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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(22) 時代と切り結ぶ意志

時代と切り結ぶ意志

引き続きアルバム「Stones and Eggs」について考えてみよう。

このアルバムが、トータルにバランスの取れた会心の名作か、佐野自身の内発的な動機だけに基づいて、100%のアーティスト・エゴを出しきって制作されているかと問われれば僕は首を傾げざるを得ない。ここにはあまりに生硬で完成を急がれた言葉と、何かに対する配慮、あるいは何かの制約の下で制作したかのような不自由さが色濃く感じ取れる。
優れた表現者は時代と切り結ぶべき宿命を負っている。何が今、最も問題とされるべきなのか、自分は今、何を指さすべきなのかということを意識しながら、自分の表現がどうやってそうした問題意識とビビッドにリンクして行くかを模索すること、どうやって時代の最前線に立ち会い続けそこで起こることと関わって行くかということ、それが表現者に求められる最も重要な資質である。
こうした課題はもちろんさまざまな方法で試されて行くだろう。だが、ことロックンロールに関する限り、そこで決定的に必要とされるのは直接性というモメントだ。ロックンロールという武器を選ぶとき、そこには他のどんな表現にも増して時代と深くコミットし、その問題意識の最も先鋭的な部分と添いとげるべきミッションが生まれるし、そこにおいてもってまわった芸術性は邪魔でしかあり得ない。なぜならロックンロールは本質的にティーンエイジ・ミュージックだからであり、若さにおける苛立ちにはその理由を考える暇など与えられていないからだ。
ロックンロールは、そのような苛立ちを理屈抜きにたたきつけるためのメディアだ。だからそこではビートやスピードが決定的な役割を果たす。自分の気持ちの動きに最も近い言葉が力を持つ。直接性というのは、結局いかに対象と同期するかということであり、その苛立ちのスピードを共有できるかということに他ならない。ロックンロールはその直接性に支えられた表現なのだ。
そのようなロックンロール観を前提とするとき、年齢を重ねるということはアーティストにとって時として致命的なダメージになり得るだろう。ロックンロールがそのような時代性と深く関わった音楽であり、直接性を重要な契機とする音楽である限り、アーティストは常にその時代意識、問題意識をアップデートし続けなければならない。彼の時代感覚が時代のありようとずれ、アウト・オブ・デートになるとき、そこに残るのはこっけいな道化に過ぎないのだ。
年齢を重ねながら、そのような時代感覚を持ち続けることは決して容易ではない。大御所になってもはやアウト・オブ・タッチな大作を発表し続けたり、築き上げた業績を囲いこんでディナー・ショー的な予定調和に立てこもったり、そんなふうに「上がり」になったり、「降りて」しまったりせずに、「ただのロックンロール」を奏で続けることはたやすいことではない。
だが、ロックンロールがティーンエイジ・ミュージックであることを意識するあまり、彼らに媚びようとする態度も逆にまたロックンロールをスポイルして行く。ことさらにお子さまのために作られた幼稚で稚拙なロックンロールは、直接性という本質的な契機の対極にある。それは彼らを見くびり、見下した態度に他ならないからだ。
結局、年齢を重ねたアーティストが、それでもロックンロールを奏で続けるためには、時代と切り結びながらそのさまをあるがままにたたきつけて行くしかない。それは壮絶なサバイバル・ゲームだ。自らの時代感覚が少しでもアウト・オブ・デートになれば、彼は容赦なく置き去りにされるだろう。そして時代感覚が確かでも、それをたたきつけるだけの体力や表現力が枯渇すれば彼はやはり最前線に立ち続けることができないだろう。彼は闘い続けるしかないのだ。過酷なようではあっても、それがロックンロールという言葉の意味なのだ。表現というものの本質なのだ。
このアルバムが僕にとってしっくり来ないとすれば、それはそこに僕が佐野元春の不要な「気負い」を感じてしまうからだ。鋭敏な時代感覚をただ自分の信じる言葉とビートに乗せてたたきつける。それだけが必要なことであり、それで十分のはずなのだ。それだけで力を持ち得るものだけが優れたロックンロールになるのだし、その力のないものにはそれ以上に何をくっつけたってそれでダメなものがよくなる訳ではないのだ。ところがここで佐野は自分の表現が十代の連中に届くかどうかということを意識しすぎているように思える。どんなビートが、どんな言葉が、現代のティーンエイジャーたちに似つかわしいかを考えすぎている。
繰り返して言うが、それは佐野自身の時代感覚が確かであれば、そしてそれをたたきつけるだけの力があれば自然に届くものなのだし、そうでなければいくら考えたところで現代のティーンエイジャーにぴったりのライムがみつかる訳ではないのだ。僕がむしろ『GO4 IMPACT』に強い吸引力を感じるのは、降谷建志のリミックスがそのような「配慮」や「気負い」とは無縁のところで、奔放にしかし注意深く構築されているからに他ならないだろう。
デビュー20周年を前にして、佐野はそのようなティーンエイジ・ミュージックとしてのロックンロールの本質と、長年支えてくれたファンへの感謝、彼らを喜ばせなければならないという気持ちとの間で、アルバム全体の焦点を絞りきれないまま制作しなければならなかったのではないだろうか。その結果、『驚くに値しない』や『君を失いそうさ』、『だいじょうぶ、と彼女は言った』、『シーズンズ』など楽曲としては高い水準のナンバーを揃えながら、これが今の佐野元春だというポイントに欠ける作品となって結実せざるを得なかったのではないかと思う。
そうしたさまざまな衣装の曲にそれぞれ意味と場所を与え、全体としてこのアルバムを背後から統合するべき曲は『石と卵』だったはずだ。しかしこの曲が弱々しいファルセットで歌われたことでその意図が伝わらず、このアルバムは全体を一つにまとめる「輪」を欠いたものになってしまっていると僕は思う。このアルバムはもっと自由に作られるべきではなかったか。もしこのアルバムが、どこか散漫に、あるいはもどかしく感じられるとしたら、その原因はそんなところにあるのではないだろうか。

