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【記憶より記録】図書館頼み 2306#2

 ほんの数日前に 55歳 を迎えてしまっていた今日この頃 … 。
 今更、特別な感慨も何もありませんが、分節の時なればこそ「時間だけが公平」という極々当たり前の事実を噛みしめながら過ごしておりました。
 
 さて、毎度遅れがちになってしまう「図書館頼み」を綴っていこうと思います。此度は、6月下半期の借用本の備忘録を … って、もう既に7月ですけれど … 。お時間の許す方は、どうぞお付き合いください。

1:〔 増補 〕 大江戸死体考 
  著者:氏家幹人 発行:平凡社

題名からグロテスクな本に思えるかもしれないが、内容は至極真っ当。
但し、綺麗にラッピングされた映像や情報に慣れ親しんできた私たちにとっては、見るに堪えない絵図、そして耳馴染みのない文言が並んでいることだけは確かである。
確かに、一般的にはタブー視されるようなテーマではあるけれど、出元のしっかりした資料を提示しながら、明晰な言葉で淡々と語り切っているところに、著者のユーモアさえも感じてしまうのである。

本書の軸になるのは、ヒトキリ アサエモン(山田浅右衛門)なる、試し斬り刀剣の鑑定を稼業としてきた人物。
もっとも、彼の場合は、徳川幕府公認(御様御用)の ” 最後の斬り手 ” として、試し斬り業界の利権?!を独占した御仁である。この幕府公認という点がミソで、それが為に、信憑性の高い資料から市井の人々が交わした噂話までと、ネタには事欠かないのだ。

浅右衛門を「特異な存在足らしめているモノの正体」を自分なりに考えみたのだが、それはやはり、彼の稼業が内包している「穢れと誉れ」にあるという結論に至った。それは羨望と嫉妬とも言い換えられるだろう。
この正反対のベクトルがもたらす絶妙な評価のバランスが、浅右衛門やその家族(家系とも)をより魅力的に仕立てている様に思われてならない。
(巻末には「人斬りの家・女の家」が付録されている。非常に面白い。)
 
こうした主題とは別に、好奇心が反応した点がある。
それは、僅か数百年前の日本において「死体(遺体)の処理に対する鷹揚さ」が際立っていたという事実だ。(特に水死体の割切り方は凄い)
かような決め事を運用せざる得なかった状況を鑑みると、厳正な処理が不可能なほど日常茶飯に死人が出たとも言えるし、はたまた、処理・手続きを簡略化するための方策であったのかもしれない。あるいは、武士が試し斬り(刀の品質の確認)をするための方便だったとも言い得るだろう。(いつの世も、為政者の都合が万事に優先するのである。)

この様な当時の状況や事実を知るにつけ、日本人が遺骨に拘るようになった歴史的変遷と、その境界に興味を覚えるのである。(土葬の慣習を止めたこともきっかけのひとつなのかもしれない。)


2:混浴と日本史
 
 著者:下川耿史こうし 発行:筑摩書房 

非常に芳ばしい一冊となった。風俗史家なればこその本だと思う。
冒頭「はじめに」で、川端康成の「伊豆の踊子」の一場面をもってくるあたりに、著者の豊かな情緒性が伺われる。よって、私の様な単純な読者は、酩酊状態のままに、著者が構築した混浴の世界に導かれるのである。
※古き良き時代の絵葉書(モノクロ写真)の味わいも堪らない。

内容は「看板に偽りなし」の一言に尽きる。
我が国で「混浴」に関する記述が初めて登場する「出雲風土記」から始まり、現代の混浴事情まで丁寧に辿っている。

特に、銭湯の「ざくろ口 」について、多角的な言説を求めていた私にとっては、中世以降を著した第4章以降に学びが多かったと感じる。
機能性・意匠性・宗教性の観点から醸成していった「ざくろ口」が、明治以降の銭湯における正面玄関の意匠(社寺仏閣風の意匠)に受け継がれいったという経過に合点がいった。

