見出し画像

都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(15) 透徹した視線

「イノセンスのドグマ」の超克

無垢さは失われるものではなく、人生の重要な局面で円環を描きながら繰り返し立ち現れて行く。アルバム「The Circle」で佐野元春は、「無垢」の本質をこのように看破し、描写することによって、イノセンスとそこから派生する「自由」や「真実」に対する希求が次第に自己目的化し、自身を成長から疎外してその表現の手足を縛って行く「イノセンスのドグマ」を超克しようとしたのだった。
いうまでもなく、イノセンスはどこか遠くにあるのではない。「自由」や「真実」にしても同じだ。それらを自分の外部、どこか遠くに見出そうとする考え方は、必然的に自己の無謬と無責任を前提にしている。今ここにイノセンスや「自由」、「真実」がないのはだれかがそれを自分から奪ってしまったからだ、僕たちはそれを取り戻さなければならないのだ、と。
だが、それは一方的で稚拙な二元論に過ぎない。世界には「善」の陣営と「悪」の陣営があってそれらが二項対立的に対峙しており、世界のすべての問題や対立は最終的にそこへ回収されるという世界観は、冷戦の終結とともに破産したはずだ。自分は間違いを犯さない純粋な存在であり、だれかがそれを一方的に汚そうとしている、自分を真実から遠ざけようとしているという考え方は、そのようなドグマ化した二元論的な価値観を背景にしている。実際には「善」と「悪」の間のグラデーションこそが世界そのものであり、僕たちはそうしたグラデーション的な多様性の中に自分を位置づける作業をこそ、自己発見のための営為としなければならないのに、「自由」や「真実」の不在を自動的に、悪意のあるだれかや「社会」、「システム」のせいにし、自分をレコンキスタを闘う純粋な存在だと何の検証もなく決めつけるやり方は、結局そうした世界の実像に対する想像力や考察を欠いた怠慢で手前勝手な価値観、世界観の所産に他ならない。
もちろんそうした世界観はシンプルで分かりやすいし自分を安心させてくれる。だがそれは自分という存在を対象化、相対化してそれと向かい合うということ、自己の本質を厳しく問い、洗い直すということから来る本源的な葛藤を回避した安易な便宜論に過ぎない。それは多様性や相対性の中に自分の場所を見つけ出そうという困難な、しかし本質的な作業を放棄し、弱さというシェルターの中に立てこもる逃避的な態度だ。それは最初に佐野元春が都市生活の喧噪の中に新しい子供たちの居場所を探そうとした方向性とはまったく対極に位置するものだと言っていい。
無垢は円環を描いて繰り返し現前するという考え方は、こうした自己の無謬性を無批判に前提した二元論的な「イノセンスのドグマ」を無効にした。無垢は常にそこにあり、ただそれが人生の重要な時期に形を変えて繰り返し現れるだけなのだとすれば、それは僕たちの外側、どこか遠いところにあって探し求められるのではなく、むしろ自分の中にあって「気づかれる」のを待っているのだということができるだろう。そしてそうであれば「真実」も「自由」も、それはだれかに奪われたりなくなったりするものではなく、ただ自分の心のありようの問題として、今ここにあるものとないものをどのように見定めて行くのかという主体的な「受容」の基準に他ならないということが理解されるだろう。
すべての問題は個人的な問題に過ぎない。社会的な問題も、結局は社会と向かい合いそれと関わって暮らす無数の個人の、それぞれ主体的な受容の問題の総体に他ならない。このような認識に立つとき、自己の主体性を無謬性の背後に棚上げし、その外側にすべての原因と解決を求める方法論が、いかに稚拙で何の役にも立たない観念論でしかないかということはもはやはっきりしている。
こうして佐野は「イノセンスのドグマ」から自らを解放したのだった。その意味でこの「The Circle」というアルバム、中でもこの『ザ・サークル』というタイトル・チューンは極めて重要だ。すべての佐野のリスナーは「さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実ももうないのさ」という歌詞の意味をもう一度重く考えてみる必要があるだろう。

