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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(26) 太陽

ジャムバンドの影響

アルバム「THE SUN」は前作「Stones and Eggs」から5年ぶりのオリジナル・アルバムとなった。2001年から始まり、断続的に2003年まで足かけ3年に亘ったレコーディングでは、アルバムに収録された以外にも多くの曲が録音されたことが窺われるが、その中から厳選された14曲が、新たに設立されたDaisyMusicレーベルからの最初の作品としてリリースされることになった。

アルバムの名義は「佐野元春and The Hobo King Band」であり、レコーディングも高橋ゲタ男、オルケスタ・デル・ソルによって演奏された「観覧車の夜」を除いて、バンドと共に行われている。レコーディングが長期に渡ったため、『君の魂 大事な魂』、『最後の1ピース』、『レイナ』、『DIG』などはアルバムのリリース前にライブやテレビ番組で演奏されてもいた。
音楽的にはトラフィックやその後のフィッシュ、デレク・トラックス・バンドなどのいわゆるジャム・バンドの系譜を継ぐオーソドックスで正統派のロックが中心である。リズム的には、時としてフュージョンとの相似も感じさせるシンコペーションや複雑なブレイクを多用したシャッフル系のファンキーでグルーヴィな曲も多いが、いたずらにテクニックに溺れることなく抑制的で堅実な演奏を聴かせる。シンセなどの電子楽器はほとんど使われず、生音中心のアナログでアコースティックなサウンド・プロダクションとなっている。
アルバム発表直前に佐野が打ち出したスローガンは「Let's rock and roll」であり「Back to the street again」であったが、このアルバムは、語義通りのロックンロールよりはデビュー以来の年月に裏打ちされたストレートなロック表現の深みを聴かせるものとなった。そこにあるのは自由や真実を求めて走り続けた結果たどり着いた場所から見える風景であり、現在の自分の居場所をどう受け止め、解釈し、再定義し、そして最終的にそれをどう肯定して自分自身の生に結びつけて行くのかというテーマであった。

生を肯定するということ

このアルバムの大きな背景になっているのは、2001年9月の同時多発テロである。このとき佐野は『光』という曲をウェブ上で発表し、テロが我々の精神の危機に直接結びついていることを指摘した(第24回参照)。『光』はこのアルバムには収録されていないが、付属のDVDにはレコーディング風景が収録されており、この曲が本作の一部をなすことが明確にされている。そこにあるとア・プリオリに信じているものが一瞬にして崩れ落ちる可能性のある世界で、我々が我々の生を肯定するとはどういうことなのか、それがこのアルバムの最も深い部分にある問題意識に他ならない。
そうした根源的な問いかけを含む本作が、しかし一方の極として『希望』や『遠い声』、『レイナ』のような、日常に寄り添ったミニマルな表現に収束したのは興味深いことである。もちろんこれは、佐野が「冒険」を放棄して小市民的な幸せに回帰することを意味するのではない。そうではなく、それは、我々が「冒険」の結果たどり着いた世界がどんなに奇妙で滑稽なところであっても、あるいは逆にどんなに凡庸でありふれた場所であっても、今ここにいる自分、自分の足が踏みしめている地面の感触を肯定することなしには我々は生きることができないという認識であり、そのような些細な「実感」を手がかりに、自分が今ここに生きているということを確かめたいという強い希求である。

そこに日はまた昇り月がまた巡り

それはアルバム最後のタイトル曲『太陽』につながって行く。「ここにいる力をもっと」と「God」に祈るこの曲では、まさにこの困難な時代を生き抜く力が強く希求されている。ここで露わになっているのはサバイバルへの強い意志であり、そのよりどころを「どこか遠く」ではなく最も自分に近い具体的な物事に見出そうとする「継続」へのトライアルである。
オープニング・ナンバー『月夜を往け』で佐野は、月に照らされながら眠るパートナーをそっと見守る主人公を描く。それはとても静かなシーンだ。燃え上がるような激しい思いであるよりは、長い時間に試され、育まれた、静かで強い気持ち。闇の中で月の光に浮かび上がる彼女の寝顔に心を奪われ、二人が行くこの道を明るく照らしてくれるようにと月に祈る。軽やかなフォークロック調で歌われるこの曲の、しかしそこに秘められた決意は驚くほど強固なものだ。
アルバムの中盤に置かれたシングル曲『君の魂 大事な魂』でも太陽と月のことが歌われる。「そこに陽はまた昇り 月はまた巡り この世界は何も変わらない」と。デイジーの花をかき抱きながら、夜明けが来る前に行くのだと佐野は言う。僕たちは日の当たる場所へこぎ出すことをもう一度確かめる。月の光の中で誓った決意を、僕たちはどこまでも携えて行くのだ。「I love you」と繰り返しながら。同じリフレインを、佐野は歌詞を変えてもう一度歌う。「そこに陽はまた昇り 月はまた巡り この世界はいつも新しい」。ここに大きな転換点がある。
そして、『太陽』。生命の源である太陽に僕たちは再び祈る。ここにいる力をもっと。それはこの騒々しく、残酷な世界に踏みとどまって闘う僕たちに力を与えてくれということだ。気まぐれで、愛しい「あのひと」が無事にたどり着くべき場所をこの世界の片隅に確保するために。
空を見上げながら、今ここにいることの偶然と必然を改めて知る。このアルバムはそんな円環構造をそれ自体の中に秘めている。

