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【思い出ぼろぼろ】大人を信頼できる存在として認識させてくれた出版社の御仁

 齢五十を越えてなお、「 大人 」という言葉の意味するところについて考えることがあります。
 そうした時に、必ず思い起こす人物(男性)がいます。その御仁とは会った事もないので、顔は勿論のこと、声色すら分かりません。
 ただ、凡そ40年前に、彼の聡明で温かい人柄に触れたという事実だけが、僕の記憶の中に深く刻まれているのです。

 振り返れば、小学生の時分から、冒険記や探検記といったドキュメンタリー性の強い物語に心酔していたように思います。
 例えば、インディージョーンズのモデル(複数存在するようだが)になったとされる ロイ・チャップマン・アンドリュース のゴビ砂漠における一連の活動を描いた「恐竜をもとめて」や、トーイ・ヘイエルダールらによる命を賭けた壮大な実験記録「コンチキ号漂流記」といった本は、必ず枕元に置いて寝ていたくらい大好きでした。

 こうした読書傾向は、ある程度の振幅を保ちながら現在まで続いています。正に ” 三つ子の魂なんとやら ” という奴ですね。
 その過程で、僕は冒険SF小説家のジュール・ベルヌに出会い、ノンフィクションとは異なる醍醐味を知り、更には、彼の ” 未来を先に見てきたかの如き先見性 ” に触発されたわけです。

 がしかし、悲しいかな … 。
 ベルヌの作品は、児童文学と認識されていたことにより(もとより冒険SFは低俗に見られていた。)読者層も限定的であったし、そうした理由が影響したのか、日本語に翻訳された作品自体が少なかったのです。

 故に、当時(1978年〜1980年初頭)書店で買い求めることが可能だったジュール・ベルヌの作品(地底旅行・月世界旅行・グラント船長の子供たち・海底二万里・八十日間世界一周・神秘の島・二年間の休暇)を全て読み終わった僕は、未知なる刺激を探して推理小説の世界(ドイルやポー、チェスタトン等々)へ没入していくことになります。
 けれども、人生経験の乏しい高校生時の僕は、外国作家による推理小説という知的でアダルトな世界に疲れを覚えることが度々あって、そんな感覚に陥る度に、ベルヌが描いた緻密で科学的で知性に富んだ冒険活劇を懐かしく思い起こしていたのでした。

 そんな折に手にした創元推理文庫の巻末(図書目録)で、ベルヌの作品が記載されていることを知ったのです。
 それは今まで見たことも聞いたこともない作品名でした。 
 僕は、高校からの帰り足で K堂書店(仙台の老舗書店)へ立ち寄り、目録に記されていた「必死の逃亡者」「オクス博士の幻想」「サハラ砂漠の秘密」「動く人工島」「悪魔の発明」の6冊を注文しました。

 本が届くのを待つ時間の楽しみなことよ … 。
 しかし、1週間後に僕の元に届けられたのは「既に絶版していてお取り寄せできない。」という杓子定規に過ぎる悲報だったのです。
 僕が落胆したことは言うまでもありません。
 でも、何かしらの手立てがあるはずだと考え、市内にある2,3の古本屋(当時の仙台には少なかった)にも出向きましたが、やはり見つけることが叶わず途方に暮れてしまったのでした。

 そして、高校1年生の初夏を迎えた頃、突然ひらめいたのです。
 「東京創元社に手紙を出してみよう!」と。
 その手紙には、開口一番にジュール・ベルヌのファンであること、そして創元推理文庫の推理小説を沢山読んでいることを綴り、今は絶版になっているというベルヌの作品で在庫している本があれば売って頂けないだろうかという具申を、それは拙くも熱くるしい文章を記した … はずです。
 
 世間知らずとは恐ろしいものです。
 手紙を書いている時は、至って真っ当な申し出をしていると思い込んでいたものの、ポストに投函してから心持ちが大きく変化しました。
 何かしら不遜なことをしてしまったかもしれないという思いと、恐らくは真面に取り合ってもらえないのではないかといった疑いの気持ちが頭をもたげてきたのです。

 しかし、それは僕の杞憂に過ぎませんでした。

 手紙を送ってから1ヵ月を経ずに、僕の手元に茶色い蝋引き紙で包まれた荷物が届いたのです。
 荷物の上面に「東京創元社」の名を見つけた僕は勇んで開封しました。

 硬い蝋引き紙の中から出てきたのは「動く人工島」「悪魔の発明」「サハラ砂漠の秘密」の三冊でした。 
 そして本の間に、丁寧な文字で綴られた手紙が挟まっていました。
 内容は断片的にしか覚えていませんが … 。

 君がベルヌを好きでいてくれて嬉しい。
 君が所望した6冊の本は確かに絶版になっている。
 その中で3冊だけ在庫があったので君に贈る。
 勿論、代金は無用だ。
 これからも本を好きでいて欲しい。

 といった事柄(もっと優しい文章)が記されていました。
 
 今になって振り返ると、この出来事を境に、僕の中の大人に対するイメージが大きく変わっていったように思われるのです。
 つまりは、世の中には信頼に足る大人が確実に存在し、そういう大人に出会えれば、何事かが動き出すという好例に出会うことができたと … 。
 そしてこの出来事は、15、6歳の僕が、学業や職業といった具体的な将来ではなく、「大人になる」という抽象的な未来を描き始めるきっかけを与えてくれたと言えましょう。

 あの出来事から40年近く経とうとしています。
 人間は死ぬまで善人でいられる保証はありません。
 けれども、本という賢明なる媒体を介して得た ” 聡明で温かい大人 ” との淡い邂逅を懐かしめる歳になった今の僕が感じているのは、あのような素敵な出来事によって、大人になる事を怖がらず、且つ大きく道を外さずに人生を歩んでこれたという安堵と、ささやかな幸せなのです。

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