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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(24) 変容する世界

光―The Light

レコーディングが思うように進まなかった2001年の9月、アメリカで乗っ取られた旅客機がニューヨークのワールド・トレード・センターに衝突するテロが発生した。この事件は、その全容が明らかになるにつれ、世界に大きな衝撃をもたらした。
東西ドイツの再統一やソビエト連邦の解体などに象徴されるように、長く世界を規定してきた二項対立的パラダイムの最上位のレイヤーとしての東西冷戦は終了したが、それは決して平和で安全な世界の到来を約束しなかった。政治思想の違いよりは宗教的な不寛容さや経済的な格差に起因する争いが、多くは国家間ではなく内戦やテロの形で戦われるようになり、それは大国にとってもよりコントロールの難しい暴力の応酬になった。
世界同時多発テロと名づけられた「9.11」はそうした新しい世界の実相を露わにした。長く本土で戦争被害を経験しなかったアメリカは、自国の経済の中心でツインタワーが攻撃を受けて倒壊するのを目の当たりにした。僕たちは、自分が楽観的に前提にしていた平和で豊かな社会が、実は世界の複雑に絡み合った歪みの上に成り立つ脆弱な幻想に過ぎないという事実を突きつけられた。僕たちはその世界の歪みの中に否応なく取りこまれ、そこから勝手に「降りる」ことすらできない存在であり、その歪みの中では圧倒的に「憎悪される側」に近い場所にいるのだということを改めて思い知らされたのだ。
佐野もまた、この事件に強く衝撃を受け、深く触発された一人だった。9月18日、佐野は『光―The Light』と題する曲を急遽ネット上で公開した。だれでも無料でアクセスできるこの作品は、数日の間に10万件近くダウンロードされた。時間を惜しむようにイントロもなく歌いだされるこの曲で、佐野は「憎しみの鎖断ち切るまで」「この祈りが届くように」と歌う。どんな言葉も巨大で暴力的なシステムに空しく吸い取られて行くようにすら感じられたテロ直後の世界で、佐野はそれでも声を上げることを選んだ。
佐野の作品の中で、「生き延びること」が次第に大きなテーマになって行くひとつのきっかけはこの事件であったと思う。変容する世界の実相は、僕たちの思考のあり方にも確実に影響を与え始めていた。

植民地の夜は更けて

佐野は新作のレコーディングを続ける一方で、2001年9月と2003年11月の二度に亘ってポエトリー・リーディングのライブを行っている。
1985年のカセットブック「エレクトリック・ガーデン」以降、バック・トラックに乗せて詩を朗読するポエトリー・リーディングは、佐野の音楽表現の中でも重要なサブ・チャネルとしてことあるごとに佐野のオーバーグラウンドの活動に豊かなフィードバックを供給してきた。この時期に佐野がまとまった形でポエトリー・リーディングのライブを行ったことは、それだけオーバーグラウンドでの音楽活動を推し進めて行く上で深刻な問題を抱えていたことの表れだったのかもしれない。
「In Motion 2001 植民地の夜は更けて」と題された2001年のライブでは、井上鑑を編曲者として音楽面のリーダーに迎え、山木秀夫(ドラム)、高水健司(ベース)、山本拓夫(サックス、フルート)といったプレイヤビリティの高いミュージシャンを揃え、『ふたりの理由』や『ブルーの見解』といった既存の楽曲や「エレクトリック・ガーデン」からの『Sleep』『Dovanna』などと合わせて、1980年代に発表された「エーテルのための序章」(第9回参照)からのテキストなどを披露した。
2003年11月のライブ「in motion 2003 『増幅』」では、ベースに美久月千春を起用、サックスに代えて金子飛鳥のバイオリンをフィーチャーした。やはり井上鑑のアレンジによって「エーテルのための序章」を中心にしたパフォーマンスを見せた。
「歌」や「曲」としての輪郭が窺える『ふたりの理由』や『ブルーの見解』から、バック・トラックとライムがリズムの一点でフックする『Sleep』『Dovanna』を経て、「エーテルのための序章」からのテキストでは、散文がバック・トラックと時に寄り添い、時にぶつかり合いながら、時に共鳴し合い、時に激しく火花を飛ばしながら、偶発的な喚起力を獲得して行く。
オーディエンスもパッケージとしての「歌」や「曲」を楽しむ通常のライブとは異なり、そこに形成されるより一回性の強い表現の緊張感、何が起こるか分からない偶然性を体感することになる。それはスリリングでエキサイティングな体験ではあるが、同時にそれに向かい合う体力や精神力を強く要求される営為でもある。
佐野自身もおそらくはふだんのライブとは異なる神経のすり減らし方をするこのライブで、しかしそれでも自らの表現を厳しく問い直し、その衝動を更新し活性化することを佐野は切実に欲していたのだろう。
このポエトリー・リーディングという手法は、伏流として佐野の表現活動の深部に横たわり続けてきたものであり、この後にも引き継がれて行くもの。佐野がその表現を老成させず、最前線を走り続けることができる背景にこうした尖鋭的で継続的な取り組みがあることは見逃せない。
これらのパフォーマンスの様子は、その後ライブ・アルバムとしてリリースされている。迷走感の強かったこの時期の活動の中で、ファンに対して唯一しっかりとした手ごたえを残したものがあったとすれば、それはこのポエトリー・リーディングへの取り組みだったのではないだろうか。

居心地の悪いライブ

この時期、佐野は通常のライブ・ツアーもいくつか行っている。
佐野はそれまでも何度か、活動の方向性を見定めようとするときや、何かの手ごたえを確かめようとするとき、新しいアイテムのリリースなしにライブを行い、そこでオーディエンスと直接相対することによって進路を切り拓いてきた。アルバムのレコーディングが中断と再開を繰り返しながら、いつリリースできるとも知れない長期戦に突入していたこの時期にも、佐野は何本かのツアーをこなしている。

