお読みいただきたいと思いましたの」と笑顔で語ります。
 そう、今、この草子を読むべき一番の人は永遠に失われてしまいました。この草子の原点にかかわり、ききょうと機知に富んだ会話のできる数少ない存在のまひろに読んでもらいたいと思うのは自然なことでしょう。まひろがききょうの思いをもっとも理解してくれるとの期待もあっただろうと思われます。

 まひろは「生き生きと弾むようなお書きぶりですわ」と嬉しそうに誉めそやすと「ただ…私は皇后さまの陰も知りたいと思います」と率直な感想を述べます。偉そうな助言をしたかったわけではないでしょう。ききょうの書きぶりが素晴らしいため、「もっと定子を知りたい」と好奇心が刺激されたのでしょう。つまり、正しく「枕草子」を堪能したから、欲が湧いたのですね。まして、まひろは、定子が激情の余り、落飾の瞬間を見てしまっています。あのとき、何をお思いになったのか、そうしたことを知りたくなるのは仕方ないでしょう。
 まひろは「人には光もあれば影もあります。人とはそういう生き物なのです。そして複雑であればあるほど魅力があるのです」と持論を続けると「そういう皇后さまのお人となりをお書きに…」と言いかけますが、「皇后さまに影などございません!」と険しい表情になったききょうはまひろに厳しい否定の言葉で次を言わせません。

 思わぬききょうのきつい反論に呆気に取られるまひろの横顔アップが印象的ですね。まひろの知るききょうは、我が道を行く奔放さゆえの鷹揚さと人を食った余裕のある人でした。その印象が強かったまひろは、昔のようにただ本音を語ってしまったのです。しかし、しばらく会わないうちにききょうは変わっていました。その強く攻撃的な物言いには、かつての泰然自若とした余裕が失われていました。そして、まひろはようやく、定子を失ったききょうの哀しみの大きさに気づいたのでしょう。

 強い語調で返してしまったききょうは、少し声のトーンを落としたものの「あったとしても、書く気はございません。華やかなお姿だけを人々の心に残したいのです」ときっぱりと言ってのけます。ききょうが「華やかなお姿だけを人々の心に残したい」と願うのは、彼女の短い半生が決して幸福なものではなかったからです。
 すべてを兼ね備えた定子は本来、祝福されるべき人でした。しかし、権力闘争のなかで実家の男たちから「皇子を産め」とのハラスメントを受け、父母は亡くなり、政争に敗れた兄弟は遠ざけられ一家離散、後ろ盾を失った定子は、その後も政に翻弄され、周りからの厳しい非難を耐え、苦しい生活を余儀なくされました。

 そのような浮草のごとき不安と苦労を、ききょうは定子の傍で実感し、共に過ごしてきたのです。だからこそ、せめて彼女の素晴らしさだけを封じ込めて、草子の中だけでも幸せでいただく。それを鎮魂としたい。それゆえに、皇后の苦しみも哀しみもまったく知りもしないまひろに、「枕草子」のありようをとやかく言われたくはないというのが、ききょうの本音でしょう。

 その言葉に並々ならぬ決意とその背景を察したまひろは、おとなしく「そうでございましたか。これはご無礼いたしました」と謝罪し、意見を引き下げます。このやり取りについて、まひろの持論は正しくとも、空気が読めていないと批判したくなる人もいるでしょう。しかし、それは、ききょうと同じく、定子の哀れな最期にのみ引きずられ過ぎてしまっているかもしれません。
 たしかにききょうの逆鱗に触れてしまったまひろは、不用意でした。だから、まひろはききょうの哀しみを察し、謝罪したのです。しかし、ききょうもまた、何故、まひろが「人には光と影があり、その複雑さこそが人の魅力だ」と語ったのか、その理由をわかってはいないのです。まひろが語った理屈は、頭の中でこさえたもの、あるいは学問から学んだ知識ではなく、彼女の半生、経験からのものです。


 例えば、ききょうが登華殿で香炉峰の雪だとその雅を興じていたとき、都は疫病が猛威を振るっていました。まひろは、疫病のなか、死に逝く子どもらを助けられない無力に苛まれながら、自身も罹患し九死に一生を得ました。また、職御曹司で公任の龍笛に耽溺していたとき、都は大水で大損害を受け、多くの死者が出ました。このときもまひろは、災害にあった身寄りのない子どもらに握り飯を振る舞い、なんとかしたいと出来ることをしてきました。
 つまり、まひろは、ききょうが描き出す「この世のものとも思えぬほど華やかだった後宮のご様子」の裏側の世界を生きてきました。貧しい民たちの苦しみと哀しみ、それでも生きていこうとする逞しさ、浅ましさ。それを見聞きし、自身も実感、体感し、貧窮に耐えて生活をしてきました。それをわずかでもききょうは察したでしょうか。

