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ドイツ語と日本語の間で 〜複数の言語と共に生きる〜

ずっと積読本となっていたKübra Gümüşay執筆のドイツ語の本"Sprache und Sein"を2日ほど前から読み始めて、まだ3章に入ったところなのですが、2章がとても良かったので、この2章に書かれていたことを自分と重ねて考えてみたいと思います。

まずこの作品についてですが、作者のGümüşay氏はトルコ系ドイツ人ジャーナリストで、この本ではそのタイトル通りことばとアイデンティティや社会、フェミニズムなど多様なテーマを取り扱っていますが、文体自体はとても詩的で美しい文学的な要素も感じられる、そんな本です。Gümüşay氏自身トルコ語、ドイツ語、アラビア語、英語の中で生きてきており、"Die Macht der Sprache"(ことばがもつ権力)とタイトルがつけられた第1章では、タイトルから感じられる政治的議論の雰囲気とは異なり、非常に身近なテーマで「一対一で訳せない表現」の話に始まり、ことばと力(Macht)についてつながっていきます。またここでは日本語の表現「木洩れ陽」が取り上げられており、確かに木洩れ陽をドイツ語で一言で言えって言われても難しいし、きっと「木洩れ陽」ということばから私たちが感じる情景を伝えることはできないなあと、私自身は思いました。

さて、まだ全部は読み終わっていないけれど、2章 "Zwischen den Sprachen" を取り上げながら、自分の中ではどうなのだろうかということを考えてみたいなと思います。つまり備忘録とかほんまもんのnoteですね。

この章ではまず著者自身の多言語環境のことが触れられており、その後様々なマルチリンガル作家の作品や発言を取り上げながら、作家の思考する言語や作品を作る言語に関する思い、自分の母語を話してはいけないという環境での人々の苦痛とそれが多様性にもたらし得る危機、マルチリンガルと言ってもその使える言語によっては必ずしも社会的な強みとはならないこともあるということなどが語られています。後半部分もマイノリティ言語の研究に携わる自分にとってももちろんとても重要でズシッとくる内容なのですが、今回は特に前半部分の「多言語の中で生きるということ」にフォーカスします。

Gümüşay氏は自身の使う言語について以下のように述べています。

Türkisch ist für mich die Sprache der Liebe und Melancholie.
Arabisch ist eine mystische, spirituelle Melodie.
Deutsch die Sprache des Intellekts und der Sehnsucht.
Englisch die Sprach der Freiheit.

Gümüşay, Kübra (2021): "Sprache und Sein." Hanser Berlin: München. S.30.

筆者はトルコ語を母語と認識しており、ドイツ語は第二言語とでも言えるかと思います。家庭の中でトルコ語を身につけトルコ語で家族からの愛を受けた一方、ドイツ語については"Im Deutschen wurde ich gelehrt und belehrt."とあることからも、外で教育を受けドイツ社会で生きていくにあたって教わった言語という意識があったようです。とはいえ、"die Sprache der Sehnsucht"(憧憬を抱く言語)からもわかるように、ドイツ語に対し自分のものにしたい、自分の居場所を感じたいと筆者自身が思っている言語こともわかります。

アラビア語はというと、コーランの言語であり筆者自身の宗教と関わりを持ち、これもまた自身と切り離すことのできない言語なのでしょう。英語は、イギリスに住んでいた際、筆者がある時期第二言語であるドイツ語に対して感じていたようなプレッシャーを感じず、自由でいられる、でも憧れは感じないそういう言語だったそうです。

これは何も異なる言語を話す人々だけでなく、恐らく異なる変種(一般に言われる方言)を話す人々にも言えると思います。言語も同言語内の変種も併せて私について考えてみたいと思います。

私が使う言語は日本語(若干関西アクセントを持つ単語がありながらも標準語がメイン)、ドイツ語、英語、それに加えて韓国語、ルーマニア語も今回は含めたいと思います。ただ、ルーマニア語は読み研究でたまに参照する言語という程度なので、話すということを意識していません。自分の中で自己表現を意識していない言語なのでしょう。韓国語の方は、英語ほど話せなくてもこの言語を通じて友人を作り、この言語に英語よりも親しみを持てる近くて遠い言語とでも言っておきたいと思います。これからもその距離感を保ち続けるのだろうし、自分が仮にドイツ語ほど自己表現ができなかったとしても、その中に見える風景とかはなぜだかわかる、そんな不思議な関係です。

さて、私にとっての母語は間違いなく日本語であるのですが、この言語で感情をむき出しにできるかどうか、私にはわかりません。多分喜怒哀楽を感じることはできます。だから日本語の作品に触れて泣くこともあるし、笑うこともあるし、怒ることもある。でもこれをこの言語で表現することを知らないような気がしています。日本語は私にとって母語で、日本語の「木洩れ陽」という単語をみたり聞いたりした時に感じるものはあるのに、なぜか私には日本語で人を愛しているということを伝えることがあまりうまくできない。母語でもそういうことを学ばなかったのかもしれません。もしかしたら私の知っている日本語は言語外で感じる、そういうところが大きいのかもしれません。ただ思考は日本語でしてきたのだと思うし、何か外国語で聞いたことや読んだことについて自分で考えをまとめてみようとすると、日本語の方がしやすいような気はします。こういう記事を書くのも日本語の方が自分の思考を圧倒的に整理しやすいと感じます。

