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2 教員と監視

#2 「学校のパノプティコン化」と教員

 「学校のパノプティコン化」というテーマを論じるにあたり、まずは教員の仕事について論じるのが適切かと思います。じっさいに「監視」の担い手となっているのは、(教師個人がどのような意識で働いているかに関わりなく)他でもない教員です。また、教員のしごとについて論じることは、今年(2022年)の春から高校教員として働きはじめた私自身の興味・関心とも合致します。

 「教員」という職業が社会の色々な場面で、ポジティブな文脈で語られることは少なくなってしまいました。私の身の回りでは、ほとんどないと言っても差し支えありません。現に教員として働いている私自身も、率直に言って良い仕事だとは思っていません。もっとも、これは私が典型的な「デモ・シカ教員」(教員に”でも”なるか、教員になる”しか”ないというモチベーションで教職に就く人の蔑称)なので、そういった話題ばかりが記憶に残っているせいかもしれませんが。
 さて、私を含めた教員のしごとは、もっとも重要な教育法規である教育基本法(2006年改正)第9条に、以下のように規定されています。

【教育基本法 第9条】

  1. 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

  2. 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

ちなみに、2006年の法改正前の、教員に言及した条文は以下のようなものでした。

【(旧)教育基本法 第6条】
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、
教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

 私は教育行政にかなり懐疑的な目を向けている人間ですが、教育基本法に書かれていること自体は、それなりに賛同しています。「自己の崇高な使命」が何なのかはよく分かっていませんが、「絶えず研究と修養に励」んでいるつもりですし、「職責の遂行に努め」てもいるつもりです。
 学校という現場で子どもたちの相手をし、教育の目的を果たすべく職務に励む。教員の仕事とは、子どもを監視・管理することではなく教育基本法第一条に掲げられている教育の目的を達成することのはずです。この、おそらくは全ての教員が知っているはずの大前提がいともたやすく忘れられ、教員が監視の担い手にあっさりと堕落してしまうのはなぜなのでしょうか。教員一人一人の意識の低さにあるのでしょうか。私はそうは思いません。

現時点での私の仮説はこうです。
 学校の役割の肥大化などに伴う「悪しき多忙感」と、管理職、保護者や地域住民などからの要請といった構造的な要因が、教員を監視の担い手とさせる。

いくつかの先行研究に依拠しながら、この仮説を立証していきたいと思います。現時点での構想はこうです。

(1)まずは、「教員というしごとはどのように変わってきたか」を小テーマとし、教員が監視の担い手となった背景を、歴史学的なアプローチから迫ります。主に取り上げる文献は以下の通りです(順不同)。

  • 近現代日本教員史研究会編『近現代日本教員史研究』,風間書房,2021年

  • 岡村達雄『日本近代公教育の支配装置 教員処分体制の形成と展開をめぐって』,社会評論社,2001年

  • 広田照幸『歴史としての日教組 上・下』,名古屋大学出版会,2020年

  • 佐藤学・秋田喜代美・志水宏吉・小玉重夫・北村友人編『岩波講座 教育 変革への展望4 学びの専門家としての教師』,岩波書店,2016年

  • 稲垣忠彦・九冨義之編『日本の教師文化』,東京大学出版会,1994年


  • (2)続いて、教員の「悪しき多忙化」――達成感に乏しく、肉体的・精神的に消耗し、しかも適正な報酬がないしごとによる多忙化――がなぜ生じるのか、ということについて考察します。ここでは、以下のような文献に触れる予定です。

  • 高橋哲『聖職と労働のあいだ 「教員の働き方改革」への法理論』,岩波書店,2022年

  • 雪丸武彦・石井拓児編『教職員の多忙化と教育行政 問題の構造と働き方改革に向けた展望』,福村出版,2020年

  • 内田良『部活動の社会学 学校の文化・教師の働き方』,岩波書店,2021年

  • 神谷拓『運動部活動の教育学入門 歴史とのダイアローグ』,大修館書店,2015年

以上で挙げた文献以外でも、例えば中央教育審議会の答申や、それぞれのトピックスに関連する論文などは適宜取り上げていく予定です。

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