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『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』を読み、真の教養人となるためにx(旧Twitter)で和歌を詠む


1.古典は必要か?

『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』という新書を図書館で見つけたので読みました。著者は前田雅之さんという方で、明星大学で国文学を教えている大学教授のようです。

「古文・漢文なんて勉強する必要がない」「古典よりプログラミング教育や金融教育を行うべき」「古典なんて単なる暗記科目」などの言説が定期的に流布することから分かるように、基本的に現代日本人は立場や職種を問わず、古典をあまり重視していません。せいぜいサブカルチャー(漫画やアニメ)の題材として、「源氏物語」などを消費するぐらいでしょう。

右翼政治運動の道具としてすら使われることはありません。
(幸か不幸か、「教育勅語」が称揚されることはあっても、「伊勢物語」などが称揚されることはないようです。)

著者はこうした古典の不遇な状況を嘆き、「日本は幸か不幸か『古典』を有する国なのだから、その運命を受け入れて古典教育をしっかり行うべきだ」と主張します。

この本の結論自体はもっともな内容ではありましたが、僕にとっては正直特に啓発されるものではありませんでした。

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古典をしっかり学ぶことで日本人としてのアイデンティティをまずは学ぶべきだ。古典を学ばないと、伝統から断絶された「デラシネ〔根無し草〕」の状態に陥ってしまう。後々古典や伝統を否定するにしても、まずは古典を無条件で〔意味が分からなくてもいいから〕受容すべきなので、学校教育において古典は不可欠だ
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というような著者の主張は、ある意味でごもっともだとも思うのですが、ポストモダンの現代においてはこの主張は単なる「反動」扱いで「称揚」されるか「無視」されるかで終わりそうな気がします。

また、(著者の挙げている)日本の一級古典というのが「古今和歌集、伊勢物語、源氏物語、和漢朗詠集」といった平安時代の文学作品であることが、特に現代日本においてアクチュアリティを持って古典に向き合うことの困難の一因かもしれないなとも思いました。

他の文化圏の場合、一級古典は思想書や哲学書、宗教書であることが多く(『聖書』や『儒教経典』、プラトンの対話編など)、その場合は古典を倫理的な規範や指標として読むことができるので、現代においても「古典を読もう」というインセンティブが働きやすいと思います。文学作品の場合は(「サブカルチャーとして消費する」という以外には)なかなか「読もう」というインセンティブは働かないかもしれないです。

2.古典的公共圏の盛衰

この本の面白いところは、結論自体というより、日本における「古典的公共圏」の成立と展開について説明されている部分だと思います。

明治維新によって西洋の学問(近代知)が日本に大々的に導入され、古典的教養を始めとした既存の学知が蔑ろにされるのですが、それまで(江戸時代まで)は古典的教養(和歌の知識や技術)はその有無によって、公的空間(政治)への参入の可否にも影響を及ぼすとても重要な技術だったようです。

以下本書の面白かった箇所・議論を書いておきます。

古典が古典として扱われるようになる条件として、本書は「注釈書が書かれること」を挙げる。「伊勢物語」の注釈は鎌倉後期以降に主に始まったらしいが、それは「すべてを仏法の超越的な原理で説明していく」ようなトンデモ本が多かったらしい(『玉伝深秘巻』)
例えば、「在原業平は馬頭観音の化身」というような説明がなされていたらしい。これは室町時代に一条兼良が『愚見抄』でそれを批判するまで続いたらしい
→ただ、逆に言えばトンデモ本があったからこそ、伊勢物語が古典としての最初の一歩を進めることになったともいえる。


平安後期から「題詠和歌(主題を読む和歌)」が主流になり、また藤原俊成の影響から「本歌取り(過去の和歌をオマージュした詩を詠むこと)」が一般的になった。(本歌=「古今集」、勅撰和歌集、「源氏」、「伊勢」など)
和歌を詠むことが「自己の感情を自由に詠むこと」ではなく、「伝統との連続性の中で詩(詩詠み)を位置づけること」に変化し、自由度が下がったともいえるが、逆にこのことが和歌人口を増やしたらいい。
(1)最低限『古今集』を暗記し、題詠和歌の基本である『堀川百首』題などを用いて繰り返し学習すれば、誰でも和歌が詠めるようになった
(2)題詠とは、一種の「コスプレ」。男が女の立場で詠んでもいいし、若者が老人の立場で詠んでもいい。自分の本当に気持ちを題材にする必要がない(気楽に詠める)
こうした傾向はのちに正岡子規に批判され、正岡子規は「古今集」ではなく「万葉集」を推すことになる。


オリジナル作品に対する勝手な執筆・増補・新展開は、中世王朝物語(『とりかへばや』など)と言われる、『源氏』の変異体と呼ばれる物語群に近い。
→古典的公共圏の周縁にある、超越的(トンデモ)注釈と二次創作的物語
二次創作は、日本の伝統かもしれない(二次創作というと『動物かするポストモダン』が思い浮かぶ)


「宗祇(そうぎ)」というキーパーソン
→家としては潰えた二条家の伝統を「二条派」として継承(古今伝授)
→百人一首を古典に


近世における画期性
出版業の誕生(書物が商品として流通するようになり、同じ内容の書物が大量に印刷できるようになったこと)
(1)室町期までは、古典・古典学を学ぶためには、「(古今伝授の伝統の)三条西家」と直接交流を持つ必要があった(その前段階として、「三條西家」との間を取り持てくれる「連歌師」(宗祇など)が地方に来た際に関わりを持つ必要があった。)
複雑な「縁」の世界
(2)江戸期においては、書物で直接古典を学ぶことができるようになる
→プロテスタントの誕生も、出版技術の発展が条件だった(ルターにおける「聖書のみ」の前提条件)。日本における学問の進展にも影響を与えたのだろう。そしてそれが反体制運動につながらないように検閲していたのが林家
(洋学の幕府による独占と検閲)


文人大名「松平定信」
→生涯において『源氏物語』の写経を7回も行っていて、その記念で竟宴を行った記録もあるらしい
佐川恭一の「東大A判定記念パーティ」を思い出した。


前近代人の思考
→「要約」ではなく「抜き書き」。自分が気になったところ、引っかかるところをそのまま抜き書きし、それを見ながら、記憶・連想による思考で考えをまとめていく
→僕の思考もそんな感じだ
(「ユーモア」的思考。文章を書くときはそれを論理的プロットに無理やり入れ込んでいる感じ)

3.X(旧twitter)で和歌を詠む

というわけで、僕も教養人を目指して和歌を1日1歌ほど詠んでいくことにしています。

もちろん一から自分の力で和歌を作る力はないので、本歌取り(過去の和歌をオマージュした詩を詠むこと)です。

これをやり続けたら、日本人としてのアイデンティティが確立されて、僕のアイデンティティクライシス(クオーターライフクライシス?)が解消され、心穏やかになれるのでしょうか。
そうであれば、何首でも詠むのですが。。。

「春過ぎて夏来たるらししろたへの
こころ乾したり天の香具山」by持統天皇、の本歌取り
「君待つとわが恋ひをれば我が宿の
すだれ動かし秋の風吹く」by額田王、の本歌取り
「人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香ににほひける」by紀貫之、の本歌取り
「思いつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせばさめざらましを」by小野小町、の本歌取り
「多摩川にさらす手作りさらさらに
なにぞこの児のここだ恋しい」東歌、の本歌取り



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