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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(28) まごころがつかめるその時まで

消された夢の行方

前回でこの論考はひとまず終わっているのだが、最後に『SOMEDAY』という曲について少し話をさせて欲しい。
佐野元春の先鋭的なファンであった十代の頃、僕はこの曲が好きではなかった。それはこの曲があまりに安直に「いい曲」として認知され、「佐野の代表曲」として扱われることへの反発だった。確かに『SOMEDAY』はいい曲かもしれない。だが、佐野の本領は知的でかつクレイジーなロックンロールにこそあるのであり、そうしたスピード感、疾走感を理解できないヤツらが『SOMEDAY』だけを取り上げてもてはやすのはあまりに片手落ちのように思えたし、それは佐野元春というアーティストのまるごとの魅力からすれば、あまりに一面的で狭量なアプローチだとしか僕には見えなかったのだ。
だが、僕がこの曲を好きになれなかった理由はもうひとつあった。それはこの曲が最も大切な問いに答えていないように思えたことだ。
この曲は冒頭から懐古調で始まる。「街の歌が聞こえてきて/真夜中に恋を抱きしめたあの頃」。それは街で生き延びようとする僕たちの現在のことを一貫して歌っているはずの佐野には似つかわしくないレイド・バックした姿勢のように僕には思えた。曲はこう続いて行く。「踊り続けていた/夜のフラッシュライト浴びながら/時の流れも感じないまま」。それはまるで踊り疲れた佐野が、どこかの階段に腰を下ろし、静かに昔を語っているような印象すら与える。
「窓辺にもたれ/夢の一つ一つを/消してゆくのは辛いけど」。僕には佐野がどうして夢を消さなければならないのか理解できなかった。頭の固い大人たちをキックし、システムとの闘いに勝って僕たちは自分の夢をつかまなければならないはずではないのか。僕たちはすべてのインチキにツバを吐き、無垢な自分をこそ守らねばならないのではないのか。それなのになぜ佐野は、夢の一つ一つを消すことについて歌うのか。僕はこの曲の歌詞に激しく混乱していたのだ。
その混乱は次のラインで一層深刻なものになる。「若すぎて何だかわからなかったことが/リアルに感じてしまうこの頃さ」。そこではいくつかの夢を消し、譲り渡すことの代償としての闘いが決意されない。佐野は社会の理不尽な圧迫によって放棄することを余儀なくされた夢の一つ一つに対して、ぎりぎりの窮地からまさにサヨナラ・ホームランのようなレコンキスタをこそ組織すべきなのに、この曲では『ダウンタウン・ボーイ』に顕著だった逆境のヒロイズムはついに達成されないのだ。
その代わりにこの曲で希求されるのは「まごころ」であり「信じる心」である。「SOMEDAY」、いつかまごころがつかめるその時まで。祈りのようなこの曲に、しかし、若かった僕は煮えきらないものを感じずにはいられなかった。

つまらない大人にはなりたくない

もちろん、今なら僕には分かる。佐野がこの曲で本当に希求していたものが何だったのか。夢の一つ一つを消して行くとはどういうことなのか。そう、高校を卒業し、モラトリアムとしての大学生活も終わりに近づく頃、そしてあの思い出すだけでも消耗しそうな就職活動に明け暮れていた頃、僕はそれまで自分が無責任に言い放った「つまらない大人にはなりたくない」というスローガンの本当の重さを知ったのだった。
何の責任をとる必要もない十代のとき、つまらない大人になりたくないと宣言するのはたやすいことだった。なぜなら自分は大人ですらないからだ。大人ですらない者がつまらない大人であり得る訳がない。それは初めから自分の身に累が及ぶことのない、安全で無責任で一方的な物言いに過ぎなかった。
だが、僕たちはだれでもいずれ大人になるべき時が来る。僕は紛れもなくシステムの内側に暮らしているのだし、その自分が一度は唾棄した世界で人間関係を維持し、生活して行く他なかった。だれかに人差し指を突きつけることは、結局自分を指弾することになった。稚拙で無責任な、子供としての無邪気な夢は消されるしかなかったし、また、消されるべきであった。
そして、そこにおいて僕がなお「つまらない大人にはなりたくない」というスローガンにこだわり続けるなら、僕はその内実を自ら問い直し、そこに誠実に向かい合う必要があった。もちろん僕には知らんふりをすることだってできただろう。それは本質的に内面的な問題だし、十代に言い放ったことの多くは「若気の至り」として許容され得ることだからだ。だが僕にはそんなことはできなかった。
僕は夢の一つ一つを消した。そして、「若すぎて何だか分からなかったこと」がようやくリアルに感じられるようになったのだ。それは成長することに必然的に伴う責任や主体性ということの意味だった。
『SOMEDAY』は決して若さゆえのヒロイズムにおける逆境を嘆いているのではなく、そのような成長の物語だったのだ。成長する過程で人はいつか自分の責任というものに気づかざるを得ない。そしてそこから先にもある種の無垢さ、誠実さを持ち続けることは極めて困難な課題だ。だが、いや、だからこそ、佐野元春は歌ったのだ、「まごころがつかめるそのときまで」「信じる心いつまでも」と。そのことに気づいたとき、僕は初めてこの曲を聴いて泣いた。

