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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(17) ロックンロールの帰還

転機

佐野元春が1993年11月にリリースしたアルバム「The Circle」は何かの「終わり」を強く印象づける作品だった。「探していた自由」も「本当の真実」ももうないのだと言い切って見せたそのアルバムは、佐野が「イノセンスのドグマ」に明快な別れを告げようとしていることを示していた。それをポジティブに受け止めるのであれ、ネガティブに解釈するのであれ、ともかくそこには確かにひとつの時代の終わりがあった。
佐野元春はそれに続いて10年以上にわたって活動をともにしてきたバンド、ザ・ハートランドを解散した。その間の活動を総括した記念碑的な3枚組のライブ・アルバムをリリースし、94年9月には横浜スタジアムで一夜限りの解散ライブ「LAND HO!」を行った。そしてその後、公式な音源のリリースは1年以上にわたって途絶することになる。
いや、「1年以上にわたって途絶することになる」というのは今だから書けることだ。当時の僕たちには次のアイテムがいつリリースされるのか知りようがなかったのだから。いや、いったい次のアイテムがリリースされるかどうかすらその時の僕たちには分からなかったのだ。
僕はこの頃、佐野はもうポップ・ミュージックの世界には戻ってこないのではないかと思っていた。アルバム「The Circle」でのあまりに率直で明快な心情の吐露、ヘビーでありながらどこかふっきれたようなトーンとそこから浮かび上がるどこまでも透徹した視線、そしてハートランドの解散。僕は佐野がロック・ミュージシャンとしてのキャリアに終止符を打とうとしているのではないかと疑っていた。そしてそれでもいいと思っていた。

1995年1月に僕は仕事でドイツに赴任した。ドイツには以前に語学研修で1年間住んだことがあったから、まるっきり未知の世界に飛びこんで行くという訳ではなかったが、それでも外国でそれまでと随分違う仕事を担当するということは大きな転機であった。社会に出てから5年以上を経て、当時僕は仕事の上でも私生活でも、いや、何より僕自身の意識の問題としてひとつの曲がり角にさしかかりつつあったように思う。
そんな時期にあって、僕は佐野元春はもう僕のために歌ってくれなくても構わない、と思うようになっていた。僕はそれまでずっと佐野の力を借りて成長してきた。高校時代からこっち、僕は佐野の歌をガイドにして、そこに自分を投影することで自分の位置を確かめ、泣き、笑い、背中を押され、怒り、そのようにして毎日をロール・オーバーしながら少しずつ前進してきた。『ダウンタウン・ボーイ』も『SOMEDAY』もいつもそこにあった。すべての歌が僕にとっては特別の意味を持っていた。どの歌にも個別の、僕にしか分からない風景が分かちがたく結びついていた。
だから、佐野元春がもう歌わないというならそれでもいい、と僕は思っていた。僕はもうそれまで十分佐野に世話になった。佐野がいなければ僕の人生は随分違ったものになっていただろう。でも、幸いにして佐野と出会うことによって僕はここまでの人生をこんなふうにドライブしてくることができた。そしてそれはもう十分だ。僕はもう大丈夫だ。佐野元春の音楽とともにあった僕の15年の間に、僕の中には何があっても揺るがない強い確信が築き上げられた。佐野がもはや『ダウンタウン・ボーイ』を歌わなくても、『SOMEDAY』を歌わなくても、それは既に僕の内にある。僕はこれまで佐野の音楽と寄り添いながら自分の内に刻みこんできたものを頼りに一人でやって行ける。佐野がこれまでの活動に終止符を打って新しいフィールドを探すのならそれでいい。僕は僕の新しいフィールドを探そう。佐野が次へ行くというなら僕も次へ行く。なぜなら僕たちは「つまらない大人にはならない」と約束したはずだから。それは僕にとってひとつの転機だった。

身も蓋もないロックンロール

だが、佐野元春は決してロックンロールを捨てたのではなかった。当時の僕は知る由もなかったが、佐野は95年4月からスタジオにこもりセッションを繰り返していた。もちろんそれは佐野自身にもどのような形に結実するのか分からない、手探りのセッションだっただろう。ハートランドと別れ、未知の、若いミュージシャンたちと行うセッションは刺激的ではあっても、何かの予定に沿って用意されたトラックを仕上げて行くという類のものとは異なっていたはずだ。
セッションはミックス・ダウンも含めれば翌年4月まで行われ、1年にわたる異例の長期レコーディングになった。この中で佐野はさまざまなミュージシャンとセッションを行い、試行錯誤の中から少しずつ新しい楽曲を完成させて行った。このレコーディング・セッションについては佐野自身による「Diary - Studio Days」(PARCO出版)に詳しい。