すばやく叩け すみやかに動け

『欲望』と題されたオープニング・ナンバーで、佐野は「何もかもが手に届かない」と激しくシャウトした後、「届かない、そんな気がするのさ」とささやくように繰り返す。「地下鉄の窓に映る欲望」とはいったいどんな欲望なのか。「グッド・ラックよりもショット・ガンが欲しい 君を撃ちたい」とはどういうことなのか。散文詩のような言葉の突端から突端へと糸を張り巡らし、聴き手の中にさまざまな感情を喚起して行く。佐野が自信を取り戻しているのが分かる。
次の『Tomorrow』で佐野は「作り話はいらない ただすばやく叩け すみやかに動け」と歌う。なにもかもよくなりつつある、ヤツらを自由にさせてやれと歌われるこの曲で、佐野は確実に新しい「解放」を求めている。そこには「TIME OUT!」や「sweet 16」で見せたような戸惑いや迷いはもうない。自分の成長というテーマに決着をつけた今、佐野はようやく前を向いて「次」を歌うことができた。だからこそ佐野は、歌詞に一度も現れない「明日」という言葉をこの曲のタイトルにしたのだ。
『君を連れてゆく』も重要な曲だ。佐野はこの曲を『Heart Beat』の後日談だとしているが、かつて夜明けのクルマの中で身を寄せ合っていた街のナイチンゲールと小さなカサノバは今、愛も、仕事もやり直して、新しいルールを作るのだと誓い合う。何かを元に戻そうとか昔と変わらないものを探そうとするのではなく、変わること、変わり続けることを受け入れた上で、その中でなお信じるに足るものを見出そうとする透明な視線がそこにある。
このアルバムのトーンは決して楽観的なものではない。楽しくてウキウキするようなビート・ポップはここにはほとんどない。むしろこのアルバムを貫いているのは時として重苦しくさえあるようなシリアスなトーンであると言ってよい。だが、それにもかかわらず、僕はこのアルバムがまるでトンネルを抜けたように清々しい息吹に満ちているのを感じる。それはこれまで大切にしてきたものの意味をもう一度問い直し、必要のないものをすべて削ぎ落として、本当に本質的なものだけを残した結果に他ならない。もちろん愛着のあるものを捨て去るのは勇気のいる作業だ。それは自分のアイデンティティを棚卸しすることと同義であり、自分の肉を切って血を流すということだ。だが佐野はそれをやった。だからこそこのアルバムは激しい否定の言葉に満ちていながら決してネガティブに響かない。むしろ一切合切の幻想や錯覚を切り捨てたところから始まる、冷たくはあっても安定し、透徹した佐野元春のまっすぐな視線だけが強い印象を残して行くのだ。
このアルバムにも収録された先行シングル『彼女の隣人』が示唆していたように、このアルバムは「祈り」のアルバムだ。佐野はここで祈り、そして求めている。切実に希求している。それはサバイバルの意志だ。自分の成長を受け入れ、いくつもの苦い経験を自分の内に眠らせながら、それでもこの世界の中で自分の居場所を探したい、そうせずにはいられないという生存の「欲望」。もちろんそれは美しいばかりでは決してない。その過程で僕たちは必然的にだれかを傷つけるし、時として手を汚すこともある。だがそれは僕たちの生が生きるに値しないものであることを意味しない。僕たちが聖者でない以上、僕たちはそのようにあがきながらしか生きられないからだ。佐野は、そのような場所で生きることの意味をここで問うている。そしてそのような場所で生きるための知恵を探している。そのような場所で生き延びたいと願っている。僕たちと同じように。
ストレートな8ビートを排したこのアルバムのヘヴィなグルーブは、そのような佐野の祈りに呼応している。ブルースと呼んでもいい。あるいはゴスペルと呼んでもいい。初期からずっと続いてきたイノセンスを探す長い旅をひとまず終息させることによって、佐野は等身大の自分と向かい合い、次なる旅を準備することができるようになった。そのようにして都市生活を生き延びて行く意志と知恵。それこそ何より佐野元春が希求したものであり、僕たちが佐野の内に信頼したものであった。

このアルバムは必然的にひとつの「終わり」を示唆している。このアルバムの見晴らしのよさがそのような「終わり」に支えられていることは明らかだ。だが、佐野がその次にどの扉を開くのかということはここではまだ示されていない。こうしたひとつの終わりを経て佐野が何を手許に残し、どのように変わりながら次のステップに進もうとしているのか、それはテーマとして次作以降に残されることになった。
先行シングルの『彼女の隣人』を除いて、佐野はこのアルバムから1枚もシングルをリリースしていない。その代わりに、このアルバムから3曲分のクリップを収めたビデオ「Visual Expression of The Circle」と、5曲のリミックスを収録したミニ・アルバム「Dance Expression of The Circle」という二つのアイテムをリリースしている。そしてプロモーションのために行われたツアーは「Live Expression of The Circle」と位置づけられた。
このアルバムで到達した認識は、佐野をさらに重大な決心へと導いて行く。ツアーが終わった1994年4月、佐野はファンに対して、10年以上をともに過ごしたバンド、ザ・ハートランドの解散を発表したのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?