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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(27) 都市生活者の系譜

都市生活者の系譜

結局、佐野元春が長い時間をかけて築き上げたもの、勝ち取ったものとはいったい何だろう。そして僕がアーティストとしての佐野を追い続けた結果として手にしたものとはいったい何だろう。
端的に言えばそれはビートの解放だったのではないだろうかと僕は思う。あるいはロックンロールの再発見と言い換えてもいい。ロックンロールという名の下に、幅広い音楽的、文化的バックグラウンドの中からコンテンポラリーな問題意識に呼応するものを選び出し、因襲的な共同体によって疎外されていた新しい世代に提供したこと。それは音楽でありながらもはやひとつのライフスタイルとして、高度に発達した資本主義、大衆消費社会に生きる都市の子供たちにリアルなビジョンを示したのだ。
だからこそ、佐野の音楽は、一時期「宗教がかっている」とまで形容されたほど、僕たちの精神の奥深くまで入りこむことになった。それは所詮ただのロックンロールでありながら、そのルーツにまでさかのぼる起伏に富んだ物語やスピリットを確実に継承し、その歴史に連なっていた。あるいはその背後に広がる文学や映画、アートなどとのスリリングなクロスオーバーをも内包していた。そうしたサブ・カルチャーとしての広がり、奥行きを備えていたために、佐野元春の音楽は単純に消費されることなく、ひとつのメディアとして生き残ってきたのだし、受容されてきたのだ。

僕は1965年生まれだが、僕がものごころついたとき(それは佐野が多感な少年時代を過ごしていた時期と一致する)、大家族的な共同体は既に都市生活の風景から消え去りつつあった。日本が高度成長を終え、オイル・ショックにぶつかり、経済が安定成長に移りつつあった時期、それは素朴でシンプルな資本主義が発達、成熟し、情報資本主義とでも呼ぶべきものに変貌していった時期であり、衣食に不自由のない大衆消費社会が出現し完成した時期であった。それは社会の諸相においてさまざまな、そしてしばしばドラスティックな変革を迫ったが、中でも重要だったのは、地縁や血縁を機軸にした旧来の共同体の崩壊であり、核家族化を契機とした都市的な生活環境の出現であった。
僕がここで都市的と呼ぶものの具体的内容については第1回で既に述べたところだが、そのような社会構造の変容は、そこに生きるひとりひとりの個人の精神構造にも必然的にある種の適応を迫らざるを得ない。僕たちの世代は、そのように社会のありようが大きく転回し、旧来の価値観が崩壊した直後の(あるいは崩壊するさなかの)、手本にするべきものとてない思想的空白から始める他なかったのだ。
そのような新しい都市的風景の中で育った僕たちの世代にとって、都市化を否定し、伝統的な共同体に回帰しようとする思想はもはや採り得ないものであった。なぜなら、いかに都市化がそれまで想像もしなかったような新しい種類の問題をはらんでいるとしても、それを理由に何かが昔と同じでないことを嘆いたり、どこかへ戻りたいと考えることは本質的に傲慢で怠惰な態度に他ならないからだ。それは目の前で起こっていることの意味を意図的に矮小化して受け止めるという意味で傲慢であり、時間の流れの不可逆性に対する想像力を欠くという意味で怠惰なのだ。僕たちは、僕たちの時代の一回性、固有性に対して謙虚でなければならないし、個別の現実に対して意味を持ち得るのはその固有性を前提にした議論だけなのだ。
僕たちは都市に生まれた都市の子供として、そこにあるものを受け入れながら、そこでいかにして生き延びるかということを考える他ない。佐野が成し遂げたビートの解放とは、つまりはそのような子供たちに生きる知恵を分け与えるということであったのではないだろうか。かつて佐野は「あなたはどういう傾向の食べものが好きですか?」という質問に対して次のように答えている。長くなるが引用したい。

「ボクは自分を戦後の『偉大なるジャンク・フードの世代』だと思っています。いまスーパーマーケットにあるような食品はみんなジャンク・フードです。マクドナルドのハンバーガー、そして街で売られているファースト・フードと呼ばれるもののほとんど、とても日本的なインスタント・ラーメンの数々、ケバケバしい色で飾られたお菓子類、これらはみんなジャンク・フードです。まともな食品なんてなかったともいえる。これから先、『健康に悪いからジャンク・フードを作るのをやめよう』ということになるかもしれない。でも、ボクの時代はそれを食べてきたし、ボクはジャンク・フードで育ってきた人間です。その結果、カラダがどうなろうと、かまやしない。食文化がこれから先どうなるかは知らないけれど、ボクは、これから先も変わらずスーパーマーケットに食品を買いに行くだろうと思います。」(「ELECTRIC GARDEN」)

