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2-1-1 かつて教員は「聖職者」だったのか?

 本稿では、教員観の変遷を探るため、歴史社会学的なアプローチをとります。したがって、まずは日本に「教員」という職業が登場した明治時代から、ひとつの時代の区切りとして太平洋戦争の終戦までを考察の範囲としたいと思います。なお、一口に「教員」といっても、とりわけ戦前においては初等教育の教員と中等教育以降の教員とでは社会的地位や個人ごとの意識にかなり差異があり、同列に論じることは大雑把な捉えであることをあらかじめ断っておきます。

(近現代日本教員史研究会編『近現代日本教員史研究』風間書房,2021年,pp21~22.)
 1872(明治5)年の「学制」により、わが国に近代小学校が創設され、幕藩時代において教育を担っていた手習塾や私塾などの師匠たちとはまったく異なる、「小学校教師というしごと」が誕生した。両者のちがいは、大きく次ぎの二点に集約されよう。第一点は、子どもたちとのつながり方や期待されるしごとの内容の違いであった。【略】小学校教師の場合は、学区ごとに小学校がつくられ、その小学校で教えるためには、「教員免許状」という資格が必要で、教える内容はこれまでとは異なり欧米の新しい知識や技能であり、さらにそれを個別指導ではなく一定の教育課程に基づいて一斉に教授する力量を備えていなければならなくなったのである。【略】
 第二点は、両者のつくられ方の違いであった。【略】小学校教師たちの場合は、全国にわたる小学校創設にともなって膨大な数が必要とされ、師匠たちのような自然発生的な営みに期待するような時間的な猶予はなく、「師範学校」という場で効率的にかつ安定的に「教師はつくられるもの=教員養成」という観念が定着・浸透していったのである。

 江戸時代までの「教育」の担い手は、教員ではなく――「学校」が存在しなかったため、必然的に「教員」という職は存在しませんでした――、儒学者や僧侶でした。彼らは「教える」ことを本業としていたわけではなく、その道に通じていた人が兼業として寺子屋や藩校で子弟たちに教授していました。
 このような、おそらくは人類社会で連綿と行われてきた、元から特定の分野に高い識見を持った人が自然発生的に「教える」という仕組みは、近代的な学校が発生したことでガラっと変わることになります。


稲垣忠彦・久冨義之『日本の教師文化』東京大学出版会,1994年,pp183~185.
 近代学校制度の確立は、教師の「教える」という仕事を明らかに方向づけることになった.と同時にそのような仕事に従事する大量の「教員」を必要とした.この頃には,教員の出身階層も士族出身者から農民出身者へと移行し,師範学校の給費制や服務義務制といった師範学校体制も整えられていった.
 【略】1890(明治23)年に約68,000人であった教員数が1910(明治43)年には倍増以上の152,000人となり,さらにその10年後には3倍近くの185,000人にも達していた,このような小学校教師の爆発的な増加の背景には,小学校への見かけの就学率が日清・日露戦争の戦間期にあたる1902(明治35)年には90%を突破するという就学児童数の増加があったことはいうまでもない.特に女子の就学率の急上昇は著しかった。

 上記の引用文から分かるように、小学校の教員は日本が近代国家へと脱皮する過程で、大量に必要とされました。当時の小学校教員たちの賃金や社会的な地位が今の水準よりも低かったことは、事実です。さらに言えば、特に士族出身者にとって、教員は魅力のあるしごととして認識されていなかったようです。
 このことは、例えば有名な社会主義者、堺利彦のエピソードが傍証しています。

『近現代日本教員史研究』,p139.
 堺利彦は、士族の三男に生まれ中津中学校を主席で卒業した後、共立学校を経て第一高等学校へ進学したが、学費滞納で除籍となった。その後、はじめての就職が大阪の天王寺高等小学校の代用教員であった。堺が教職に就いたときは、すでに教師の社会的地位は低賃金で政治的な自由もない状態であった。

 『近現代日本教員史研究』では、社会主義者石川三四郎(1876年ー1956年)の著作、「小学校教師に告ぐ」(1904年[明治37年])を引きながら、当時の教員が置かれていた境遇を詳しく述べています。

