「身内に不幸がありました」

きょうは、祖父の四十九日だった。

やさしくて穏やかで、頭がよくて、ゴルフと歌が上手で、祖母と家族が大好きな人だった。
私の名前をつけてくれたのも祖父だった。自分のお母さんと奥さんの名前を組み合わせた祖父らしい素敵な名前を。

美味しいものを食べに行くときは、決まって一番美味しいところを私にくれた。私には妹がいて、だけど、私の方がよく食べるからいつも私がもらうのであった。
祖父は家具屋だった。家具が大好きだった祖父は、定年後も自分なりにデザインの仕事を続けた。勤勉で丁寧で器用な祖父が書くスケッチと図面は、それはそれは美しいものだった。私が建築を学ぶきっかけに、少なからずなっている。

祖父は家族を、とりわけ祖母を、大事にする人だった。クリスマスと正月は必ず親戚一同集まり、まぐろやローストビーフなどのごちそうを食べた。夏休みは祖父母の軽井沢の別荘に3人の息子の家族が順番に訪れ、都会の喧騒から距離をおいた静かな夏休みを過ごした。
祖父と祖母は、恋愛結婚だった。留学中のアメリカで出会ったらしい。賢くてきちんとした祖父と適当で騒がしい祖母は、小さなことで意見を対立させては全く噛み合わない討論を繰り広げ、最終的には外野に同意を求めるのである。どちらにも同意できない外野は「まあまあ」と適当になだめて話題を変えるが、その新しい話題でもまた同じことを切り返す。これは喧嘩というより戯れているという感じであり、とても微笑ましいやりとりであった。
祖母を大事にするといっても、祖母にとても優しいというわけではなく、祖母の一歩前を歩いて道を開いていくようなスタイルだった。しっかり者の祖父は、年賀状をはじめとする家庭内での"仕事"をすべて担っていた。大雑把な祖母に代わって、迅速にかつ丁寧にものごとを進めていた。

