見出し画像

都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(16) ハートランドからの手紙

新規巻き直しの時

1994年4月、アルバム「The Circle」リリースに伴うツアーを終了した佐野元春は、それまで10年以上活動を共にしてきたバンド、ザ・ハートランドの解散を発表した。
僕はデビューからロックンロール・ナイト・ツアー、アルバム「No Damage」までを佐野元春の活動の第一期だと考えているが、だとすればこの「The Circle」というアルバムは、渡米、アルバム「VISITORS」から始まった長い第二期の終わりを画する作品だったと思う。その間、佐野は自らの成長に見合った等身大のロック表現を求めて悪戦苦闘してきた。ロックンロールの持つ理想主義的な側面と、リアルで切実な側面との間で揺れ動いてきた。しかし、佐野はこのアルバムでようやく「成長」というテーマに一応の答えを与えることができた。もちろんそれはすべての問題が円満に解決したことを意味しない。むしろ、インセンスは円環を描いて何度も立ち現れると看破したことで、すべての問題は個人的な領域に回収されることになった。そこでは楽観的に自由や真実を夢見ていたときよりも一層厳しく「個」のありようが問われることになる。だがそれでも佐野は自ら厳しく「自由」や「真実」という概念の内実と対峙することで、自らの成長を受け入れることを選んだ。それこそは佐野が10年をかけて探し求めてきた答えであった。
このような認識を背景にすれば、佐野が、もはやハートランドとともに成し遂げられることはすべて成し遂げたと感じたとしても不思議はない。佐野は、次の局面に向けて足を踏み出すべく、もう一度すべてを新しく巻き直すべき時期に来ていたのだ。

ザ・ハートランドというバンド

いうまでもなく、ハートランドはデビュー間もない時期から佐野元春と活動をともにしてきた。何度かのメンバー・チェンジを経ながら、10年以上にわたって佐野と寄り添ってきた。
ハートランドの特徴は、サックスをリード楽器としてフィーチャーしたことであった。第1回でも述べた通り、佐野はサックスをバンドのメインにフィーチャーすることでステロタイプなロックンロール感から自由になることを目指していたし、ダディ柴田の存在はこのバンドの重要なアクセントになっていた。サックスの響きは佐野のロックンロールの都会的で内省的な性格を的確に表現していたし、それはまた佐野がオールディーズやリズム&ブルースに代表されるポピュラー音楽の系譜に正統なリスペクトを抱いていることを端的に示してもいた。また、佐野よりも年長のダディをバンドの中心に据えることで、佐野はライブでもフロント・マンとしての役割の一部をダディと分け合うことができた。このことはライブでのさまざまな絡みを可能にしてショーの構成に奥行きを与えた。
ちなみに年長のサックス奏者をバンドの顔としてリスペクトするショーの演出はブルース・スプリングスティーンに学んだものだと見られる。特に『デトロイト・メドレー』からメンバー紹介に入り、ダディを最後に持ち上げるやり方は、スプリングスティーンがEストリート・バンドのクラレンス・クレモンスを前面に押し出す方法論と酷似する。特に初期の佐野においてスプリングスティーンの影響は大きかった。

佐野はしばしば、作品のアーティスト名義を「佐野元春」ではなく「佐野元春 with The Heartland」として発表した。ソロ・アーティストが固定したバック・バンドを持つことはさほど珍しくはないが、ひとつのバンドをこれほど長期にわたって維持し、その名前を作品のクレジットにも記載することはそれほど多くある訳ではない。このことひとつをとっても、佐野がソロ・アーティストとしての側面と同時にザ・ハートランドのボーカリストとしての側面も強く持っていたことがうかがわれて興味深い。特にアルバム「Cafe Bohemia」ではバンドに「ヤング・ソウル・アンサンブル」というニックネームをつけ、ブラス・セクションには「東京Be-Bop」というサブ・ネームを冠するなどバンドとの一体感を強調していたことは既に述べた通りだ。
この事実が示す通り、ザ・ハートランドは、決してただの匿名的なバック・バンドではなかった。そこには明快な音楽的キャラクターがあり、アーティストとの意思の通じ合いがあり、その相互作用からアーティストの音楽そのものにも相当のフィードバック、影響を与えた。
佐野がニューヨークから帰国してコミュニケーション・ギャップに苦しんでいた「ビジターズ・ツアー」、レコーディングした音源に満足が得られずアルバムなしで敢行された「ピーシズ・ツアー」、そして1年間の実質的なブランクからカムバックしてやはりアルバムの発表前に行われた「See Far Miles Tour Part 1」。佐野は困難に突き当たるたびにツアーを行い、ロードに出てリスナーと直接コミュニケーションを図る中でそれを打開しようと試みてきたが、佐野の側にあってそうした佐野の旅を支えてきたのがハートランドであった。また、ツアーの中で佐野は曲目や曲順を何度も入れ替え、過去の曲のアレンジを大胆に変更することもあったが、そうした音楽的なトライアルに応え、佐野の音楽的成長を助け、見守ってきたのもハートランドであった。ハートランドは佐野元春の学校であり、教師であり、クラスメートであり、後援者であり、佐野元春の無二の音楽的パートナーであった。