 また、恋愛と結婚もまひろにとっては容易なことではありませんでした。道長との悲恋は言うに及ばず、宣孝との結婚を幸せと実感するなかで清濁併せ吞むことを知りました。生きることは綺麗事ではない。それを理解した先に、宣孝と賢子との幸せがあるのです。これまた、自分のやりたいことのために、夫と子を捨てたききょうには、実感し難い真実でしょう(史実では再婚して娘がいますが、本作では描かれていないのでしていないとします)。つまり、まひろがききょうが無理解であったように、ききょうもまたまひろの半生に思いを馳せることがまったくできません。お互い様なのです。
 これは、どちらが悪い、どちらが正しいということではありません。ただ、あまりにも違う世界で生きてきた二人は、立ち位置も物事に向ける眼差し、感じ方が、もしかすると交われないほどに違ってしまっているということなのです。

 そして、それはまひろとききょう、二人の作家性の分水嶺になるように思われます。美しいものをひたすら美しく残そうとするききょうは、作為によって真実の一面を敢えて見せないノンフィクションを選び、情緒豊かな世界観を構築します。悲哀はそれを知る人だけが行間から感じ取ればよいのです。
 一方、まひろは人間の複雑な心情のあり様に関心があるようです。それは目に見えるものでもなく、事実を並べるだけでは描くのは困難でしょう。そうなると、彼女は「物語」というフィクションを選ぶことになるのでしょう。「物語」とは事柄を因果関係で結んだものですが、その醍醐味の一つは、その表現技法によって「真実」に光を当てる、あるいは炙り出すところにあるからです。どちらに優劣があるわけではありません。


 話を戻しましょう。まひろが察したききょうの変化は、「華やかなお姿だけを人々の心に残したいのです」と述べた直後、うつむき加減で述べた「皇后さまのお命を奪った左大臣にも一矢報いてやろうという思いもございます」という恨みが滲んだ攻撃的な言葉に顕著に表れます。物騒な物言いに「左大臣さまがお命を奪ったとは?」と思わず聞き返すまひろ。
 ききょうは「左大臣は競いあっておられた皇后さまのご兄弟を遠くへ追いやり、皇后さまが出家なさったのを口実に帝から引き離し、己の幼い娘を入内させ、中宮の座につけました。帝にさえ有無を言わせぬ強引な遣り口と嫌がらせに、皇后さまは御心もお身体も弱ってしまわれたのです」と一気に語ります。

 興味深いのは、ききょうの一連の流れは、長徳の変から彰子入内までのくだりにおける教科書的な日本史の書き方と大まかなところで同じということです。つまり、道長に批判的な人々からは、このように見えているということを意味しています。勿論、「光る君へ」におけるこの理解は、半分ほど誤っています。
 まず「競いあって」はいませんね(笑)道長は出世には拘りはなく、詮子が主導して内覧に棚ボタ的に就いただけです。それを勝手に道長主導と考え、ライバル視していたのは伊周のほうです。また「ご兄弟を遠くへ追いやった」のは帝です。その判断に道長は関係していません。寧ろ、もっと重罪に処されるところを定子と帝を合わせることで軽減させるよう働きかけた結果です。道長は、これを自分の公明正大の政の負の結果と引き受けてはいますが恨まれる筋合いはありません。

 また「皇后さまが出家なさったのを口実に帝から引き離し」は、元々、定子を宮中から遠ざけたのは帝で怒りのあまり取りつくしまもありませんでした。そして、その後、なかなか逢えなくなったのは、内裏の先例と法であり、道長だけではなく公卿全体の総意によるものでした。そして結局、職御曹司で逢えるようにしたのは詮子の命を受けた道長の手によるものです。
 もっとも、「己の幼い娘を入内させ、中宮の座につけました。帝にさえ有無を言わせぬ強引な遣り口」だけは、いかな正当な理由があっても弁解できませんが。ともあれ、ききょうは、自分の知らないことも含めた様々なことを、定子と共に過ごした苦難を悲劇とするように組み合わせて、まひろに語っていることが窺えます。

 そして、ききょうの知り得ない部分を、道長に批判的に紡ぐことができるのは、伊周だけです。つまり、ききょうの弁は、伊周の受け売りに取り込まれた結果だと思われます。前回、noteにて、ききょうの傷心と心にできた隙間に、伊周が逆恨みに凝り固まった讒言を吹き込む可能性を指摘しましたが、恐れていたとおりになってしまいましたね。

