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2-1 教員観の変容について

#2-1 教員観の変容について

 1997年生まれの私は、教員から「体罰」と呼べるような暴力を受けた経験がありません。中学生のころ、年配の数学科教員に(何の理由だったかは忘れましたが)ゲンコツをされた記憶はありますが、一度か二度だったはずです。田舎だったこともあり、ぎりぎり「学校の先生は偉い」という雰囲気の残渣が残っていた記憶があります。
 翻って現在、私は高校で働いているわけですが、そういった雰囲気は全くと言ってよいほど感じられません。職員室にもそのような雰囲気はありません。教員たちは、よく言っても「教育」というサービスの提供者であり、悪く言えば行政機関の末端といった空気が漂っています。教員に権威などなく、そもそも権威を求めること自体がナンセンスである――。このような環境は、いつから、どのようにして形成されたのでしょうか。「〈監視〉の担い手としての教師」像を描くにあたり、このことを論じることは必要不可欠でしょう。

あらかじめ述べておかなければならないことがあります。それは、「教員という職業が教育的な使命に燃え、かつ、社会的に高い地位にあった時期は存在しない」ということです。これは浅薄な教員批判でもなく、現場の教員が抱きがちな諦念でもなく、ましてや「#教師のバトン」に見られるような怨嗟の声でもなく、事実です。ただし、次のような時代は確かに存在しました。

  1. 明治時代初期~中期や戦後しばらくの時期など、教員たちの多くが教育的な使命感に情熱を注いでいた時代

  2. 他業種の公務員、あるいは他国の教員と比較して高学歴・高収入であり、社会的に高い地位にあった時代

これから詳しく述べますが、現在は(1)と(2)のどちらにも該当しません。 
 したがって、「昔は良かった」、「古き良き時代を取り戻す」といった失地回復運動によっては、教員のしごとを良い方向へ導く思考は生まれません。それは、冷静に歴史と対話〈ダイアローグ〉し、まだ見ぬフロンティアを求める思考によってしか導かれないものなのです。

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