佐野が20年近くも前のあのとき、「つまらない大人にはなりたくない」とシャウトしたことの本当の意味はそこにあったのだ。佐野が当時シーンに持ちこんだもの、そして僕たちリスナーに示したものは、最初は若さのスピードに同期したビートの切実さだったかもしれない。しかしそれは佐野自身の成長を通じて、成長という物語を一緒に生きよう、僕たちがつまらない大人になってしまわないか互いに見届けようというメッセージとして最終的に着地し、結実したのでなかっただろうか。
『SOMEDAY』は決して佐野が老成して書かれた曲ではない。この曲は「ガラスのジェネレーション」のわずか8カ月後、4枚目のシングルとしてリリースされているのだ。佐野自身が自らの成長というきしみと対峙する中で書かれたこの曲が、結局リスナーの成長を待ち、時間をかけてそれぞれの胸の中に「決意」とか「覚悟」のようなものを形成して行った。それこそが佐野とリスナーとの約束であった。

つまらない大人にならないということ、それは大人にならないということではない。それは大人としての責任を果たしながら、それでもなお人間として生きる上での誠実さを失わないということだと僕は思う。そしてそれは空想的に達成されるのではなく、すぐれて実践的に達成されるべきものだ。それは自分の成長に正面から向かい合うことだ。経験し、学び、痛みを覚えることだ。主体的に引き受けることだ。タフであることだ。問い直すことだ。謙虚であることだ。

静寂の奏でる音

『SOMEDAY』のエンディング・リフレインで、佐野が「僕たちは今夜、雨の中に立っているんだ」と叫んでいることを知っているだろうか。そう、耳を澄ませると、この曲がフェイド・アウトする直前、荘重なオーケストレーションの向こうから、「Now, we're standing inside the rain tonight」という佐野元春の声が聞こえてくるはずだ。
佐野元春は40年間、レコーディング・アーティストとして歌い続けてきた。歌い始めたとき、彼は雨の中に立っていたし、その情況は今でも本質的には何一つ変わっていないと僕は思う。もちろん、この40年の間にロックはポピュラー・ミュージックとして日本の都市的風景の中に足場を得てきたし、佐野元春自身も大きなプレゼンスを持つミュージシャンとして成功を収めてきたということができるだろう。しかし、彼がその音楽、ロックンロールに託したものは果たしてこの国のマスにきちんと届いてきただろうか。
今、日本ではロックが市民権を得て、ちょっとテレビのチャンネルをまわせばいつでもだれかがバンドをバックに歌っているように見える。しかしその実、それがロックでなければならない必然性を感じさせるアーティストはそれほど多くはない。そして、敢えてリスクを取りながら、その前線に立ち続けようとするアーティストはさらに少ないと言っていいだろう。
もちろん佐野の営為がまったくの無駄だったという訳ではない。佐野元春は実に大きな足跡をコミュニケーションの歴史の上に残してきた。でも僕は今、敢えてこう言いたい。佐野元春がするべきことはまだたくさん残されているのだ、と。いや、今こそ佐野元春によってなされなければならないことがたくさんあるのだ、と。佐野がビートすべきシステムはまだそこにある。それはそこらじゅうにあって、僕たちの心の中にもある。この本で僕が書きたかったのは結局そういうことなのだ。
僕はあきらめない。僕は僕が若さにまかせて言い放ったスローガンの落とし前を必ずつけてやろうと思う。サラリーマンになり、家族を持ち、ゴルフをしてカラオケを歌ったってつまらない大人にならないことはできるはずだろう。僕はそのことを確かめたい。そこにおいてなお、僕がかつてやみくもに求めた「自由」や「真実」、「無垢」のありかを探し続けたい。それは社会人としての責任を忌避して隙間のような場所で経済成長のおこぼれをついばみながら自由なふりをすることよりも困難な課題かもしれない。だが僕はその道を選んだのだし、それは決して不可能なことではないはずだ。
今、僕たちが毎日呼吸しているこの世界が何らかの意味で困難な場所であるなら、僕はその困難な場所でこそ生き延びたい。僕は当事者として僕自身の生に関わり続けたい。救いのない現実や孤独に何度も絶望しながら、そしてそれでも何か信じるに足るものを探しながら、真実の残像に目をこらしながら。
僕の足はまだ地面についている。レコードが最後の音を奏で終わった後、世界が再び騒々しく動き始めるまでのほんのわずかな一瞬の静寂に僕は耳を澄ませていたい。(了)

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