 まひろは道長がそんなことをする人物ではないことを知っていますが、自分との関係を話すわけにもいかず、「我が夫は、左大臣さまに取り立てていただいて感謝しておりましたけれど」とささやかに反論しますが、定子を失った哀しみを道長への恨みへと転じているききょうは「まひろさまも騙されてはなりませんよ。左大臣は恐ろしき人にございます」と逆に真剣に彼女を案じて諭します。

 現時点ではききょうの言葉は濡れ衣です。ただ「左大臣は恐ろしき人にございます」との言葉は、まひろが紫式部として入内して後、政の一端に関わるようになったとき、実感することになることかもしれませんね。


(2)伊周の怨念に絡めとられた清少納言の想い

 ところで、ききょう…清少納言に讒言を吹き込んだ、当の伊周は、道長への復讐だけを胸に秘め、日々を過ごしているようです。伊周は屋敷にて、嫡男の松に舞踊を仕込んでいます。嫡妻の幾子がその様子を心配そうに眺めている時点で、普段から伊周がどう指導していることが察せられます。案の定、松の拙い舞に短気を起こした伊周は「松!これは何のための稽古だ?」と、舞踊の技術でも心構えでもなく、教育全体の方針について問います。

 散々言い含められているのでしょう。松は怯えたように「お家を再興するためです」と答えると「我が家は藤原の筆頭に立つべき家なのだ」と中関白家のかつての栄華への激しい執着を口にすると、「そのつもりでもう一度やってみよ」と冷たく言い放ちますが、父の高圧的な物言いにすっかり萎縮してしまった松は、動くことができません。

 情けない息子に、扇をバンッと板敷に打ち付けると「やってみろっ!」と激高し始めます。見かねた幾子が、息子を庇うのは当然でしょう。彼女は息子を抱きかかえると、その場を去ります。思うようにならぬことに、伊周は腕を組み悶々となっていますが、子どもは一朝一夕で育つものではありません。焦りは、単に自分を満足させたいことの裏返しです。
 無論、彼の指導は教育でも、躾でもなく、ハラスメント、DV、体罰に類するものです。しかも、そこにあるのは自分の執着と野心だけです。彼にとって息子は、我が「家」の繁栄の道具でしかありません。彼の変わらぬ自己中心的な性格が窺えますね。

 因みにこの嫡男、松は、後の藤原道雅ですが、彼は皇女を殺させる、賭場で暴れる、数々の暴力沙汰を起こすと乱行の絶えなかった人物で「悪三位」などと呼ばれました。幼少期の伊周の家庭内暴力が影響したということになるのかもしれません。息子の将来すらダメにするとは最低に磨きがかかっていく伊周です(苦笑)

 復讐心にイラつく伊周のもとにふらりと現れたのは、弟の隆家です。彼は定子の臨終の場での兄の復讐の決意に呆れた様子でしたから「兄上の気持ちもわかるが、左大臣の権勢はもはや揺るがぬぞ」と諦めるよう忠告しますが、「揺るがせてみせる」と伊周は根拠のない言葉を返すだけで聞く耳を持ちません。

 向こう見ずも大概な兄に、隆家は「内裏に官職を得るまではとりあえずひっそりしているほうが利口だと思うがな」とせめて焦るな、冷静になれと実に真っ当な助言をします。隆家の言葉は、生前の定子の「あまりお急ぎにならないで…」という懇願にも準ずるものです。道長への逆恨みに取り憑かれている伊周よりも、よほど定子の思いを汲んでいると言えるでしょう。

 すると、伊周は「なぜ、こんなことになったのだ?」と切り出すと「お前が院に矢を放ったからであろう」と、現在の境遇にしたのはお前のせいだとあからさまなことを言い出します。相変わらず、反論されることが嫌いな伊周は、耳に痛い話は聞こうとしません。
 過去にこだわらず、今を生きることを優先する隆家は、今更、それを言い出す兄に「そこに戻る?」と、多少困ったようにしながらも呆れて返します。伊周は「お前に説教される謂れはないということだ」と傲岸に言い放ちますが…いやいや、現在の境遇の原因は「そこに戻る?」の「そこ」より前です。

 何故、隆家が矢を放つに至ったのか。それは、そもそも、伊周が、出世が上手くいかない慰めを三の君、光子に求めた挙げ句、彼女にフラれたと勝手に勘違い。それをウジウジと隆家に愚痴った結果、兄貴のために憂さ晴らしをしてやろうという話になったのです。現場では伊周はやっていいのかどうか、オロオロしてはいましたが、事の発端でありながら、情けない彼は弟を止めることもできませんでした。これが、劇中の真実ですね。
 いやはや、自分の自尊心を守るための、記憶の改竄と責任転嫁…伊周の自己中心的な性格と自己保身は直りそうにありません。