そのレコーディング・セッションの一端は1995年11月に明らかにされた。シングル『十代の潜水生活-Teenage Submarine』がそれだ。
僕は発売から1ヶ月以上遅れて、日本から送られてきたこのシングルを聴いた。佐野がポップ・ミュージックのフィールドに戻ってこなくてもいいとさえ考えていた僕にとって、佐野の新譜リリースはむしろ意外なニュースだった。もちろんそれは嬉しい知らせではあったが、ハートランドと別れた佐野がどんな音楽を提示しようとしているのか、僕は不安にも近い気持ちを抱きながらシングルの到着を待った。
それはロックンロールだった。何の変哲もなく身も蓋もない、ただのロックンロールだった。だがそこには佐野の、「立ち向かう意志」が横溢していた。そのロックンロールは産まれたばかりの赤ん坊のようにみずみずしく、無垢で、清新であった。

ロック・ミュージシャンにとって、表現の初期衝動を常にピュアなまま聴衆にたたきつけて行くのは難しい。長く続ければ続けるほど、ある種の表現は巧みになり豊かになる。しかしその一方でデビューしたての頃のみずみずしい感受性や切りつけるような勢いは失われ、曲作りは惰性に流れ、演奏は伝統芸能のように型にはまったものになりがちだ。多くのアーティストが目の覚めるようなデビュー・アルバムを残しながら、その後見る影もなく凡庸な作品しか発表できなくなるのを、僕たちは何度も目にしてきた。ディナー・ショー的な予定調和の世界に隠遁した大御所ミュージシャンを僕たちはいくらでも数え上げることができるだろう。
だが、佐野はこの『十代の潜水生活』で、決して自らの表現を老成させたりいたずらに難解な方向に進んだりするのではなく、ロックンロールあるいはポップ・ミュージックというある意味で極めて保守的な枠組みの中で、いかにその初期衝動を失わずに表現を活性化し、更新し続けることができるかというテーマに関わり続けるのだということを明確に印象づけた。もちろんそれは簡単なことではない。しかしそのようにしてロックンロールに寄り添い続けること、ベーシックなフォーマットにこだわり続けることでひとつの前衛を見出そうとする佐野の姿勢は、痛いほど僕の心を打った。
一度はロックを歌う佐野の姿を見ることをあきらめかけていただけに僕は嬉しかった。僕には佐野がそのように何の変哲もなく身も蓋もないロックンロールを新しい活動のスタートにしたことが何より感動的だったし、僕が佐野を通して僕自身に信じているものは確実に受け継がれて行くのだと強く感じたのだった。僕は僕の新しいステップを、佐野元春の新しいロックンロールとともに始められることが本当に嬉しかった。

この曲とカップリングされている『経験の唄』は対照的に穏やかな曲だ。シンプルなメロディが淡々と繰り返されて行く中に子供の声、飛行機の爆音などさまざまなSEが挿入される。

「言葉と効果音を響き合わせることによって、幸福なイメージにも、不吉なイメージにも転ばせることができる。この曲では、その相反するふたつのイメージが、交代交代に顔をのぞかせるように仕上げた。この曲を聞いてくれる誰かの想像力に寄りかからせてもらうことにしよう。僕のたわいないこんな小さな工夫が、ポップ音楽を聞くときの楽しみだと言ってくれてる人の耳に届くといいな。」(前掲書)

その佐野の狙い通り、この曲は聴き手にさまざまな感情を喚起して行く。穏やかな日差しと無邪気に遊ぶ子供、緩やかな時の流れ。しかしそれは逆にさまざまな悲喜劇をその内に抱きながら淡々と流れて行く時間の無常を際だたせることにもなる。佐野はそんないくつものイメージを示しながら「君への想い」は「変わらない」と繰り返す。ポップ・ミュージックの領域を押し広げる意欲作であり、第三期の活動の中でも現在のところベスト・トラックのひとつに挙げられる名曲だと思う。

こうして佐野の第三期はスタートした。1年にわたって行われたこのレコーディング・セッションは、この後『楽しい時』、『ヤァ!ソウルボーイ』という2枚のシングルと、「International Hobo King Tour」と名づけられた全国ツアーを経て、アルバム「FRUITS」に結晶することになる。

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