都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(20) ロックンロールの成熟
奇妙な相似
1997年にリリースされたアルバム「THE BARN」は、アメリカン・ルーツの強い影響を受けたアーシーなサウンド・プロダクションと、表現者としての佐野元春の認識の深まりを感じさせる落ち着いたトーンの曲作り、そしてプレイヤビリティの高いホーボー・キング・バンドの演奏で、それ自体非常に完成度の高い名作となった。
しかし、一方でこの作品はウッドストック・レコーディングという特殊要因に動かされた一回性の強い作品で、特にサウンド的には前後の作品との脈絡からかなり突出しており、佐野の作品系列の中では例外的な位置にあるアルバムであるということも前章で指摘した。
ここでアルバム「VISITORS」のことをもう一度考えてみよう。このアルバムはニューヨークで制作され、それまでのグッド・オールド・ロックンロールをベースにしたフレンドリーなポップ・ソングから、シリアスでヘビーなファンクへとまさに180度の転換を遂げた作品であり、当時議論を巻き起こしただけではなく、その後に続く佐野の作品群の中でも極めて異質な作品となった。
しかしアルバムとして「VISITORS」は重要だ。それはもちろん、ファンやメディアを困惑させ、佐野自身をすらおそらくは戸惑わせた。佐野は「自分は魚座なのできれいな水に住めばきれいになるし濁った水に住めば濁ってしまう」と述べて、このアルバムがニューヨークの緊迫した空気にいわば「あてられた」作品だということを暗に語っている。しかしこの作品がなければその後の佐野はなかった。このアルバムでいくつかの重要な視点の転回がなされた結果、佐野の音楽表現は一種の袋小路に迷い込むことを免れ、核として残るべきものと更新されるべきものとのふるい分けが行われたし、それはその後の音楽活動の支えとなっていった。
アルバム「THE BARN」はそのような意味で「VISITORS」の双子の兄弟のようなものだと僕は考えている。コンテンポラリーなファンクとアメリカン・ルーツ、方向的にはまるで正反対のように見えながら、情況的な制約を取り払い、ふだんとは違う環境に身を置いて「そこにある音楽そのもの」を追求したという点で、この2枚のアルバムは驚くほどよく似ている。そしてその結果、それまでの作品系とは隔絶した「極端な」作品ができあがったという意味でも。
この奇妙な相似を考えれば、ここで提示されたものが何らかの意味でその後の佐野の活動の底流となって行くであろうことは想像に難くない。このアルバムのサウンド・プロダクションがそのまま次のアルバムに引き継がれることはなくても、このアルバムの問いかけるもの、佐野の問題意識は間違いなく次へとつながって行く。『FRUITS』が第三期の佐野元春のスタート地点でありその新しい活動の萌芽をショー・ケースのように示したカラフルな作品だとするなら、「THE BARN」はその中で醸成された認識がウッドストックという場所の力を借りてひとつのまとまった形をとり、佐野がこれから向かい合って行くべきもののことを明確に指し示した、ある意味で決定的な作品であったのかもしれない。
成熟するということ
では、このアルバムが指し示す、佐野がこれから向かい合って行くべきものとはいったい何だろう。それは前章、前々章でも示唆した通り、「成熟」というモメントに他ならないと思う。
かつて僕はこんなふうに書いたことがある。
「僕はロックは基本的にティーンエイジ・ミュージックであり、本質的にジャンクであると思っています。誰でも十代の頃に感じるであろう理屈で説明できないような怒り、苛立ち、不安や不満、あるいは逆に言葉にならない高揚した気持ち、そうしたものを理屈を経由することなしに解放するのがロックの本来の役割であり、ロックは本来的にオーバーグラウンドのメイン・カルチャーにはなり得ない、なってはならない存在だというのが僕の持論です。(中略)これを前提にすれば、ロックは、そうした『ロック・エリートでない』、もやもやを抱えて日々右往左往している普通のティーンエイジャーのために鳴らされるべきであり、僕たちのようなリスナーは本来そのようなロックの一次的なリスナーの感じ方に対して謙虚であるべきだと思っています。
かつて僕たちがそのティーンエイジャーとして『アンジェリーナ』なり『ガラスのジェネレーション』なり『SOMEDAY』を聴いたとき、それらはまさにそうした僕たちの寄る辺のなさとか無軌道さとかに本当にビビッドに呼応していました。それらはまるで『僕たちのこと』を歌っているように思えました。だからこそ僕たちはまるでそこに何かの救いを見出そうとするかのように佐野を聴き続けて来たのです。しかし、この『THE BARN』が果たして現代のティーンエイジャー、あるいは現代の『クソガキども』に、そのような意味あいでビビッドに届くでしょうか。この音が、『クソガキども』の今夜のもやもやを救い、彼らが成長するための宝になり得るでしょうか」
