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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(19) 交差点

ウッドストック

1997年8月、佐野元春は新しいバンドのメンバーとともにアメリカに渡った。新しいバンドとはアルバム「FRUITS」のレコーディング・セッションを通じて集まり、「International Hobo King Tour」、「Fruits Tour」そして「Fruits Punch」という3回のツアーを経て佐野との紐帯を強めてきた「International Hobo King Band」(後に「Hobo King Band(HKB)」に変更)。プレイヤビリティの高い5人のメンバーを従え、佐野が向かったのは数多くのロック伝説を生み出した場所、ウッドストックだった。
ウッドストックはまた、バンドのメンバーの「交差点」でもあった。1960年代後半から70年代はじめにかけてのアメリカン・ロック、ウッドストック・フェスティバル、それらはこのバンドのメンバーがそれぞれに衝撃を受け、愛し、音楽を生業とする上でその底流に抱き続けたロックの原風景であった。さまざまなキャリアを経たこのバンドのメンバーの共通言語はザ・バンドでありボブ・ディランだったのだ。バンドとして初めてのアルバムをレコーディングするとき、彼らが原体験の交差点であるウッドストックをその場所に選んだのは自然なことだったのかもしれない。
プロデューサーはザ・バンドを手がけたジョン・サイモン。レコーディングはそのザ・バンドのガース・ハドソン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャンらを迎えて、ウッドストックのベアズヴィル・スタジオで行われた。

このレコーディング・セッションの結果は、1997年12月、「THE BARN」というアルバムとしてリリースされた。このアルバムのいちばんの特徴は、いうまでもなくそのウッドストック・レコーディングによるアーシーでアメリカン・ルーツに忠実なサウンド・プロダクションである。年季の入ったアナログ機材を使い、楽器もハモンド、アコーディオン、スライドなどを中心にしたオーソドックスな構成で、ふくよかで丸みのある、余韻の深い響きを生み出している。佐野元春の音楽を総括するときに僕たちがどうしてもロックンロールという言葉を使わずにいられないのだとしたら、このアルバムで試みられているのはまさにそのロックンロールの生まれ、成り立ちを明らかにするような音作りであると言えるだろう。
こうした方向性はもともと佐野の中に潜んでいたものではあったが、それがHKBという新しいパートナーを得たことや、ウッドストックという場所、そこに結びつく人々に息づく伝統に触発されたことで、自然に顕在化してきたものだと思う。ロックンロールという音楽はせいぜい半世紀程度の歴史しか持たない音楽だが、それでもそこにはその始まりから現在に至るまでの起伏に富んだ物語があり、一貫して受け継がれてきたスピリットがある。ウッドストックという場所、そこに結びつく人々にはそうしたロックンロールの歴史の生き証人として見守ってきた「生きた知恵」があるはずなのだ。日本という極東の国、ロックンロールの最果てで、ロックンロールの「心意気」にだれよりも強い憧憬を抱き、それを追い求めながら音楽活動を続けてきた佐野にとって、この場所でレコーディングを行い、その「生きた知恵」に触れることはエキサイティングなできごとだったに違いない。このアルバムによって佐野元春は脈々と続くロックンロールの歴史に連なろうとしたのであり、そしてその願いがまずこのアルバムのアーシーなサウンド・プロダクションとなって表れたのだと言ってよいだろう。

答えはいつでもそこにある

個々の楽曲も落ち着いたトーンの「成熟」を感じさせるものが中心だ。例えば『ヘイ・ラ・ラ』。「借り物のこんな変な街でも 信じたいものがないわけじゃない」「さえない気持ちはどこかに捨てて 生きているうちにすてきな夢を 夢を見るのさ」と歌われるこの曲では、かつてのように性急で焼けつくような「自由」や「真実」への欲求の代わりに、ままならない日常をそこにあるものとして受け入れながらもその中に何か信じるに足りるものを探そうとする静かだが確固とした願いが見てとれる。それは僕たちの生が所詮は限りある不完全なものであることを知った上で、いや、だからこそ日常の小さな泡のような輝きに普遍的なもののかけらや残像を見出しながら食いつないで行こうとする態度であり、佐野が前作以降自らの「成熟」と向かい合う中で模索してきた誠実さのひとつの表れに他ならない。
この曲の最後に佐野は「シャララ」と歌う。かつて何度もそうしてきたように、「シャララ」は佐野のぎりぎりのオプティミズムだ。思い通りにならないことはたくさんある、でも、オーケー、暗い顔をしていても何も始まらない、どんな明日になるのか分からないのなら、笑ってみることだ、歌ってみることだ、「シャララ」と。