 けんもほろろな対応に忠告を諦めた隆家は「清少納言が来ているぞ、兄上に頼みがあるそうだ」と本題に入ります。先ほどまで悪口雑言をまき散らしていた伊周ですが、利用価値のありそうな清少納言(ききょう)の来訪には、貴公子然として振る舞おうと、すっと整えます。彼はこうした芝居がかった対応は得意とするところです(傲慢さは隠し切れませんが)。
 やってきた少納言に「定子さまが世話になったのに何もやれずにすまぬと思っておった」と、鷹揚に、さも心からというような詫びを言います。嘘ではないでしょうが、復讐心に凝り固まる彼にその余裕がないというのが本当のところでしょう。兄の言葉に隆家が白々しい表情をしていることがそれを物語っています。

 少納言は社交辞令に礼を述べると「里に帰って、これを書いておりました。あの楽しく華やかであった皇后さまのご在所の様子を書き連ねたものにございます」と書き上げた「枕草子」を献上します。そして、「皇后さまの素晴らしさが、皆の心のうちに末長く留まるようにこれを宮中にお広めいただきたく存じます」とその願いを語ります。かつて、定子のためだけに書いたそれを頒布されることに強い抵抗感を示した少納言が変わったものと感じるかもしれません。しかし、ここに献じられたものは、かつて、定子の御簾に差し伸べられたものとは質を異にします。

 伊周の「これは新しきものか?」との問いに「左様にございます」と答えたことからも、新しく、目的をもって綴られたもの。つまり、定子のために書かれながら、定子のためではない代物です。自分の哀しみを慰め、耐え忍ぶために書かれたそれには、少納言の無念も強く織り込まれたものなのです。己が願いを叶えるためですから、政治的に頒布されることを敢えて望めるのです。おそらく、最初に書き上げたときよりも文体が変わっているかもしれませんね。

 そして、少納言(ききょう)の頒布してほしいとの言葉からは、彼女の執念が何かが察せられますね。平たく言えば、今なお、少納言は、定子の死を諦めることができないのです。正確には、その死によって、定子が、帝から内裏から忘れ去られることが耐え難い…いや、許せないのですね。定子の哀しみを忘れ、皆が楽しく生きていくなどあってはならない。
 寧ろ、少納言にとって定子は人々のなかに永遠に記憶され、内裏に美しさの象徴として鎮座しているべきものと信じているようにすら思われます。「枕草子」は、それを実現するアイテムなのです。死してなお内裏に美しく残る定子の記憶、それは少納言にとって美しい幻想なのでしょう。

 そして、「枕草子」が成した定子に関する記憶と存在感が、定子と登華殿サロンよりも地味くさいように見える道長政権と彰子たちに爪痕としてじわじわとダメージを与えていく。人々の心が、道長から離れていくことを夢想しているかもしれません。それこそが、定子の無念を晴らし、道長に一矢報いることだと少納言は信じているのでしょう。

 こうした少納言の恨みの宿った提案は、隆家には事態をややこしくさせるだけにしか見えません。ですから、「我らも日陰の身であるからのう」と自虐をもって、やんわりと否定的な反応を示します。しかし。道長への復讐心と中関白家の復権に執着に凝り固まっている伊周には、少納言の定子を忘れさせないという強い執念は、投下された強力な燃料です。「私が何とかいたそう」と承諾します。
 もっとも、その「何とかする」が、八剱の呪文による呪詛というのが、今の伊周の人なりであり、限界とも言えます。過去に固執する彼は、昔以上に偏屈で、後ろ向きな人間になってしまったのです。

 とはいえ、詮子が亡くなり道長の後ろ盾が消えたこと、同時に自分の復位が叶ったことで、自身の呪詛の成功を確信したことでしょう。しかし、実際は以前より病にあった詮子の死ぬ間際の願いという温情によって復位したのであって、彼の力ではありません。また、隆家が「左大臣の権勢はもはや揺るがぬぞ」と言ったように、道長の権勢は最早、詮子の後ろ盾を必要としていません。彼は既に兼家すら超えているのですから。ただ、詮子が息子と孫のために伊周に与えた温情が、伊周に運をもたらし、道長に試練を与えることになります。