4-5年前、がんを患い人工肛門をつけるようになった。
美食家な祖父であったが、食べられるものが制限されるようになり、量も減るようになった。コロナが蔓延し始めた2020年、小さな体調不良を繰り返し入退院を繰り返した。退院して会いに行く度、少しずつ、しかし確実に痩せていく姿を見て寂しくなった。
それでも祖父は、大好きなゴルフを続けたい一心でリハビリに励み、毎日散歩に出かけ、家ではゴルフの素振りをし、できる限り食べるようにし、少しずつ回復していった。2021年はたった1回の短い入院を除き、元気に過ごすことができた。クリスマスには例年通りごちそうを食べ、みんなで写真を撮った。
2022年、祖父は引き続き元気だった。正月には祖父が全員の近況にコメントし、祖父が名前を書いた箸袋に入った箸でおせち料理を食べた。
成人の日には、振り袖姿を見せに行って写真を撮った。とても喜んでくれて、二次会を蹴って祖父母に会いに行って正解だと思った。
夏休みに姉妹2人で軽井沢に訪ねたときには友達と外食し、ゴルフをし、別荘に帰ってくると私たちの話を楽しそうに聞いてくれた。食事のときに部活の話をすると、祖母が「部活が忙しくて帰るのであれば、私何回だって危篤になるからここ(軽井沢)に残ってもいいのよ」と引き止めた。祖父はとなりで笑って聞いていた。そのとき私は、学生スポーツをできるのはあと2年足らずだから、それが終わったらもっと祖父母と過ごせばいいと考えていた。祖父に会ったのはこれが最後になった。
秋、部活の試合があってなかなか顔を出せずにいた。ちょくちょく体調を崩してるとは聞いていたものの、あまり大事とは捉えずに、ひたすら部活に集中していた。11月に茶道の稽古で祖母に着付けを頼む機会があり、祖父母の家に訪れたときには祖父は入院していて、祖母は気を落としていた。帰宅後祖父に電話をすると、今日は今までで一番調子が悪いと言っていた。話したいことはたくさんあったが辛い思いはさせたくないと、短い会話で電話を切った。後日、茶道のときの着物姿をLINEで送った。すぐに既読はついたのに返信はなかった。
それから2週間後に、先輩の引退試合があった。土曜の午後に1試合、そして日曜の午前の試合で引退だった。
その土曜の朝、両親が祖父の見舞いへ行くと出かけて行った。そのときは、普通のお見舞いの予定だった。数時間後に私も試合のために出かけた。電車でうとうとしていたら携帯がなった。父から、祖父の訃報のLINEだった。
あっさり逝ってしまった。シーズン後のOFFにお見舞いに行く予定だったのに。一度は会えると思っていたのに。危篤で休むこともなく。こんなにすぐに逝ってしまうと知っていたら、夏休み中はもっと軽井沢にいたかった。秋だって試合を放り出して会いに行けばよかった。でも成人式のときは振り袖姿を見せられてよかった。11月あたまに電話しておいてよかった。
色々な想いが頭の中を駆けめぐり、電車で泣いた。正直試合なんてどうでもよかった。とはいえ今日明日の試合はふつうの試合ではなくて引退試合。強がりな私は何事もなかったかのような顔で試合に臨んだ。それっぽい笑顔も作れたし、試合に集中してるように見えていたらしい。土曜も日曜も、試合とかその前後のことは今でもあまり思い出せない。
試合のあとはOFFだったし、文化祭休みで授業もなかったので通夜葬儀が落ち着くまで祖父母の家に泊まることにした。
2ヶ月ぶりに家に帰ることができた祖父はすっかり痩せ細ってしまっていたが表情は穏やかで、祖母はそんな祖父に生きていたときと同じ声かけをしていて、私もそうした。悲しくて悲しくて堪らなかったけど、祖母が涙を見せないから私も泣かないと決めた。
翌日からは弔問対応で忙しかった。お茶を運び、祖父の友人の思い出話を聞き、お花やお供えの名簿を作り、祖父のためにできることを、と私なりに尽くした。通夜葬儀でも受付をした。家族葬だったので本当に身近な人しかいらっしゃらなかったが、ちらほら見えるため部屋の一歩外の受付でお経を聞いた。遺影を直視できなかったからちょうど良かったと思う。
葬儀の、最後のお別れの時、お花をいれながら祖父の顔をなでてお別れをする祖父の友人を見たときにしばらく我慢していた涙が止めどなく溢れて止まらなくなった。自分がお花を入れる頃にはもう十数年ぶりに人目を憚らず声をあげて泣いた。棺桶の中で花に囲まれる祖父はもう二度と目を覚まさなくて、これから火葬されてしまう。もう私の知っている祖父ではなくなって骨になってしまう。身近な人の死という不可逆がこんなにも辛くて悲しいことだと知らなかった。喪中はがきの「去る◯月◯日に◯歳の祖父が逝去しました」というよく目にする一言が、ここまでの悲しみだとは知らなくて、「身内に不幸がありました」がここまで重いものだと知らなかったから、これまで適当にあしらってしまっていた喪中はがきに対しての申し訳なさも含めて泣いた。

葬儀が終ってしばらくはもぬけの殻であった。学校の課題もまともに出せず、部活の仕事も疎かになり、新チームに向けたミーティングにも参加できず、人前でちゃんと笑えなくなった。特に部活に対しては、引退試合の時に祖父への気持ちを押し殺していた反動からか一気に興味を失ってしまい、一番どうでもよくないはずのものが一番どうでもよくなってしまった。

きょうは祖父の四十九日で、祖母の誕生日。そして祖父の2回目の月命日は祖父の誕生日である。さらに先日の最初の月命日は、長男の誕生日であった。どこまでも家族が大好きな祖父が今日からお墓に入った。

じいじが安心して天国で暮らせるように、部活も勉強も、これから少しずつ挽回するからさ、今まで通り、ずっと背中を押してよね。これからもずっと大好きです。

#おじいちゃんおばあちゃんへ

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