本質的にジャンクであるロックンロールは成熟というモメントとどのように調和するのか。「30以上のヤツは信用するな」という言い方がロックの世界にはある。だが、カート・コバーンみたいに20代で死んでしまわない限り、永遠に20代であり続けることは不可能だ。成長、成熟ということが人間として不可避なモメントである限り、僕たちはそれを受け入れ、それとともに生きる他ない。だが、そこにおいて、誠実なロック表現とはいったい何だろう。老成し枯れた味わいの職人芸を聞かせるのが成熟したロックなのだろうか。十年一日のごとくディナー・ショー的で予定調和的なグッド・オールド・ロックンロールをシャウトし続けるのがあるべき姿なのだろうか。あるいはロックンロールは結局のところ成長や成熟といったものとは相容れない音楽なのだろうか。
僕はそうは思わない。少なくとも僕にとってロックは今も切実なものだ。僕が成長すれば成長するだけ、成熟すれば成熟するだけ、僕の内側には澱のようにさまざまな異和感が少しずつ降り積もって行く。今僕は50歳を過ぎ、サラリーマンとして自分でも不思議なくらい穏やかに生きている。そしてその結果世間並みから見ればおそらくは悪くない生活をしている。それは他でもない僕自身だ。紛れもない僕の生活だ。僕が選び、受け入れた僕の仕事であり僕の家庭だ。だけど時折、夜中に目を覚ましたとき、言いようのない不安が僕を襲ってパニックになりそうになることがある。「これは何なんだ、僕はいったい何をしているんだ」と。
上にも引用したように、「理屈で説明できないような怒り、苛立ち、不安や不満、あるいは逆に言葉にならない高揚した気持ち、そうしたものを理屈を経由することなしに解放するのがロックの本来の役割」だとしたら、僕がそのような異和感を抱えて生き続ける限り、ロックは僕にとってやはり切実なものであり続けるだろう。そして成長とか成熟というものがすべてを本質的に解決してくれるものではない以上(それは何かを解決するかもしれないが必ずその代わりに新しい問題を何か残して行くはずだ)、ロックはどこかで成長や成熟といったモメントと真摯に対峙しない訳には行かないのだ。
大人のためのロック
ロックが成熟というモメントに対して無関係でも無関心でもいられないということを承認するなら、次の問いは、ロックはそれに対応するために、ティーンエイジ・ミュージックとしての本質において何らかの変化を強いられるのか、あるいはそこには世代を越えて妥当する普遍的な本質が存在するのかということである。
一般に「アダルト・オリエンテッド・ロック(AOR)」という言葉を使うとき、それはスローでマイルドな、「激しさを差し引いたロック」のことを指していることが多い。そこにはガキのための騒々しいロックとは別に、大人のための落ち着いたロックがあり得るはずだという考え方がある。だが、仮にソフトで耳あたりのよい音楽が大人のためのロックだというなら、そんなものはロックの名に値しない。もちろんソフトで耳あたりのよいロックもあってよいが、それが「大人のためのロック」だという考え方には、大人にはただ聞き易いものをあてがっておけばそれでよいという思想が潜んでいるからだ。
僕は、優れたロックには「大人向け」も「子供向け」もないと思っている。あってはならないと思っている。「生」に対する切実さは本来年齢によって増えたり減ったりするような類のものではないからだ。もちろん「生」に対する考え方、感じ方は年齢を経ることによって変わるかもしれない。しかし、大げさにいうなら、生きることそれ自体の意義、価値は、生まれた瞬間から死ぬときまで本質的に同じもののはずだ。そうであればその部分をこそビートするべきロックの力の背景には世代を越えて妥当する何かがなければならない。
それはハードかソフトか、新しいか古いかという問題ではない。それはいかに僕たちの抱える感情のアップダウンの本質を見極め、そこをビートするかということだ。もちろんそこに世代の傾向のようなものはあるだろう。個人の好みの問題もあるだろう。だが、優れたロックは世代を越えて心を打つマジックを秘めているはずだし、またそうでなければならない。
アルバム「THE BARN」はそのような「ロックと成熟」というテーマの存在を浮き彫りにした。残念ながら僕自身、このアルバムが現代のティーンエイジャーにどう響くのか、どう響くべきかという問題について明確な答えを持ち合わせていない。このアルバムが示唆的であるとすれば、それはこうした問題に何らかの解決を与えるものとしてではなく、まさにこうした問題を提起しテーブルに乗せるものとしてそうであるということだろう。このアルバムはそれを考えさせるだけの豊かさと奥行き、重層性を備えている。
「ロックと成熟」というテーマはこれまであまり論じられてこなかった。なぜなら影響力のある第一世代の現役アーティストが成熟や老い(あるいは衰えや死)という問題に直面し始めたのはごく最近のことだからだ。だが、これからのロックは確実にそうした問題と向かい合うことを余儀なくされるだろう。もちろん佐野元春も、そして僕たち自身も。
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