ただ一つの真実

アルバム「Stones and Eggs」はデビュー20周年をひかえた佐野が、これまでのリスナーの支持に対する率直な感謝を表明するとともに、自身の表現がコンテンポラリーなロック・シーンの中でどのように位置づけられるのかということを意識したアルバムだった。その表現の中にはこなれないものもあり、作品として必ずしも成功したと言い難い部分もあるが、ともかくそれはそのような佐野のコミットメントの象徴であった。「石と卵」というタイトルは、自分の中の受け継がれるべきもの、固くいつまでも変わらないものと、いつでも新しく生まれるもの、その中に柔軟で暖かい生命を秘めたものの対比に他ならない。
このアルバムの発売を受けた全国ツアーの後、佐野は1999年12月に1枚のシングルをリリースした。そのタイトルは『INNOCENT』、この年の3月にファンクラブ・メンバー限定のプレミアム・ライブ「driving for 21st, monkey」で披露された『ありがとう』を改題したものだ。「ありがとうと君に言えるのが嬉しい」というフレーズで始まるこの曲は、アルバム「Stones and Eggs」にも増して率直な感謝の表現になった。
この曲のビデオでは、年輩のカップルと、2人の若い女性が、輝くボールを慈しむように手にとっている。輝くボールはかつて佐野が『スターダスト・キッズ』のテレビCMの中で使ったアイテムであり、その曲で佐野は「本当の真実がつかめるまでCarry on」と歌っていた。今、『INNOCENT』で佐野は「君がただひとつの真実」と歌う。輝くボールが18年の歳月を経て再び登場したことの意味、そしてこのビデオのキャスティングはおそらく重要なことを示唆しているはずだ。
佐野がこの歌をハード・エッジで瑞々しいビートに乗せて歌うとき、僕たちは世界が僕たちに開かれるのを見る。長い闘いの末に、何かを楽観することの強さ、何かを信じることの意味を知る。そしてまた、僕たちは僕たちの「約束」が無効になったのではないことを知る。いや、むしろ、「約束」がロールオーバーされ、年月に試されて今こそ僕たちの生の核心に迫りつつあることを知るのだ。
若さそのものを大きな動因としたティーンエイジフッドとの幸福な蜜月であり約束を交わす時期であった第一期、交わされた約束と自分自身との成長との相克の中であり得べき誠実さの隘路を探そうとする長く困難な時期であった第二期、そして成熟や死、老いや衰えという不可避な人生の問題に向かい合う時期として、現在に続く第三期。僕たちがそのような長い歳月をくぐり抜けながらそこで生き延びようとするとき、僕たちが交わした「約束」は、そのひとつひとつの局面で僕たちのあり方、僕たちのコミットメントを問う厳しいスタンダードとなって行くだろう。そのようにして僕たちの「約束」は続いて行くだろう。この『INNOCENT』という曲は、かつて佐野とリスナーとの間で確認されたものが、さまざまに形を変えながらもその本質においてこれまで継承されてきたこと、そしてこれからも継承されて行くべきことを示唆した特別な作品であると言えるだろう。そのことは何より、佐野が、そして多くのファンが長い間こだわり続けてきた「無垢」を、そのまま曲タイトルにしたことに表れているのではないだろうか。


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