また、その豊潤さにおいて抜きんでいたのは第6章(明治期)である。
明治新政府の所業に対してある種の嫌悪を感じている私にとっては、その悪臭の発生源が何処にあるのかを確認することができたように思う。
本来であれば気にする必要のない外圧(来日する外国人たちの価値観)と、羞恥と自嘲を伴った歪な内圧により混浴が禁じらていく過程にあって、市井の人々がとった行動や、異文化を理解しようとする外国人の存在が殊更に光って見えた。その中に、私が敬愛するエドワード・S・モースの名前を見つけられたこともまた、安堵に繋がる場面になってくれた。
(再度借用予定)

さて、箸休めにもならぬ余談をひとつ。
私の 混浴初体験(幼児期を除く)は、富山県は朝日町にある小川温泉が舞台となる。何の因果か、野郎3名で訪れたのが、渓流沿いの崖べりに設けられた混浴を謳う露天風呂だった。(MTBでヒルクライムした後だったので、3人とも太腿が乳酸でパンパン状態だった。)

混浴とは知らずに向かった先の温泉が ” かくの如き ” とあらば、幾許かの躊躇と共に、曰く難い滾りたぎりを覚えるものだ。それがたとえ、完膚なきまで疲労困憊していたとしてもである。
然るに、運命共同体が形成されるのに時間は要さなかった。

しかしながら、湯気の向こうに見え隠れする女性らしき先客の存在によって、即席の運命共同体は脆くも空中分解。悲しいかな、一気に烏合の衆よろしく挙動不審な少年 A・B・C へ変身してしまったのであった。

そんな若者達の気配を察しても動揺を見せぬ婦女子2名。そんな彼女たちが醸す受容の雰囲気に安堵しつつも、武骨で小心者の A・B・C は「本当に申し訳ないです。」「ずっと川の方を見てますんで … 。」「離れて入りますから安心してください。」と陳謝と言い訳を口にしながらお邪魔したのであった。(とは言え、鼻の下は伸びきっていたに違いあるまい。)

思いがけず体験してしまった混浴に対する野郎たちの感想は「混浴っていいな … 。」で一致をみたのであった。
社会人1年目の五月の話である。


3:ダムに沈んだ村の民具と生活 
  著者:宮本常一 編集:田村善次郎 / 香月節子 出版:八坂書房

本書は、広島県の土師ダム(昭和49年完成)の築造に際して水没することとなった土師村で使われてきた民具や生活の様子を記録した資料である。
要所を的確に押さえた絵図と記録写真で構成されており、それらは、宮本常一が提唱した「機能別分類法」によって分別整理されている点が芳ばしい。

既に幾度となく借用してきた本なので、今更感想も何もあったものではないのだが、この本を手にして感じてきた事柄について記しておこうと思う。

その事柄とは、写真や動画よりもスケッチの方が「記録として優れている」というケースがあるという事例を指す。
無論、資料化するというモチベーションのもと撮影した写真や動画の優位性は語るまでもないだろう。しかし、環境や状況が多岐に渡るフィールドワークにおいては、スケッチという古典的な記録方法は侮れないのである。
(※写真のプロ・愛好家の皆様は、くれぐれも誤解なきよう。もっとも、真のクリエイターなれば、一応の理解を示して頂けると存じ上げます。)

因みに、私の本業(建築設計)でも、特に作図においては、CAD(2次元・3次元含め)を用いることが当たり前になって久しい。こうした時代の変化と共に、人間の能力は劣化の一途を辿っているように感じられてならない。(進化と退化は表裏一体なのだから仕方がないとも言えるが … 。)
殊に、環境・状況を問わず、そこそこ精緻な原寸図や納まり図を、フリーハンドで描画・図示できる人間は明らかに減った。(スケールを意識しながら、ストレスなく白紙に筆を走らせらることができる人間は、更に少なくなったと思われる。)

今一度、ササっと手を動かせることの優位性を認識する必要を感じる次第。自戒を込めて … 。 

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