あるいは『誰も気にしちゃいない』。プロテスト・ソングの形を借りたこの曲で佐野は、しかしだれか、何かを名指しで非難する訳ではない(「メディア」をすら佐野は直接に指ささない)。佐野はただ、「どうしてかなんて聞かないで。なぜなの?とはきかないで。」と歌い、「せつない、ただせつない」と嘆いてみせるだけなのだ。
だがもちろん佐野は世界に対するコミットを放棄した訳ではない。利害が複雑に錯綜し、知らない間に自分も社会の側に組み込まれている現代社会のシステムの中で、もはや一義的な「悪」や「敵」は存在し得ないということを前提に、情況的な問題そのものより、その問題と向かい合うひとりひとりの問題意識の方に主体的な関心を移さざるを得ない僕たちの場所のことを佐野は歌っているのだ。誇りをなくした子供たち、悲鳴を上げる母親たち、夢をなくした国、庭を荒らされても何も言えず、本当のことが知らされない、それらはすべて情況や社会の問題ではなく、僕たちの主体性、コミットメントの問題であり、本質的に内面的な問題なのだと佐野は看破したのではないか。
ラスト近く、佐野は「ここはサーカス小屋じゃないんだよママ それはただの気取りさ」と高い声で歌う。それはそんな情況を他人事のようにしか批判できないテレビの前のマスに向かってこそ突きつけられたナイフ・エッジであり、ここに佐野がシャウトよりハイトーンを選んだ必然性も見えるだろう。

『風の手のひらの上』もそうだ。「無傷なものなんて そうさ どこにも見当たらないのさ」「憂いてみても始まらないのさ」と歌うこの曲の英文タイトルは「The Answer」。身繕いをしながら「仕方がない」と言う彼女、過去にこんがらがって足下がふらついていたさびれた駐車場、街の灯から遠く離れてアリバイを探し続けた夜、そんなイメージをカット・バックしながら、それでも佐野はこう歌う。「答えはいつでも形を変えてそこにある 風の手のひらの上」と。それはかつてボブ・ディランが「答えは風に吹かれている」と歌ったことと確実に呼応している。デビューから18年、佐野はようやく敬愛するボブ・ディランにストレートなオマージュを捧げることができるようになったということなのかもしれない。
「答えはいつでもそこにある」という認識、それは「無垢の円環」をテーマにしたアルバム『The Circle』からつながる大切な「成熟」へのステップだ。さまざまな問題の本質的な原因をどこか外側に求めるのではなく、それと向かい合う自分自身のコミットメントの問題として理解すること、それによって「答え」の意味は根本的に異なってくる。「答え」はいつも僕たちのすぐそばにあって、ただ気づかれるのを待っている。そう、「風に吹かれている」のだ。僕たちは問題の成り立ちを知ることによってその答えが結局僕たちの受容のあり方そのものだということに気づくだろう。

このアルバムはロックンロールの歴史につながろうとすること、そしてその中で自らの連続性と成熟に誠実に対応した音楽を作ることというふたつのモメントを核にして制作されたものだということができるだろう。その結果、このアルバムは音楽的にはアメリカン・ルーツを現代に再構成した、非常に高い完成度を誇る作品となった。また曲の内容も躍動感を感じさせるよりは洞察の深まりや底流にある意志の固さ、確信の強さを印象づけるものが中心だ。ただ、このアルバムがウッドストック録音という特殊な環境の中で制作されたものであることを考えるとき、特にサウンド・プロダクションが前後のアルバムとの間に一定の断絶を含んだワン・アンド・オンリーのものであることもまた指摘されなければならない。このアルバム単体としてみれば、そのテンションの高さ、統一感のあるサウンド・プロダクション、曲のできのよさなどから、佐野のキャリアの中でも代表作の1枚に位置づけられてよい作品であるが、佐野の作品群の中ではかつてのアルバム「VISITORS」と同じく周囲の情況に強い影響を受けた一回性の強い作品であることもまた同時に認識された方がよい。

完成したアルバム「THE BARN」を携えて帰国した佐野は、その公式なリリースに先駆けて、97年10月、「アルマジロ日和」と名づけられた全国主要都市でのクラブ・サーキットを行い、リスナーにいち早くアルバムの収録曲を披露した。この優秀なアルバムはしかし、現代の音楽としてリスナーとの間にどのような像を結んだのだろうか。このアーシーで豊穣なアルバムは今日的なロック・シーンの中でどのように機能するのだろうか。そのことについては次章であらためて考えてみることにしたい。

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