『近現代日本教員史研究』,pp146~147.
石川が「小学校教師に告ぐ」を執筆した一九〇四(明治三七)年一一月は、日露戦争の真っ只中であり、戦争を支持する国民を作ることを必要とする明治政府は、教師に国家道徳を国家の職務として教育させていた。国家の職務を、石川は「国家強制の教育」と呼び、教師たちは、国家道徳の教育は迷信に近いと知りつつも、真面目な顔をして命令を遵奉し、自らの本心に背いた教育活動を行っていた。【略】石川は、自分の目に映る教師たちは郡長や群視学の前では本心でないことも本心であるかのように装い、表面だけは命令に従順な国家のための教育を行っていると考えていたのであった。
 教師たちは表面を一皮むけば、そのなかには複雑な葛藤があり、表面だけ命令に従順に振る舞うのは、葛藤を体よく覆い隠すためであり、「子どもにとっての教育とは何か」というような教育に対する根本的な思想を自分の頭で考える行動様式を得ないまま教壇に立っているのであった。【略】
 また、教師の「憐れむ可き」待遇についても言及している。国務大臣や県知事の一〇分の一以下の俸給で、郡長・村長・助役どっころか巡査書記長よりも尊敬されず、「先生」という呼称が軽蔑語となり、無能者の同義語となっていると論じている。【略】
 キリスト教的社会主義者の石川が考える教師のしごとは、人類を完全ならしめんがために博愛道徳を教える職務を行うものであり、それによって人類共同の一員たる「世界の子」を作ることであった。しかし、博愛道徳の教育を行う者は「国賊の名をもって放逐」されるために国家強制の教育を「国家の威力」をもって行い、子どもたちへの教育実践に閉じこもることで、劣悪な環境に対する苦痛を紛らわせ、自分たちの職務の社会的な意義には目を向けず「不完全な社会組織」に取り込まれていく状況にあったといえる。

 主に小学校教員が大幅な増加を遂げていたかたわらで、教員の社会的地位は低く、給料も低く、そして教職へのモチベーションも低かったことは記憶に留めておくべきです。大正時代に入っても、事態はさほど変わらなかったようです。。

佐藤学・秋田喜代美・志水宏吉・小玉重夫・北村友人編『岩波講座 教育 変革への展望4 学びの専門家としての教師』岩波書店,2016年,「教師の教育研究の歴史的位相」,pp41~42
一九一〇年代の教育小説は、教師の生の負の側面を強調しつつ、昇進や転職の選択を「自己」の追求という文脈において肯定的に描いた。雑誌『小学校』主幹の志垣が記した『教員物語』では、食事のおかずは味噌汁と沢庵だけ、衣服の新調もままならないといった経済的な貧しさと、向上心を欠いた同僚たちの精神的な貧しさが描かれている。純真な子どももナショナリズムも、すでに教師であることを支えるものとして機能していない。教師の仕事を「まあ平凡」だと感じた主人公は、「自我の充実」を求め、村の小学校から師範学校附属小学校へ、さらに高等師範学校附属小学校へと移動し、結局は教職を辞す(志垣 一九一九)。それは志垣自身が、そして多くの教育ジャーナリストが歩んだ道のりだった。
 教育ジャーナリストたちは、自分の辞職の物語を小説にするのみならず、自伝的な回想においても語った。重要なのは、元教師である彼らの一人称の回想が、教師であることを内側から問い、そのアイデンティティを掘り崩すかたちで機能している事実である。彼らはかつて教師だった「私」の経験を通して、子どもを圧迫する権力性や、教えるという仕事の傲慢さや、聖人君子であるかのように振る舞う偽善性を批判し、教師であることの倫理を内側から問うた。そしてそのような批判は、当時の新教育における教育の形式性や画一性への批判と重なり合うことによって勢いを増した。

 このような劣悪な環境にあって、教員たちが自らのしごとと、国家的な使命感とをつなぎ止めていたのは「戦争」でした。国を富ませ、優秀な兵士となる人材を排出すること。それが銃後にいる自分の使命であると、本心から信じていた教員が少なからずいたのです。

『日本の教師文化』,pp194~195.
 公僕としての国家教師が再び強く求められてきたのは,たとえば1930年代以降にいわゆる詔勅が矢継ぎ早に小学校に降ろされてくることが象徴的に物語っている.すでに下付されてきた教育勅語や戊申詔書あるいは国民精神作興詔書に加えて,「教育ノアルモノニ対シ下シ給ヘル勅語」(1931年),「憲法発布ノ勅語」(1934年),「国際連盟脱退ノ詔書」(1934年),「全国小学校教員代表者御親閲ノ際教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語」」(1934年)「支那事変一周年ニ教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語」(1938年),「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939年),「軍人援護ニ関スル勅語」(1939年),「紀元二千六百年紀元節ノ詔書」(1940年),「大東亜戦争宣戦ノ詔書」(1941年)といった詔勅が出されている.これは天皇制教育理念の動揺と再編とに関わるが,それぞれの詔勅によって学校現場の教師たちに,国家(天皇)と教師自身とが意識回路の中でつなげられていることを機会あるごとに自覚させ、公僕としての国家教師たるべきことを繰り返し呼びかけた文書と見ることができよう.
 そのような使命感への覚醒と同時に,1941(昭和16)年小学校が国民学校へと改称された時,教師の役割自体も大きく変えられようとした.【略】いうなれば、戦争の時代に求められた教師の役割は教室内にとどまった知識の教授者ではなく教室を出た皇国民教室を出た皇国民の錬成者としての教師であった。

 改めて述べるまでもなく、日本は戦争に負け、「皇国民の錬成者としての教師」像は灰燼に帰すこととなりました。教師たちは自分たちのしごとの立脚点を、また別のロジックに求める必要が出てきました。戦後のことは、また稿を改めて論じたいと思います。 

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