[短編小説] ひどいじゃないか!

 階段を上がる。心臓がドクンドクンと波打つ。この鼓動の原因は最近の運動不足と、もう一つ、スライムのようにべっとりと体にまとわりつく緊張感から。教室には知り合いは誰もいない。友達もいない。別に、行きたいとも思えない、が、私は大学を卒業しなければならない。レールから外れる恐怖が階段をまた一段上がらせる。
 ドアの前に立つ。スライド式のドア。金属の取っ手を握って左に引く。壁の隙間に扉が吸い込まれて、教室の様子が目に飛び込む。まばらに散った人は暗黙の了解のように1番前の席が空いている。それは他でもない私のための席。寄り添う集団もない、私のための席。
 リュックを下ろして席に座る。背後で楽しげな喋りごえが聞こえる。背中とシャツの間に乾いた汗が流れる。過去への悔やみ、友人への妬み、無遠慮な態度への怒り。全てが混ざり合って、塩と共に体から分泌される。時計を見る。授業まであと五分。私は腕を枕にして顔を伏せた。
 どっと笑い声が起きた。少人数の狭い教室で低い笑い声が響く。後ろの集団が私の背中を指さして笑う姿を想像する。見ろ!あいつを!誰とも話せずに、勉学に励むこともなく、享楽に溺れることもなく、女を持たず、雲に隠れ、過去に浸り、改変し、妄想に浸る、愚かな彼を!
 耳が熱い。血液が顔の端に寄って耳を赤く染め上げる。心臓の鼓動が耳に同期する。ドクンドクンと耳が脈打つ。私の心を埋め尽くしたのは、恥。血にも負けないほどの、真っ赤な恥。恥と血はお互いに混ざり合い、血をより赤く、恥をより深くした。
 恥と混ざった血は、やがて皮膚を裂いて外に流れ出た。二の腕を真っ赤に染め上げた血は、溢れて机の上に流れ出た。私は少し顔を上げてその様子を見た。赤色の占拠された視界、音の拾わない耳、血に覆われて触感が消えた手、鉄の匂いの充満する鼻。私は世界を知る術を失った。
 私は背後を振り返った。彼らは全く私を見ていなかった。私の両耳からは滝のように血が流れている。彼らは私を意に介することなく、他に共有することのできない身内の話に鼻を咲かせている。
 教室を見渡す。ここにいる誰も、私を見ていなかった。一度視線を私に向けた男がいたが、彼は首を振って辺りを見渡す人に対する迷惑そうな目を向けて、すぐに自身のスマホに目を落とした。彼の脳から私はすぐに消え去った。
 私は椅子から腰を浮かせ、靴と靴下を脱いで机の上に立ち、叫んだ。
 「ひどいじゃないか!あんまりじゃないか!ひどい、ひどいじゃないか!」
 彼らは会話を続け、男はスマホに目を俯かせ、太陽は南を目指し、地球は自転を続けた。私は、足元に注がれた血を見つめた。机の上にできた血溜まりは、私が溺れるには浅すぎた。
 

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