この佐野の発言に僕は、佐野の、自分たちはもはや都市生活から逃れることはできないのだという認識と、そうである以上そこにあるリスクを受け入れながらそこで地に足をつけて歩いて行く以外にはないんじゃないかというような、ある種の決意に裏づけられた楽観性、肯定性とでもいったものを感じるのである。
つまるところ、都市という場所は自己責任と自己決定を本質的な契機とした主体的自我の集まる空間であり、佐野はそのような場所としての都市を、自分を含めた新しい子供たちの居場所として主張したのだった。日本が高度経済成長の過程で目に見える共同体を失い、しかも戦後民主主義が権利と表裏一体をなす責任の負担について考えることを怠ってきたため近代的な「市民」概念の形成に失敗して、実体としては「大衆」に過ぎない「エセ市民」をしか持つことができなかった中で、自己決定と自己責任が「自由」というひとつの概念の両面であるということ、そして都市生活の中で必要とされる「個」のありようについて、佐野は僕たちに伝えようとしたのだ。

このように考えるとき、佐野元春は僕にとって、単なるロック・シンガーではなく、かけがえのない教師のような存在であったということができるかもしれない。第16回で述べた通り、僕は佐野の力を借りて成長してきた。佐野の歌に自分を投影することで自分の位置を確かめ、泣き、笑い、背中を押され、怒り、そのようにして毎日をロールオーバーしてきた。有り体にいうなら、僕は佐野元春の音楽を愛してきた。
今、僕が佐野元春について考えるとき、僕は自分が佐野の影響を受けたことを心から誇りに思う。僕は都市生活の中で生き延びる知恵を、佐野から学んだ。自由とは何か、「個」とは何かを佐野をテキストにして学んだ。そのことが僕は嬉しいし、そして僕はそのことをだれかに伝えずにはいられない。そんなふうにして都市生活者の系譜は受け継がれて行くんじゃないかと僕は思っているのだ。

僕はここにいる

僕はこの原稿の大半をドイツで書いた。1995年にデュッセルドルフに赴任して以来、7年間を僕はここで過ごした。29歳から36歳までの7年間、僕は悪くない経験をしたと思う。故郷から遠く離れた異文化の中でマイノリティとしての自分の存在を主張する営みは僕を鍛え、強くした。外国語を使って議論をすることで僕は今まで当たり前だと思っていたことの意味をもう一度自分に問い返すことになった。海外に暮らした7年の間に、僕は僕自身をいろんな角度から見直すことになった。それは大きな経験だった。
僕が会社から帰国の内示を受けたのは2002年1月のことだった。それまで住んだことのない東京での勤務になった。もちろんドイツを去ることには淋しさもあるし仲良くなったドイツ人たちと別れるのは辛いことだった。だけど僕が時間の不可逆性を肯定しようとする限り、どんなものも一つの場所にとどまり続けることはできないということを僕は受け入れなければならない。7年は長い時間だったが、確かに僕はそろそろ生まれた国に帰るべき時期に来ていたのだった。
環境が変わることで僕自身もまた少しずつ新しく変わって行く。僕がこれまで変わり続けてきたように。そう、僕は随分変わった。顔つきも、考え方も、食べ物の好みも、つきあう友達も、読む本も。僕は大人になった。自信をもって僕はそう言える。そう言わなければならない。僕はもうどこにも後戻りできないからだ。僕はたくさんのものを譲り、失った。しかしまた同時にいくつかの大切なものを手に入れた。それを僕は僕の「生」と呼べる。僕は1秒だって同じ僕のままではいられない。僕は僕の「生」を肯定しなければならないのだ。なくしたものと手にしたものを毎秒決算しながら、僕は僕自身を肯定し続ける。そうでなければ生きている価値なんて初めからないのだから。

僕は佐野元春を支持して行く。佐野元春が佐野元春であることそれ故に。もちろんそれは佐野の作品を無批判に受け入れるということではない。むしろ受け入れられないものは受け入れられないとはっきり表明することで、僕は僕が佐野を支持することを明らかにしたい。佐野が全力でたたきつけてくるビートに、僕は真摯に向かい合おうと思う。そうしたアーティストとリスナーの緊張関係こそが、音楽を成長させて行くのだろうと思うからだ。
あの時、ドイツに持って行き、また日本に持ち帰った佐野の古いアルバムは、今もまだこの部屋にある。

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