2001年にはレコーディング中断後の6月から7月にかけ、「Rock & Soul Review」と題して大阪、仙台、東京、福岡、名古屋の5か所で8回の公演を行っている。それまでの小田原豊に代わって古田たかしがドラムを担当、サックスの山本拓夫、コーラスのメロディ・セクストンを加えたメンバー。過去のナンバーのアレンジを変え、曲によってはジャム・セッション的に尺を伸ばして演奏したこのツアーには、ファンの間にも賛否があった。後に『君の魂 大事な魂』と改題される『Sail On』などの新曲も披露された。

翌2002年9月から10月には、東京、大阪、名古屋、横浜の4都市でファンクラブ会員限定のライブが行われた。「Plug & Play '02」と銘打たれたこのツアーは、久しくライブで演奏されることのなかった『TONIGHT』がスロー・ファンクのアレンジで歌われるなど、通常のツアーとはかなり手ざわりの異なった、フレンドリーなステージであったが、ファンクラブ限定というやり方自体に対する違和感も含めて議論があり、開かれたライブとは言い難かった。
僕はこの年の4月に7年間暮らしたドイツから帰国、渡独前の「ザ・サークル・ツアー」以来9年ぶりにこのツアーで佐野のライブを見た。10月10日、ZEPP東京でのライブについて、僕はこんなレビューを書いている。

「新しい世代、新しいファンを強引に引きつける闇雲なスピードや力は残念ながら感じられなかった。この日、佐野とファンはある種の共依存関係にあったと言ってもいいかも知れない」
「僕にはそのファンクラブ限定というやり方そのものも含めて、この日のライブにとても閉鎖的なものを感じずにはいられなかったということなのだ」
「この次は正式なツアーで、開かれた佐野の、何の前提もなくただたたきつけるようなライブを見てみたいと思った」

2003年には5月から7月に、「THE MILK JAM TOUR」を敢行。15回に渡る久しぶりの本格的な全国ツアーだった。このツアーではアルバム「VISITORS」からの曲が多く演奏されると同時に、後にアルバム「THE SUN」に収録されることになる『フィッシュ』(後に『観覧車の夜』と改題)、『ブロンズの山羊』(同じく『DIG』)などの新曲も披露された。
7月12日に渋谷AXで行われたライブではアクシデントがあった。曲が終わってMCに入るところで、客席から男性の声で「20年前と同じことやってんじゃねえよ」というヤジが浴びせられたのだ。佐野はとっさに「昔の曲をやるけどもそれは懐かしんでやるんじゃない、今を楽しむためにやるんだ」と応じてライブを進め、その後はトラブルもなかったが、この日のライブは居心地の悪いものになった。
それはおそらく、このツアーが今ひとつ焦点の絞り切れないものであったことにも関連している。レコーディングを続けながらも新譜が出ない中で、既存のマテリアルを繰り回しながら続けるライブには、アップ・トゥ・デイトなパフォーマンスとして、最前線の表現としての説得力が明らかに欠けていた。この日のライブ・レビューでは僕はこう書いている。

「少なくともロックンロールである以上、その表現はオールドファン以外のリスナーにも等しく開かれたものでなければならないだろう。(略)『昔の曲』は、それをこれまで共有してきたファン以外のオーディエンスにも果たして開かれていただろうか」
「ライブ全体の構成、ファンの盛り上がり方は、結局、20周年に乗じてギターやら皿やら酒やらを売りつけたあの共依存的なもたれかかりと変わらなかったのではないか」
「素直に歌って踊って『ストレスを発散』すればいいのかもしれない。しかし、そうした繰り返しの結果、ツアーの規模は次第に縮小し、今回のツアーでは神戸のような大都市でホールに空席が目立つような事態になっているのも事実だ」
「極論すれば、今のファンを全部捨てるくらいの覚悟で自分の表現を『切り開いて』行かないと、その声の届く範囲は次第に狭くなる一方だろう。(略)釈然としない思いは、帰り道に寄ったバーでビールを飲んでもなかなか消えることはなかった」

この時期の佐野の声の問題も避けて通れない。アルバム「THE BARN」の頃から、佐野のボーカルには明らかに異変が感じられた。中高域の伸びやかな声が出なくなり、シャウトも十分にできていなかった。弱々しいファルセットで声を絞り出すか、キーを下げるか。いずれにしても長年のファンの間からすら「ファン以外には聞かせられない」との声が半ば公然と出るほどひどい状態だったのは衆知の事実だ。アルバム「Stones and Eggs」での『石と卵』が不自然なファルセットで歌われたのも明らかに声の変調が理由だと思う。
この2001年から2004年のアルバム「THE SUN」のリリースまでの間、佐野はレコーディング、ライブ、ポエトリー・リーディングとトライアルを重ねながらも、レコード会社とのコミュニケーションや自身の声の問題などで、先の見えない苦しい状況にあったことが窺われる。それまでならファンとの直接のコミュニケーションとして佐野に指針を与えるはずのライブの場も、「いつも通り」こぶしを振り上げシングアロングする無批判で従順なファンと、声の変調やむやみに長くなり「歌」としての直接性を失って行く演奏に違和感を抱く者とに二分され始めた。佐野がこうした状況から脱出し、長かったレコーディングの結果をアルバム「THE SUN」としてリリースするまでには、2003年末から2004年前半にかけて、さらに紆余曲折を経る必要があった。


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