何せ日本語標準語が母語なものだから、いわゆる方言に感じる憧れというのは昔からとても強かったと思います。だから今言語学に従事し、言語を常に観察しているのでしょう。ドイツへ来る前に3年ほど京都に住んでいましたが、この時の私には京都で話される方言がとても新鮮で毎日人々の話し方を観察していました。京都だけに限らず、他の地域で話される日本語の変種への憧れが多分異常なほどの執着になっていると思います。好きで好きでたまらないのです。ただ、さまざまな方言が完全に自分のものになることはない、とも感じています。だからこそ執着してしまう。ただし、私の中に取り込まれた一部の関西アクセントは、間違いなく私のものです。

ドイツ語と私の関係はきっとGümüşay氏とドイツ語との関係とは全く異なるもので、それはなぜかというと私がドイツ語を学ぶことを自主的に選択したという点にあると思います。私にとってもドイツ語はもともとdie Sprache der Sehnsuchtだったと思います。でもその根本的なSehnsuchtは、少なくとも私がドイツ語を学習し始めた最初の時点では、Gümüşay氏のそれとは異なっていると思います。ドイツ語は私にとって憧れの言語です。絶対にこの言語を話せるようになりたい、この言語を使いこなせるようになりたい、erlernenが目標だったのでしょう。ただ、目標とするこのerlernenのレベルが最初の時点では非常に表面的であったと思います。話せるようになりたい、使えるようになりたい、というのは実はとても曖昧なもので、「生活で使えれば良い」「仕事で使えれば良い」というものから「この言語で自分の感情を表現できるようになりたい」「この言語で人との関わりを深められるようになりたい」などさまざまなレベルにさらに分けられると私は考えています。

私としては最初は漠然としたerlernenが目標でした。相手が言っていることもわかり、私も相手にとりあえずのところ言いたいことを伝えられるようになりたい、そんな程度だったと思います。むしろそこまで考えてなかったんじゃないだろうか。しかしいつの頃からかドイツ語を母語とする人と出会い、その内の一人に恋愛感情を持つようになったあたりから私とドイツ語の関係は変わりました。ドイツ語が単に学習している言語ではなくなり、ドイツ語で自分をより色を持って表現したい、自分の愛する人がその人の母語で見てきた、あるいは見ている世界を私も知りたいと思うようになったのでした。書いていてだんだん恥ずかしくなってきました。

そしてそんな風になってから、日本語では難しいと感じていた自分の感情をむき出しにするということ、人にぶつかっていくということができるようになったように思います。だから私にとってドイツ語は自分を解放できた言語なのでしょう。自由を感じると言っても良いと思います。だから私にとってドイツ語はdie Sprache der Freiheitであり、かつきっとこれからもまだまだ感情表現や自己表現にあたって学んでいく単語や言い方など増えていくということで、SehnsuchtもHoffnungも感じる言語だと思います。

それでは英語はどうだろう?と考えてみると、日本やドイツで生きていくにあたり、今の時点で私には必要というわけではないので、belehrtという感じではないと思います。英語は学校教育の中で学び、その言語能力が試験され、その言語能力で上下の評価をつけられた、ということで私の中では機械的で冷たい存在になってしまっていました。私と英語は犬猿の仲だったと言っても良いかもしれません。できないわけじゃないんです。むしろ結構できてきたんです。でもなんか仲良くなれない、そういう言語です。多分今でも普通にそこそこ使えるんですが、そこに何か憧れとか自由とか絶対に自分のものにしたいという意志や思いを見出すことができない、道具のような感じがしています。英語を話すことで仲良くなった人や関わりを持つようになった人々もいるので、そういう意味では昔ほど嫌な関係ではなくなりました。でもこの言語ができる・できないというのが評価され続けてきた経験がああるので、どうしても距離を一気に縮めることができない、そんな言語です。

ただ、英語で作品を楽しんだり、笑ったり、びっくりしたりすることはできるんですね。つまり受容することはできる。それをアウトプットするのは英語では辿々しいように感じます。正しくアウトプットできているのか不安になるし、仮にできていたとしてもその表現が私の思いをきちんとrepräsentierenしているかは自信がないし、そういうWortgefühlのようなものがないのですね。複雑な関係です。

今回は本当に自分語りするだけのnoteでしたが、これを読んでくださった皆様の母語、また、ご自身が話す言語との関係はどんなものなのか是非いつか聞いてみたいものです。

そしてこの"Sprache und Sein"とても面白くて、また考えさせられる点も多いので是非ことばに興味のある方でドイツ語がわかる方がいらっしゃったら読んでみてください!

*画像はyukiko0110さんからお借りしました。ありがとうございます。

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