「ビッグ・バンド」の限界

だが、佐野のキャリアの中で転機となるような重要な作品がしばしばハートランド以外のミュージシャンと制作されたことは指摘されなければならない。例えば1年間の渡米生活の中でレコーディングされたアルバム「VISITORS」、ロンドンでコリン・フェアリーのプロデュースの下、パブ・ロックの名うてのミュージシャンとセッションしたアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」がそうだ。また、第9回でも述べた通り、アルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」発表の前後には佐野はハートランドの解散を考え、単発のシングルとしてリリースされた『警告どおり 計画どおり』はレッズのバッキングで、バービーボーイズ(当時)のいまみちともたかをギターに迎えてレコーディングされている。佐野はハートランドというバンドの音楽的な限界にも自覚的であったというべきだろう。
ハートランドの持ち味はややスウィングの入ったミディアム・テンポの楽曲にあると佐野元春は語っている。逆に鋭角的なエイト・ビートは彼らのあまり得意とするところではなかった。そのことは例えば「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」のセッションでレコーディングされた何曲かを聞いてみればよく分かる。ピート・トーマスがたたき出す身震いするほどシュアでタイトな、それでいて表情豊かな堅いスネア、ブリンズリー・シュワルツの小気味よいカッティング、このアルバムの曲をハートランドとレコーディングしたとしても、残念ながらこの同じニュアンスは伝えられなかっただろう。ハートランドは、ドラム、ベース、ギターの他に最盛期には3管のブラス・セクション、パーカッション、ダブル・キーボードを擁して佐野を含めれば10人構成になっていたように、よくも悪くも大家族的な「ビッグ・バンド」であった。
佐野はハートランドと10年以上にわたって共同作業を続けてきた。しかし、アルバム「The Circle」で、それまでのスタジオ・セッション方式を捨て、自らコンピュータで制作したプリプロダクションをベースに、ハートランドのメンバーを個別にスタジオに招いて1パートずつレコーディングする手法を採用したとき、佐野は既にハートランドを解散する意志を固めていたのかもしれない。このアルバムでリスナーとの約束に大きな区切りをつけ、表現者として次の段階に進もうとしていた佐野にとって、ハートランドでやるべきことはすべてやりとげたと感じられたのだろう。そしておそらくそれは、他ならぬハートランドのメンバー自身にも共通したものだったのではないだろうか。

ハートランドの解散コンサートは1994年9月、横浜スタジアムで「LAND HO!」と題して行われた。船乗りが「陸が見えたぞ!」と言い交わす言葉にちなんだというコンサート・タイトルは、長い航海の末、今、円満裏に上陸すべき場所を見つけたこのバンドにふさわしいものだっただろう。また、その前月にはデビューから「THE CIRCLE TOUR」の日本武道館公演まで、ライブ・ハイライトを集めた3枚組のアルバム『THE GOLDEN RING』もリリースされている。
こうして佐野は自ら活動の第二期を締めくくったのだった。佐野の第一期が若さそのものを大きなテーマにしたティーンエイジフッドとの幸福な蜜月であり約束を交わす時期であったとするなら、第二期は交わされた約束と自分自身の成長との相克の中であり得べき誠実さの隘路を探そうとする困難な旅であった。その葛藤はいくつかの優れた表現を生んだが、第一期のあの瑞々しい「革命」を目の当たりにしたリスナーの中には、自らの成長の困難に取り紛れる中で、あるいはティーンエイジフッドの無邪気な幻影に拘泥する中で、佐野の実像を見失った者も少なからずあっただろう。
ロックンロールの本質的な契機である「無垢な夢」という命題を「個」のありようの問題として再構成した佐野は、次にロックンロールと成長、あるいはロックンロールと成熟という新たなテーマと向かい合うことになる。ティーンエイジ・ミュージックとしてのロックンロールと、そのアーティストやリスナーが否応なく年をとって行くということとの関係。それはそれ自体まだせいぜい半世紀ほどの歴史しか持たないロックンロールという音楽においていまだに明快な答えの用意されていない難問だ。佐野はその難問にどう立ち向かい、何を歌って行くのか、次章以降、現在につながる佐野の第三期の中心的なテーマはそのような問題意識に集約されて行くことになるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?