神さまを信じる力

『太陽』で佐野は何度も「God」と呼びかける。佐野はこれまで歌詞の中で神に言及したことはほとんどない。その佐野が、この曲では神に祈りを捧げているのだ。「ここにいる力をもっと」、「風に舞う力をもっと」、そして「夢を見る力をもっと」と。
この曲は間違いなくアルバム全体を統合し、ひとつの作品としての意味を与えるカギだ。この曲がなければ、「THE SUN」というアルバムはもっと散漫なものになっていただろう。音楽的に非常に意欲的で水準の高い試みを行い、歌詞にも深化を見せて、ロックと一人の人間の成熟というテーマにひとつの答えを出そうとしたこのアルバムは、しかし個々の楽曲の完成度が高ければ高いほど、それらをひとつにまとめる強いモメントを必要としていた。
『太陽』はアルバムの中で最後にできた曲だという。そして、それがそのままアルバムのタイトルになった。だが、この曲の中に「太陽」という言葉は一度も出てこない。佐野はそこでただ、神に祈り続ける。
生かされている、という感覚。自由を、真実を、そして生き延びる知恵と力を希求しながら、それを決して円満には手にできない人間という存在の本質的な不完全さを思うとき、いずれ死に行くべき僕たちの運命を考えるとき、僕たちは僕たちの有限な生がどこから来てどこへ行くのかと自問しない訳に行かない。そしてその僕たちの生を根拠づける摂理の存在を求めずにはいられないのだ。僕たちがここで生きようと誠実に願えば願うほど、僕たちは普遍に憧れる。
神の存在を思うとき、それは自分の頼りなげな二本の足がこの地面にしっかりと立っていることを確かめるときだ。そこにあって自分が生きることへの意志を抱きしめるときだ。残酷な現実に打ちのめされず、それでも夢を見続ける強さを切実に求めるとき、僕たちはその背後にあるはずの神の姿を一瞬だけ垣間見るのかもしれない。太陽が僕たちのまぶたの裏に焼きつける残像のように。

この毎日の人生

このアルバムで佐野は、繰り返し「ありふれた一日」のことを歌う。そして、そんなありふれた一日の中にこそ抱きしめるべきものがあるのだと言う。「ありふれた日々 ありふれたブルー 陽は昇り 陽は沈み 何も変わらないものを そっと抱きしめて」。『希望』と題されたこの曲で、佐野はこうも歌う。「晴れた日は 風を抱いて 夢の続きから始めてみてもいい」。
あるいは『恵みの雨』。「何気ない 明日への不安に 望みの雨が降りそそいできたよ 答えはまだなくていい 錆びてる心に火をつけて 我が道を行け」。僕には佐野がこう言っているように思える。大丈夫、人生の半分が通り過ぎたってどうってことはない、まだまだ道の途中なんだから、君の思うように、やりたいようにやればいいよ、と。
かつて佐野は「つまらない大人にはなりたくない」と歌った。「本当の真実がつかめるまで続けるんだ」と歌った。それは闘いであり、冒険であり、決して満足しないことの宣言であった。そして僕たちは、ロックンロールというのはクソのような日常をビートするものだと思っていた。理屈では説明できない熱のかたまりみたいなエネルギーをたたきつけるための音楽だと思っていた。だから佐野が「本当の真実はもうないのさ」(『ザ・サークル』)と歌ったとき、「答えはいつも形を変えてそこにある」(『風の手のひらの上』)と歌ったとき、僕たちは戸惑い、佐野がどこへ行こうとしているのか、ロックンロールが一人の人間の成熟にどう立ち会って行くのかということを、身を切るような痛みをもって自分自身に問うてきたのだった。
そして僕たちは気づいたのだ。僕たちは老いつつあり、死につつあり、そして人生の半分はおそらくもう通り過ぎたのだと。
しかし、佐野がこのアルバムで見せる優しさ、肯定性は、そのような取り返しのつかない時間への悔恨を、ただ無根拠に慰めるだけのものでは決してない。そうではなく、佐野は、我々自身の「生」とは他でもない今ここにある毎日のことなのだと看破したのだ。そうした毎日の積み重ねの結果今ここにいる自分自身こそ紛れなく唯一の、そして最新型の、最先端の自分であり、逆に言えばここに至るそうした日々の苦闘がなければ今ここでこうして考えている自分はいなかったのだと。その認識こそが、「この毎日の人生」に対する限りのない肯定の裏づけに他ならないのだ。
僕自身、自分の生がひどく暫定的なものに思えた時期もあった。大学を卒業し就職した頃からずっと、サラリーマンとしての生活とは別に、どこかに僕の本当の人生があるような気がしていた。そしていつかはそこにたどり着くのだとあてもなく考えていた。結婚して、子供が産まれてもその感覚は去らなかったし、夜中に目が覚めてオレはこんなところで何をやっているんだとパニックに襲われたこともあった。しかしこのアルバムで佐野はそうではないと歌っている。取り返しのつかない時間への限りない悔恨を胸の奥に沈みこませながら、その悔恨をも今の自分を構成するものとして佐野は受け入れようとするのだ。その上で「今ここにある自分」を肯定しようとするタフな意志こそ、このアルバムの本質だと言っていい。
「この愛すべき人生 この毎日の人生」。すべては続いて行く。音楽は流れて行く。佐野元春が佐野元春であることを、もう何百回目か、僕は静かにかみしめるのだ。

アルバム「THE SUN」はバンドの高いプレイヤビリティを背景に、佐野の「生き続ける意志」を明確にした意欲作だということができるだろう。このアルバムを携えて、佐野は2004年10月から2005年2月まで、全国30か所での「THE SUN TOUR 2004-2005」を敢行した。
2005年12月にはまた新しい試みが動き始めるのだが、それ以後のことについては稿を改めたい。

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