 それが、甚だしい勘違いのもと、一条帝に拝謁した伊周が「かの清少納言が皇后・定子様との思い出をさまざま記したものにございます。どうぞおそばにお置きくださいませ」と差し出した草子です。過去に囚われた少納言の綴った草子が、同じく過去に執着する伊周によって、未だ定子とその思い出に耽溺するだけの帝に献じられました。三者の過去への思いは、綺麗に響き合います。美しく装丁された「枕草子」を、定子自身を抱きしめるように押し抱き、微笑む帝。詮子の末期の願いとは裏腹に、帝はさらに暗愚の君へと堕ちていくようです。

 そして、ナレーションの言う通り「後世に「枕草子」と呼ばれるこの書物は道長を脅かすこと」となり、彼は「枕草子」を退ける力を求めざるを得なくなってきます。まひろの出仕は秒読み段階ですね。


おわりに

 人は、我が子に様々なものを投影しています。夢、期待、願いといったオーソドックスなものから、自分自身の野心、哀しみ、後悔といったネガティブなものまであります。大人たちの諦め得ぬ思いが、子どもたちを通して炙り出されたのが、第29回だったように思われます。詮子の思い、倫子の思い、明子の思い、母たちの想いは、怨念を燃やすものたちの思いとも折り重なって、道長たちの試練となっていきそうです。

 一方、もう一つ、明らかになってきたのは、まひろとききょうの立ち位置の違いでしょう。まず、ききょうは、定子の哀しい最期を引きずり、それを人々が忘れ去ることを許せないでいます。定子とその華やかな半生を彩ることに腐心しています。ただ、そこに彼女の怨念が混ざりつつあることだけが気掛かりです。そうなってしまったのは、彼女が定子が死んだという事実を受け入れられず、思い出という過去に生きているためだと思われます。

 人々の記憶に定子の美しさと在りし日の華やかさを少納言の美文で遺し、語り継ぐことは、素晴らしいことです。そのことは、今なお「枕草子」を愛する人々が証明しています。皆が、その哀しい運命も知りながら、思いを馳せています。しかし、今、少納言が伊周に頼み、目論んでいることは、亡くなることで多くのことから解放された彼女を苦しい現世に縛りつけるだけになっているように思われます。それが供養になるのでしょうか。永くずっと定子が内裏に記憶されること、それは定子の願いではなく、過去に囚われた少納言のエゴに過ぎないのかもしれません。

 対して、同じくかけがえのない伴侶を失ったまひろ。彼女もまた哀しみと痛みのなかにあります。しかし、彼女は襲い来る生活苦の問題もあり、賢子を育て、今を生き抜こうとします。そのためには、宣孝はもう死んでいないのだという事実を受け入れることから始めるしかありませんでした。無論、それは過去を捨てるということではありません。彼と賢子と三人で過ごした幸せな日々は、彼女の幸せの軸として、これからの生活を支えるはずです。また、道長との悲恋や縁もまた、今後、彼女の糧になっていくでしょう。
 
過去を無駄にせず、今を生きる。それが、彼女の立ち位置です。だからこそ、「人には光も影もある」ことも真っ直ぐ見つめ、受け入れられるのでしょう。この強さが、まだ本物であるかは定かではありません。しかし、第29回の最後、「物語」を書こうとしたことが、その強さが反映されるかもしれません。

 未だ過去に生きるききょうと今を生きたいまひろ。この立ち位置の差は、作家性にもかかわってくるでしょう。美しい過去に生きるききょうは、決して定子の影を書きません。しかし、「源氏物語」は、人々の暗い情念まで余すことなく描いています。
 おそらく、まひろは自分の人生は勿論、今まで出会った人々のこと、見聞きした人の話、それらすべてを材料にして「物語」を書いていくのだと思われます。つまり、材料は過去です。しかし、誰のために「物語」を書くのか、ここが大きなポイントです。今、まひろは娘が「竹取物語」に関心を抱くことから、「物語」を書き始めました。つまり、今を生きる人のために書くということになります。となると、材料となった人々の過去は、その喜怒哀楽のすべてが今を生きる人のために昇華していくことになるでしょう。

 また、もう一点、気になることがあります。第25回のnote記事にて、一条帝と定子の関係を「源氏物語」の桐壺帝と桐壺更衣と似ていること、まひろが二人の関係を知って書くのではないかという話をしました。もしも「人には光と影があり、その複雑さこそが人の魅力だ」との信念のもと、本当に二人のことを材にして書いたとしたら…
 これは「華やかなお姿だけを人々の心に残したい」と願うききょうの思いに反する行為になります。もしも、ききょうが「源氏物語」を読めば、そのことに気づくという展開になるはず…となると、まひろとききょうの決裂も、近いのかもしれません。やはり、「紫式部日記」に記された少納言への悪口は避けられないのでしょうか?


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